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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第8章:寄り添う安息

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第75話:静かなる波紋 ―白い亡霊の気配―

 夜露を吸った薔薇の香りが、まだ湿り気を残したまま回廊の奥から流れ込んでくる。

 長い食卓のクロスには、磨き上げられた銀器と薄青い硝子器が、静かな光を宿している。

 城の朝は、相変わらず穏やかだった。


「湿気が多い季節は、銀器がすぐ曇るんだよなぁ」


 ピピは焼きたての黒パンを手際よく並べながら、誰にともなく小言を零す。

 アマンダは窓辺に摘んできたばかりの白い花を飾って、その花弁を楽しげに指先で揺らしていた。


 ルシアンは椅子へ深く腰掛けたまま、気怠そうに冷水を口にしていた。

 濃藍色の髪はまだ完全には整えられておらず、朝の光を受けた耳先だけが、かすかに揺れている。

 そしてベルローズは、いつも通りの面持ちで紅茶のカップを持ち、深紅の瞳を伏せていた。


「そういえば、この間森で男の子に会ってね。金髪と青い目が、とっても綺麗な子だったの」


 食卓へ差し込む陽光の色は変わらなかった。

 風も、薔薇の香りも、何ひとつ変わらない。

 けれど、その場にいた者たちだけが、一瞬で別の季節へ放り込まれたように静まり返った。


 ピピの手が、皿の縁へ触れる寸前で止まる。

 アマンダもまた、花瓶へ差し込もうとしていた花を持ったまま、瞬きを止めた。

 ルシアンの尾はゆっくりと動きを失い、サファイアブルーの瞳だけが、セレスティアへと向けられる。


 ベルローズは、すぐには反応しなかった。

 いや、反応できなかったのだろう。

 彼女はただ、白い指先でカップを持ったまま、呼吸を止めていた。


 セレスティアは、その空気の変化にまだ気づいていなかった。

 彼女にとってそれは、日々の出来事のひとつ。

 少し不思議で気味が悪く、それでも誰かへ話したい話題だったのだ。


「怪我をしていて、エマと一緒に手当てしたんだけど……」


 ベルローズの指先が、ごくわずかに震えた。

 紅茶の水面へ、小さな波紋が静かに広がっていく。


 彼女はすぐに、それを押し隠そうとした。

 深紅の瞳を伏せ、何事もないように、カップをソーサーへ戻そうとする。

 だが白磁の縁がわずかに鳴り、そのごく小さな音だけが、不自然なほど広間へ響いた。


「……金髪に、青い目」


 ベルローズの声は静かだった。

 あまりにも静かで、だからこそルシアンは即座に気づいた。

 彼女は今、平静を装い、理性だけで自分の身体を押さえつけている。

 角の根元には、不規則に高まる感情に呼応するように、淡い赤紫の光が不安定に滲み始めていた。


 セレスティアはそこでようやく、食卓の空気が妙に張り詰めていることに気づく。

 彼女は耳を伏せ、戸惑ったように視線を巡らせた。


「……えっと、どうしたの?」


 誰も、すぐには答えなかった。

 その、長い沈黙の中で。

 ベルローズの脳裏には、忘れたはずの白い光景が、鋭く蘇っていた。


 冷え切った大理石の廊下、白手袋に覆われた指先。

 自分を、価値ある存在として見つめながら。

 決して一人の女としては見なかった、冷たく碧い瞳。


 整いすぎた微笑、優しい声色。

 けれどその奥に一切の温度を宿さない、人形のような美貌。

 彼女の過去を切り裂き続ける、白い亡霊。


 そんなはずがない。

 理性は何度も、そう告げている。

 セレスティアが会ったのは、ただの旅人かもしれない。

 金髪に青い目など、珍しくもない。

 偶然、似た容姿を持っていただけかもしれないではないか。


 けれど、理性と本能は別だった。

 ベルローズの身体は、すでに過去の恐怖を思い出してしまっている。


「……でも、なんだか少し怖かったの」


 セレスティアがぽつりと続けると、ベルローズの睫毛がかすかに震えた。


「優しかったし、感じも良かったの。でも、どうしてか分からないけど……あの人のこと、あまり話したくないって思っちゃったんだ」


 彼女は困ったように、耳を伏せたまま続ける。

 自分でも説明ができないが、内側のどこかが警鐘を鳴らしていた。

 理由はわからない。それでも、耳の奥がずっと落ち着かなかった。


 ルシアンはその横顔を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 彼自身もまた、嫌な予感を抱いている。

 幻獣としての本能が、セレスティアの言葉の端々から、不自然な匂いを拾い上げていた。


 だが今、この場で最優先しなければならないのは別だった。

 ルシアンは長い身体を揺らすようにして、椅子から立ち上がる。

 無駄のない所作でベルローズの背後へ回り、その細い肩を抱き留めた。


「……大丈夫だ」


 低い声が、静かに落ちる。

 ルシアンの大きな手が、彼女の漆黒の髪をそっと撫で、過熱し始めた角の近くへと優しく添えられた。

 冷涼な氷の魔力が彼の指先から微かに伝わり、ベルローズの肌の熱をゆっくりと奪っていく。


「そんなはずねぇだろ」


 その言葉はベルローズへ向けたものだった。

 同時に、自分自身へ言い聞かせるためのものでもある。

 ルシアンはその強い意志を、手のひらの体温に乗せて伝えていた。

 ベルローズはその腕の中で、小さく息を呑んだ。


「そうね。わかっては、いるのだけど……」


 その声はかすかに震え、角の根元が、不安を代弁するように淡く明滅している。

 セレスティアはその様子を見て、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ベルローズは、いつだって絶対だった。

 冷たく、強く、決して崩れない存在だった。

 その母が今、自分でも抑えきれない恐怖に触れている。


 ピピは苦々しげに目を伏せ、小さく呟く。


「……ベルローズ様」


 それ以上は何も言えない。

 彼もまた、その存在を知っている。

 あの男と対峙し、その冷酷な態度に怒りをぶつけた記憶がよみがえる。

 アマンダは、しばらく沈黙したあと、窓の外を見つめていた。


「確かに、森が変ですね。何か、馴染まないものが混ざっている」


 その声色は穏やかだったが、だからこそ不気味だった。

 自然の循環と密接に結びつく、彼女の感覚。

 彼女は禁忌の森を経由して流れ込んでくる異物感を、正確に捉えている。

 善悪ではなく、心地よくない。

 そんな何かが、境界の向こう側から近づいているのだと。

 セレスティアは、自分が何か間違ったことを言ってしまったのかと不安になり、膝の上で指を絡めた。


「ごめんなさい……」


 ベルローズは、はっとしたように顔を上げた。

 恐怖へ飲み込まれかけていた意識を、娘の声が引き戻したのだ。

 彼女はルシアンの手にそっと身を委ねたまま、セレスティアを真っ直ぐに見つめた。


「違うのよ、セレスティア」


 彼女は、感情を抑えた丁寧な声で言葉を紡ぐ。


「あなたが悪いわけではないの。ただ……。少し、昔を思い出しただけ。気にしないで」


 セレスティアはその言葉の意味を、完全には理解できなかった。

 だが、これ以上踏み込んではいけない気がして、小さく頷くだけに留めた。


 食卓には再び静けさが落ちる。

 誰もが、平静を装っている。


 ピピは冷めかけたスープを温め直すために厨房へと引っ込み、アマンダは窓辺の花に朝露を吸わせる作業に戻った。

 ルシアンはベルローズの傍らを離れず、その気配を伺っている。

 その佇まいには、彼女がどれほど揺らごうとも、その隣に立ち続けるという無言の意志だけがあった。


 窓の外では、夏の風が薔薇の花弁を揺らしている。

 陽光はなお明るく、世界は美しいままだった。

 けれどその風の奥に、何か冷たいものが紛れ込んでいる。

 そんな気配が、ドラクロワ城の空気に薄く沈んでいた。

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