第74話:夏の花冠 ―野生の違和感―
エマの暮らす集落の中央にある井戸の周囲には、生活の音が戻り始めていた。
乾いた滑車が鳴って水桶が引き上げられる音、洗い立ての布が夏の風に叩かれる音。
そして、病の影を払った子供たちの、高い笑い声。
一度は重く沈んだ空気は、夏の乾いた空気に少しずつ解きほぐされているようだった。
その日も、セレスティアは蔓で編まれた小さな籠を抱え、森の獣道を抜けて集落へと向かった。
籠の底には、集落の子供たちへのささやかな土産として、道すがら摘んだ瑞々しいベリーが転がっている。
エマが待っている。
集落の人々が、自分を拒まずにそこにいてくれる。
その事実が、彼女の胸の奥へ、灯火のような小さな温かさをそっと灯していた。
森はすっかり、生命力に満ちた夏の色へと移り変わっていた。
緑は深みを増し、幾重にも重なった葉は、陽光を遮って濃厚な影を地面に落としている。
彼女は歩を進めながら、ふと自分の耳が、以前よりもずっと自然に森の細分化された音を拾い上げていることに気づいた。
それは彼女の内に眠る、幻獣の血の証明でもあった。
集落の入り口へと辿り着くと、エマはいち早くその姿を見つけ、大きく手を振って駆け寄ってきた。
「セレスティア! こっちこっち。今日ね、乾燥棚の薬草を入れ替えるの!」
彼女の笑顔には、過酷な冬を乗り越え、ようやく平穏な日常を取り戻し始めた者特有の、素朴な柔らかさがある。
セレスティアはその表情を見ただけで、胸の奥の尖った部分が削られていくような、静かな安堵を覚えるのだった。
薬草干しの作業は、地味で根気のいるものだった。
森から採取してきたばかりの葉を一枚ずつ手にとって選別し、虫に食われた部分や傷んだ茎を指先で丁寧に取り除いていく。
そうして整えられた葉を、風通しの良い木製の棚へと均等に、重ならないように並べていくのだ。
エマは手慣れた手つきで葉を仕分けながら、それぞれの薬効や、湿気を含ませないための保存方法について、誇らしげに説明してくれた。
「セレスティア、前よりずっと上手くなったね」
エマが感心したように、白い歯を見せて笑う。
セレスティアは不意を突かれたように、耳を揺らした。
「……お母様の薬室でも、少し手伝ってるからかな」
「やっぱり、ベルローズさんってすごいんだねぇ」
エマの無邪気な尊敬に満ちた言葉に、セレスティアは少しだけ複雑な感情を抱いた。
ベルローズは確かに、すごい。
美しく、気高く、そして深い知識を持っている。
けれど同時に、そのあまりにも強大すぎる力ゆえに、引き裂かれるような傷を負ってきた人でもある。
セレスティアは最近、ようやくその事実を、朧げながらも理解し始めていた。
昼が近づく頃には、集落の子供たちも自然とセレスティアの周囲へと集まり始めていた。
最初は彼女の持つ獣の耳や尾を遠巻きに見つめ、怯えと好奇心の狭間で固まっていた子供たちも、今ではすっかり懐いている。
彼女が自分たちを害さない、優しい存在だと分かったからだ。
「セレスティアお姉ちゃん、あれ取って! 届かないの」
「うん、いいよ」
背の低い小さな男の子が、小高い場所にある木の枝に咲いた、鮮やかな初夏の花を指差す。
セレスティアは小さく頷くと、音もなく軽く地を蹴って跳躍した。
ふわりと宙を舞い、細い枝先に咲いた花を、傷つけないよう慎重に指先で摘み取る。
着地と同時に、それを子供の小さな手へと手渡した。
「わぁ、すごいや!」
子供たちの間で、小さな歓声が弾ける。
その純粋な反応に、セレスティアは戸惑いながらも、胸の奥がくすぐったくなるような温かさを覚えていた。
午後になると、一行は集落の外れに広がる、小さな野原へと向かった。
夏の花々が、気まぐれな風に吹かれて一斉にそよいだ。
白や薄紫、そして陽光をそのまま凝縮したような小さな黄色の花弁が、眩い光の下で柔らかく揺れている。
皆で籠のベリーを分け合って食べ、口の周りを紫に染めて笑い合ったあと。
子供たちは慣れた手つきで茎の長い花を摘み、手際よく輪を編み始めた。
「こうやってね、茎と茎を細かく絡めていくの。力を入れすぎちゃダメだよ」
エマが手元で見本を見せる。
セレスティアも同じように試みるが、彼女の指先は、細く繊細な植物の茎をいとも簡単に千切ってしまった。
「……ご、ごめんね。また壊しちゃった」
「大丈夫だよ、最初はみんなそう! ほら、この花を使って」
子供たちは怒るどころか、笑いながら、新しい花を次々とセレスティアの手元へと差し出す。
失敗しても、誰も彼女を責めない。
ただ共に笑い、やり直せばいいのだと教えてくれる。
やがて、子供たちの手によって完成した即席の花冠が、セレスティアの頭上へとそっと乗せられた。
その瞬間、周囲の子供たちが一斉に声を弾ませる。
「かわいい!」
「本当だ、森の中のお姫様みたい!」
セレスティアは突然の賛辞に、蒼い瞳を丸くして瞬きを繰り返した。
頭上に乗った花冠は驚くほど軽く、風が吹くたびに、摘みたての花弁の青臭く甘い匂いが鼻先をくすぐる。
彼女は頬をほんのりと朱に染め、戸惑いながらも、小さく唇を綻ばせた。
しかし、その穏やかな空気のなかに、明確な異物の気配が混ざり込んだのは、本当に唐突なことだった。
「そういえば最近また、あの金髪の旅人の男の子。この近くの通りで見かけたって、隣の家のおじさんが言ってたよ」
井戸の方から水桶を運んできた年配の女が、立ち話のついでといった様子で、何気なく言葉をこぼした。
「西側の、まだ病の熱が残ってた古い家を手伝ってくれたらしいんだ。本当に手際が良くてねぇ。感じのいい子だったって」
その言葉が風に乗って耳に届いた瞬間、セレスティアの身体が、微かに硬直した。
エマはぱっと顔を輝かせ、編みかけの花の輪を置いて身を乗り出す。
「それって、きっとユリウスだよ! ね、セレスティア。この前森の境界で会ったあの子じゃない?」
その名前が明確な音となって響いた途端、セレスティアの耳が、無意識のうちに警戒を示し、後ろへと伏せられた。
「やっぱりあの子、すごく優しい子だったんだね。自分の足だって怪我してたのに、ちゃんとお礼を言ってくれたし、他の人の手伝いまでしてるなんて」
エマの瞳には、ひとかけらの疑念も宿っていない。
ただ純粋に、美しく親切な旅人の出現を喜んでいる。
「金髪の人?」
「どんな格好をしてたの?」
「僕たちと同じくらいの子?」
周囲の子供たちも、退屈な日常に現れた新しい話題に興味を惹かれ、口々に喋り始めた。
だが、セレスティアだけは、その賑やかな輪のなかへ、どうしても入ることができなかった。
胸の奥をせり上がってくる、あの冷たい違和感。
ユリウスが悪い人間だという証拠はどこにもないのだ。
むしろ集落の人々の噂を聞く限り、彼は困った人々を無償で助ける、非の打ち所のない、善人そのものだというのに。
どうして自分の中にだけ、あの鏡のように平坦な碧い瞳への、刺すような警戒が消えないのだろう。
自分の感覚が異常なのか、それとも。
その時だった。
それまで野原を優しく撫で、花々を揺らしていた夏の風がほんの一瞬、不自然に止んだ気がした。
それと同時に、つい先ほどまで梢の奥で騒がしく鳴いていた小鳥たちのさえずりも、虫の羽音すらも途絶した。
セレスティアははっと息を呑み、顔を上げる。
だが、周囲の人間たちは誰もその空白に気づいていない。
エマも、子供たちも。何事もなかったかのように変わらぬ笑顔で、楽しげに言葉を交わし続けている。
彼らにとっての世界は、何ひとつ狂ってはいないのだ。
ほんの一瞬ののち、再び風が戻ってきた。
花々が波打ち、子供たちの無邪気な笑い声が鼓膜に響く。
けれどセレスティアの胸の奥には、なにかが深く滴り落ちたような感覚だけが、消えずに残り続けていた。
夕暮れが近づき、森の影が長く伸び始める時間になった。
子供たちは名残惜しそうに、セレスティアの衣服の袖を小さく引いた。
「セレスティアお姉ちゃん、また絶対に来てね!」
「次は、もっとたくさん花を摘んで、これよりもずーっと、大きい花の輪を作ってあげるから!」
その純朴な温かさに触れ、セレスティアは胸の奥の強張りをかろうじて解き、柔らかく笑い返した。
「……うん。また、必ず来るね」
集落を離れ、一人で森の薄暗い一本道へと足を踏み入れる頃。
空は燃えるような橙色から、次第に夜の帳を予感させる深い紫色へと染まり始めていた。
抱えた籠のなかには、子供たちが持たせてくれた残りの花が転がっている。
耳の奥にはまだ、彼らの無邪気な笑い声の残響が心地よく残っているはずだった。
それなのに、歩を進めるたびに、森の奥の、深い闇が溜まる場所を振り返りたくなる衝動が消えない。
誰かに、背後からじっと見つめられているような。
衣服の隙間から入り込む風ではなく、もっと意志を持った冷徹な視線が、自分の輪郭を正確に捉えているかのような。不快な皮膚の粟立ち。
セレスティアは無意識に胸元へ手をやり、父から譲り受けた牙飾りを握りしめていた。
意を決して振り返ってみても、そこにはただ夕闇に沈みゆく、静謐な禁忌の森が広がっているだけだった。
木々の長い影が地面を黒く浸食し、夏の匂いは優しく世界を包み込んでいる。
なのに、説明のつかない冷たい影が落ちてしまっている。
そんな予感が、夜を迎えようとする森のなかで、セレスティアの足元を不穏に脅かし続けていた。




