第73話:金色の影 ―穏やかな異物―
セレスティアは息を呑む。
何が、と問われれば、理由はどこにもない。
少年はただ穏やかに興味を示し、エマの言葉に耳を傾けただけだ。
年相応の少年が、森で出会った風変わりな少女たちに好奇心を抱く。
それは至って自然な、微笑ましい光景であるはずだった。
それなのに、少年の唇から漏れた声には、先ほどまで彼が口にしていた薬草や瑞々しいベリーへの興味とは、明らかに異なる響きが混ざっていた。
冷たく、均一に測るような何か。
感情の揺らぎによって生じるはずの、わずかな掠れすら存在しない、その響き。
セレスティアの耳が伏せられる。
「お母さんって、どんな魔女なの? どこに住んでいるの?」
ユリウスは、陽光を孕んで柔らかく輝く金髪をさらりと揺らし、至って穏やかに尋ねる。
セレスティアを真っ直ぐに見つめるその視線は、親しげでありながらも、鏡の表面のように平坦だった。
エマは、目の前の美しい少年が自分たちの言葉を求めてくれたことに、無邪気な喜びを感じたのだろう。
警戒心など微塵も宿していない純真な唇が、次の言葉を紡ごうと開く。
その指先が城の方角を指し示すよりも早く、セレスティアの身体は動いていた。
「……エマ、そろそろ帰らないと。お父さんのお手伝いがあるんじゃない?」
セレスティアは思わず、エマの木綿の袖を少し強く引いた。
指先に込めた力が彼女の焦りを伝えたのか、エマははっとしたように瞬きをして動きを止める。
「あ、そうだった。薬草、早く乾燥棚に入れなくちゃ。日が傾くと、湿気ちゃうもんね」
エマは慌てて、採取した薬草やベリーが入った蔓籠の中身を確認する。
現実に意識が戻った彼女の姿を見て、ユリウスは落胆したように眉尻を下げた。
けれど、その引き際はあまりにも洗練されており、感情の落差というものが存在しなかった。
まるで、最初からその返答が返ってくることを計算に入れていたかのように、彼は自然に倒木から腰を上げた。
「そっか。引き止めてごめんね。手当てをしてくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして。足、お大事にね。あんまり無理しちゃ駄目だよ?」
エマが心配そうに彼の泥のついた足元を見ると、ユリウスは柔らかく頷いた。
「うん。また会えるといいね」
その言葉が森の湿った空気に溶けた瞬間、セレスティアは喉の奥が不自然に収縮するのを感じた。
言葉を返そうとしても、声が形にならない。
また会いたくなんてない、とは言えない。
傷を負い、道に迷ったという彼を拒絶するほどの、明確な悪意を突き付けられたわけではないのだから。
だが、同時に「また会いたいね」とも、決して言い切れなかった。
嫌悪とも、恐怖とも少し違う。
ただ、本能の最も深いところにある野生の血が、彼を近づけてはいけないものとして処理しようとしていた。
「うん、またね!」
エマはそんなセレスティアの硬直には気づかず、素直に笑って、大きく手を振った。
だというのに、セレスティアの胸の奥には、鋭利な棘のような違和感が、いつまでも消えずに残り続けている。
ユリウスは、二人の姿が見えなくなるまで、最後まで穏やかに手を振り続けていた。
木漏れ日がその金髪を縁取り、まるで絵画から抜け出してきたかのような旅人の少年。
その完成された美しさの背景で、セレスティアは森の奇妙な変化を感じ取っていた。
彼が立っている空間の周囲だけ、風が妙に静止している。
初夏の森であれば、常に聞こえるはずの羽虫の音や、小鳥たちのさえずり。
それが、彼の周囲数十歩の範囲だけ綺麗に削ぎ落とされたように遠い。
木々の葉を揺らす気まぐれな風も、彼の衣服の裾に触れる直前で、怯えるようにその軌道をねじ曲げているかのようだった。
森という巨大な生命体が、彼という存在を異物として拒絶し、その輪郭を浮き彫りにしている。
そんな気味の悪い錯覚が、セレスティアの脳裏をよぎった。
「ユリウス、不思議な子だったね。身なりが良いから、王都の近くか、大きな町から来た子なのかな?」
帰り道、エマは新しい知り合いができたことを、心から嬉しそうに話していた。
彼女の足取りは軽く、小柄な体躯を弾ませるたびに、木綿の靴先が森の瑞々しい草花を蹴り上げる。
そこから立ち上る青く苦い匂いが、二人の間を通り抜けていった。
「でもあんな綺麗な人、この辺りの祭りでも見たことないや」
「……うん。そうだね」
セレスティアは、曖昧に頷くことしかできない。
自分たちと同じくらいの年齢なのに言葉遣いが大人びていたこと。
傷の手当てに慣れていなさそうだったこと。
エマはなおも、指を折りながら楽しげに呟いている。
エマに悪気がないことは、痛いほど分かっていた。
ただ、怪我をして困っている者を助け、言葉を交わし、薬師の娘としての親切を全うしただけだ。
けれど、エマのその無邪気な明るさが、今のセレスティアにとっては、かえって自分を深い孤立へと追い込んでいくように感じられた。
エマが見ている世界と、自分が感じ取っている世界の肌触りが、決定的に狂ってしまっている。
その違和感を言葉にして説明しようとしても、セレスティアの語彙では上手く形を成さず、ただ胸の奥で重く沈殿していく。
(……お父様なら、このおかしな気持ちをわかってくれるかな)
鋭い嗅覚と、野生の直感を持つ蒼き幻獣。
彼であれば、あの金髪の少年から漂っていたあの凍りついた無機質な気配に、牙を剥いただろうか。
(お母様なら……、あの瞳の冷たさに、気づいたのかな)
すべてを見通す深紅の瞳を持つ魔女。
彼女であれば、あの一見して完璧な少年の微笑みがどんな意図によって形作られているかを、静かに見抜いたかもしれない。
セレスティアは、まだ自分の直感を完全には信用しきれていなかった。
自分が城という特別な場所で育ち、普通の人間の世界を深くは知らないから、過剰に警戒しすぎているだけなのかもしれない。
そう自分に言い聞かせようとする。
しかし、あの青い瞳に宿っていた、測るような冷淡さを思い出すたびに、胸のざわめきは増すばかりだった。
自分の家族のことを詳しく話してしまいそうになった瞬間、脳裏で鳴り響いたあの警鐘。
お母様のこと、お父様のこと、そしてドラクロワ城のこと。
それらはセレスティアにとって、愛おしく大切で、誇らしいものだ。
だが同時に、誰にでも無防備に差し出していいものではないのだと、彼女は明確な境界線を自覚していた。
エマと集落の入り口近くで別れた後、セレスティアは一人で森の細い道を戻った。
初夏の森は相変わらず、翡翠を溶かし込んだような濃厚な緑の色彩に満ちて、美しい。
籠の中に残った花の香りは甘く、ベリーの酸味は舌の奥に残る熱を冷ましてくれるようだった。
木々の隙間から隙間へと斜めに差し込む午後の光も優しい。
だが、その息を呑むような優しさの底へ、ほんの一滴だけ何かが滴り落ちてしまったかのような感覚が、どうしても消えなかった。
やがて、鬱蒼とした巨木の連なりが途切れ、視界が開けたその先。
見慣れたドラクロワ城の黒い尖塔が姿を現した。
セレスティアは無意識のうちに、息を深く吸い込んでいた。
城門の周囲を埋め尽くすように咲き誇る薔薇の、濃厚で、どこか退廃的な香りが鼻腔を満たす。
その影を孕んだ香りを胸いっぱいに吸い込んだ瞬間。
それまで彼女の小さな身体を硬直させていた目に見えない緊張が、ようやく微かにほどけていくのを感じた。
今日、新しい知り合いができた。
それはきっと、普通の人間たちが暮らす場所であれば、喜ばしい出来事として夕食の席で語られるはずのことだ。
エマも楽しそうだったし、ユリウスも少なくとも表面上は非の打ち所がないほど優しく、礼儀正しい少年だった。
それなのに、どうしてこれほどまでに安心しているのだろう。
城の冷たい影に足を踏み入れただけで、救われたような気持ちになっているのだろう。
セレスティアは、未だ答えの出ない薄暗い不安を胸に抱えたまま、薔薇の咲く重厚な城門をくぐった。
初夏の斜光はなおも世界の輪郭を鮮明に照らし出している。
けれど、あの森の境界で出会った金色の少年の、温度のない碧い瞳。
それだけが、消えることのない不穏な影となって、彼女の心の奥底へと長く伸び続けていた。




