第72話:夏の旅人 ―森で出会った少年―
初夏の森は、病の気配を少しずつ押し流すように、瑞々しい生命の色を取り戻し始めている。
城から届けられた青い薬は、集落の人々の熱を少しずつ鎮めていった。
エマの父も、ようやく夜通し薬鍋の前へ立ち続ける日々から、ほんのわずかに息をつけるようになったらしい。
それでもまだ油断はできないからと、エマは薬草の補充と見回りを続けている。
セレスティアもまた、その手伝いを兼ねて森の外縁へ足を運んでいた。
この日は、切迫した採取ではなく、少しだけ穏やかな散歩の時間だった。
二人は籠を腕に掛け、湿った土の匂いと若葉の濃い青さの中を、ゆっくりと歩いていた。
森の木々は、春よりもずっと深い緑を纏っている。
枝葉の隙間から落ちる陽光は濃く、苔の上へまだら模様を作り、小川の水面には白い花弁が静かに流れていた。
「これは熱冷ましには向かないけど、乾かすと香り袋にできるんだよ」
エマは足元に咲く小さな花を見つけるたびに、楽し気に説明した。
セレスティアはそれを聞きながら、指先で慎重に花弁へ触れる。
城の薬室で、母であるベルローズの横顔を見つめながら学ぶ知識とは違う。
村の暮らしの中で、泥に塗れながら積み重ねられた知恵。
セレスティアはその素朴な確かさを、以前よりずっと大切に感じるようになっていた。
やがて二人は、陽当たりのよい低木の茂みの前で足を止めた。
そこには初夏のベリーが、いくつも実っている。
淡い赤紫色の小さな実は、朝露を含んでつややかに光る。
指先で摘むと、薄い皮の内側から瑞々しい酸味が弾けた。
エマは一粒を口へ放り込み、酸っぱさに目を細めながら笑った。
「これ、甘いのもあるけど、たまにすごく酸っぱいんだよね」
セレスティアも真似をして、ひとつ口に含む。
舌先に広がった味は、父であるルシアンの故郷、遠い北方の霊峰から持ち帰った木の実とは全く違っていた。
あちらの実が、冷たい空気の中で澄んだ甘さを宿していたのに対し、こちらは湿った夏の森をそのまま閉じ込めたような、青く瑞々しい酸味がある。
彼女は思わず耳を揺らし、きゅっと顔をしかめた。
「……酸っぱい。でも、嫌いじゃないかも。おいしいね」
「でしょ? これを煮詰めると、薬の苦味をごまかす蜜にもなるんだよ」
エマはそう言いながら、摘んだ実を手際よく籠へ入れていく。
セレスティアは、彼女の横顔を見つめた。
病の流行で疲れていた顔色はまだ完全には戻っていないが、以前よりも少し明るさがあるように見える。
自分たちが作った薬が、彼女の家と集落へ確かに届いたのだと思うと、胸の奥に安堵が広がった。
その時だった。
少し離れた茂みの奥から、かすかな枝の折れる音がした。
セレスティアの耳がぴくりと立つ。
魔物の気配ではない。
だが、小動物にしては音が重く、人間にしては動きが不自然に鈍い。
エマも遅れて気づき、籠を抱えたまま、怪訝そうに首を傾げた。
「何だろう? 誰かいるのかな」
セレスティアは、エマを自分の背中へと隠すようにして、一歩だけ前へ出る。
茂みの向こうから現れたのは、ひとりの少年だった。
年の頃は、セレスティアやエマとそう変わらないように見える。
陽光を弾くような金髪は柔らかく輝き、その整った顔立ちには、森の薄暗さとは不釣り合いなほど洗練された美しさがあった。
瞳は、一点の曇りもない澄んだ青。
だが、その衣服はところどころ泥に汚れている。
上質な生地で仕立てられた上着の袖口には小さな裂け目があり、右足を庇うように歩いていた。
「……ごめん。驚かせたかな」
少年は困ったように微笑んだ。
その声は柔らかく、育ちの良さを感じさせる落ち着きがある。
「怪我をしちゃって……。少し、道に迷ったみたいなんだ」
それを聞いたエマは、すぐに表情を変えた。
薬師の娘としての本能なのだろう。
警戒より先に、目の前の怪我人を助けなければという気持ちが動いたらしい。
「それは大変。どこを怪我したの? 少し、見せてもらってもいいかな?」
セレスティアは、エマが駆け寄るより半歩だけ早く、少年の足元と周囲の気配を確かめた。
血の匂いは確かに漂っているが、命に関わるほど強くはないようだ。
魔力の乱れも薄く、魔物に追われた様子もなかった。
それでも、何かが少しだけ引っ掛かった。
理由は分からない。
少年の立ち姿も、声も笑顔も、どれも穏やかで、害のあるものには見えない。
だというのに、森の空気の中で彼だけが妙に浮いているように感じられた。
汚れを纏ってなお。
その肌や衣服の隙間から、凍りついた人工物のような無機質さが、微かに透けて見えるような気がする。
森へ紛れ込んだ旅人ではなく、森そのものを観察しに来た異物のように、セレスティアには感じられた。
少年は近くの倒木へ腰を下ろし、汚れた靴を少しずらした。
足首には浅い擦り傷と、小さな切り傷がある。
エマは慣れた手つきで水袋を取り出すと、傷口の泥を洗い流した。
「よかった、深くはなさそう。だけど、ちゃんと消毒した方がいいね。セレスティア、あの布取ってくれる?」
セレスティアは頷き、薬草を包んでいた清潔な布を渡しながら、少年の横顔を見つめた。
彼は手当てを受けながらも、痛みに顔を歪めることはほとんどなかった。
ただ、時折セレスティアへ視線を向ける。
その目は穏やかで、親しげで。けれどどこか、温度が低い。
「ありがとう、助かったよ。僕はユリウス。……君たちは、この近くの子?」
「私はエマ。こっちはセレスティア。あのね、こっちの森の薬草には詳しいんだよ」
エマは明るく答える。
警戒心の薄い彼女らしい、素直な返事だった。
セレスティアは少しだけ戸惑いながらも、小さく頭を下げた。
「セレスティア、か。綺麗な名前だね。君の耳と尻尾は……?」
ユリウスはセレスティアの目を見つめ、微笑む。
その言葉はいたって自然だったはずなのに、セレスティアは、不思議と返答に詰まった。
その声の奥にある何かが、自分の耳に妙に引っ掛かったのだ。
まるで、自分の耳や尾ではなく、その奥に流れる血を見られているような感覚だった。
「これは……、父譲りなの」
彼女は警戒を隠せないままに、短く答える。
ユリウスは笑みを崩さず「そうなんだね」とだけ返した。
手当てを終え、三人は少しだけその場で話した。
エマが持っていたベリーをいくつかユリウスへ分けると、彼はそれを礼儀正しく受け取った。
酸味の強い実を口にした時も、顔をしかめる代わりに、ほんの少しだけ目を細める。
その酸味に驚くよりも先に、分析するような間があった。
「面白い味だね。森のものって、こんなに強いんだ」
「町の方では、あんまり食べないかな?」
エマが尋ねると、ユリウスは曖昧に笑った。
「僕がいたところでは、こういうものはあまり見なかったかな」
「そうなんだ、どこから来たの?」
「少し遠くから」
彼が口にしたのは、それだけだった。
「そうなんだ」
エマはそれ以上深く追及せず、素直に頷く。
セレスティアはその返答の曖昧さに、胸の奥で小さな不安が沈んでいくのを感じた。
遠くから来た、道に迷った、怪我をした。
どれもあり得る話ではある。
けれど、この森へ偶然迷い込むには、ユリウスはあまりにも身なりが整いすぎていた。
衣服は泥に汚れているのに、指先や姿勢を含めたその所作には、乱れがない。
そして、セレスティアやエマと同年代に見える少年だというのに、怪我をしていても、道に迷っていても、焦りも恐怖も薄い。
やがて話題は、自然とセレスティアの家族のことへ移ってしまった。
エマは、ただ新しく出会った少年へ、自分の友達がどれほどすごい子なのかを話したかっただけなのだろう。
彼女の表情や口調に、一切の悪意はなかった。
「セレスティアのお母さんがね、とってもすごい魔女なの。薬も魔法も何でもできるんだよ。それで、お父さんもすごく強くて、森の魔物なんて全然怖がらないの」
セレスティアの胸が、不安と焦燥からどくんと高鳴った。
家族が異端だから隠しておきたいという、後ろ向きな理由ではないはずだ。
それでも、なぜか彼にはあまり、自分の家族について知られたくはない。
「エマ……、あのね」
止めようとした声は、小さかった。
エマがきょとんとしてセレスティアを見た瞬間、ユリウスは、ほんのわずかに身を乗り出した。
「へぇ。それ、とても興味があるな。詳しく聞かせてよ」
その声は、先ほどまでと同じ柔らかさを保っている。
だが、その青い瞳の奥に、一瞬だけ冷たい光が宿ったように見えた。
セレスティアはその、背筋に冷水が流れ込んだような感覚に、思わず尾を逆立てた。




