第71話:幻獣のお着換え ―魔女の特等席―
ベルローズは紅茶を飲むふりをしながら、一度もルシアンから視線を逸らさない。
ルシアンは途中で、その熱を帯びた視線に気づき、諦めたように目を細めた。
「なあ。……あんた、報復っていうか……、結局これがやりたかっただけだろ」
「何のことかしら」
ベルローズは、何事もないふうを装って視線を泳がせた。
冷徹な仮面の下で、彼女の理性が動揺している証拠だった。
それを隠すように紅茶を口に含むが、漆黒の角の根元は、本人も自覚せぬうちに、妖しく赤紫色に発光しかけていた。
「ほら、次はこれだよ」
次の衣装を手に取るピピに目をやり、ルシアンの耳が、あからさまに伏せられる。
けれどピピは構うことなく、今度は黒いジャケットを広げた。
深い黒の生地には細かな刺繍が施され、袖口や襟には、控えめながらも精緻な意匠があしらわれている。
「さっきの白いシャツよりは、こっちの方が動きやすいと思うんだけど、どう?」
「そういう問題じゃねぇんだよ」
短い返答にピピは苦笑したが、ルシアンは案外素直に袖を通していく。
長い腕を包む黒い布が肩へ収まり、広い背中に沿って裾が落ちる。
白いシャツのときとは違い、身体の線を隠すような仕立てだったが、体格そのものが服の存在感に負けることはない。
むしろ黒に包まれたことで、彼の輪郭がいっそう鮮明になっていた。
「これならまぁ、悪くねぇな」
「そうでしょ? わりと自信作なんだ。でも君、すぐ汚してくるからなぁ」
ルシアンが裾を摘まんで動きを確かめると、銀髪をさらりと揺らし、ピピが満足そうに頷く。
その隣では、セレスティアが蒼い瞳を輝かせている。
「お父様、とっても似合ってるよ。お母様とお揃いみたい」
その言葉に、ルシアンはちらりとベルローズに視線をやった。
彼女は、いつものように黒いドレスを纏っている。
確かに並べば、色合いや雰囲気はよく似ているように思う。
ベルローズは何も言わないまま、優雅に紅茶を口へ運んでいる。
その深紅の瞳は、明らかに機嫌がよかった。
黒や白、深い藍色の布が重なった衣装の山には、それぞれ異なる質感がある。
光を受けるたびに、絹の光沢や細かな刺繍がかすかに浮かび上がっていた。
大広間の長いテーブルには、脱ぎ捨てられた上着や、使い終えた留め具、採寸用の紐や紙片まで、が少しずつ増えていく。
いつの間にか、最初の整然とした空気はすっかり消えていた。
「じゃあ、こっちも試してみようか」
「まだあんのか」
「もちろん。むしろ、ここからが本番だからね」
ピピが別の衣装を取り出した瞬間、ルシアンは面倒そうに尾を大きく振った。
その様子を見ていたセレスティアが、ころころと声を上げて笑う。
自分が笑ったら、父はより不機嫌になるだろうと思ったが、どうにも我慢ができそうにない。
「お父様。耳も尻尾も、逃げたいって言ってるよ」
「うるせぇ」
そう言いながらも、ルシアンは差し出された衣装を受け取った。
その仕草には、もはや諦めに近いものが滲んでいる。
機嫌の悪さを隠そうともしないルシアンに、アマンダまでもが追い打ちをかける。
「どれもよく似合っていますよ? 何でも着られますね、ルシアンさんは」
「……着せられてるだけだろ」
ぶっきらぼうに返しながら、ルシアンは衣装へ腕を通した。
肩を覆う布がゆっくりと引き上げられ、長い腕に沿って袖が落ちていく。
黒い布地は彼の濃紺の髪やサファイアの瞳とよく馴染み、襟元から覗く肌との境目を、いっそう鮮明にしていた。
セレスティアは、そんな父の姿を飽きることなく眺めている。
新しい衣装に袖を通すたび、目の前の幻獣が少しずつ違う姿を見せるのが、楽しくて仕方がないらしい。
「少しだけ、これ閉じてみよっか」
その隣で、ピピが襟元へ手を伸ばす。
乱れていた布を指先で整え、金具の位置を確かめながら、手際よく合わせていった。
「それ、閉まるのか?」
ルシアンは眉を寄せ、襟元を見下ろしたまま尋ねる。
「何度も言ってるけどさ、試作品だからね。実際に着せてみないとわかんないよ」
ピピはそう答えながら、留め具をひとつずつ合わせていく。
金具が小さく触れ合うたび、乾いた音が静かな大広間へ響いた。
けれど、胸元へ近づくにつれて、布地の余裕が目に見えて失われていく。
重ねられた黒い布が、次第にぴんと張った。
「……あちゃー」
「おい」
わずかな沈黙の間にも、布地は逃げ場を失ったように張り詰めていた。
肩幅に合わせれば胸元が足りず、胸元に合わせれば今度は腰が余る。
ピピは留め具をもう一度確かめるように指で押さえ、それから小さく首を傾げた。
「……うん。やっぱり、ここはちょっと厳しいね」
「だから言っただろ……」
吐き捨てるように言いながらも、ルシアンはピピから新しい衣装を受け取り、渋々と袖へ腕を通していく。
ピピは途中から職人の顔になり、衣服のあちこちを引っ張っては、熱心にメモを取り始める。
指先で布を摘み、余り具合と張り具合を確かめるたび、紙の上に新しい数字が増えていった。
「やっぱり肩幅に対して、腰が細すぎるんだよな……」
「既製品だと、きっと全部どこか合わないよね」
セレスティアがじっと父を眺め、横から口を挟む。
「そうなんですよ。袖丈は足りてるのに、胸囲のせいで全部おかしくなっちゃうし」
「好き勝手言ってんじゃねぇぞ、お前ら」
ルシアンは深く息を吐き出したが、それでも大広間から逃げ出そうとはしなかった。
その周囲をくるくると歩き回り、父を観察しているセレスティア。
採寸用の紙を片手に、真剣な顔で衣装を見比べるピピ。
ときどき衣装を差し出すのを手伝っては、微笑むアマンダ。
ベルローズは、そんな賑やかな光景を、静かに特等席から見つめている。
最初は、ただの報復だった。
自分だけがあの夜の屈辱を引きずっていることが、どうにも腹立たしかった。
少しくらい、彼を困らせてやろうと思ったのだ。
それでも自分が、こんなにも穏やかな時間を過ごすことになるとは、想像すらしていなかった。
誰かを囲み、他愛のないことで笑い、着飾って遊ぶ。
そんな無防備で幸福な時間を、心地よいと受け入れる日が来るなど。
ふと、ルシアンが最後に羽織らされた黒いロングコートの裾を乱暴に直しながら、こちらをまっすぐに見据えた。
「……気は済んだか?」
その声色は低く抑えられていたが、明確な呆れと、それを上回る、諦め混じりの甘やかさが混ざっていた。
ベルローズは彼を見上げる。
黒を纏った、長身の幻獣。
彼は、大広間の高窓から差し込む夕暮れに近い陽光と、庭から流れ込む薔薇の影の中に、黙って立っていた。
どんな服を無理矢理着せようとも、結局この男は、この男のままだ。
荒々しく、不器用で、それでいて目を奪われるほど美しい。
ベルローズは、柔らかな笑みを、ほんの一瞬だけその唇に浮かべた。
「ええ。とても有意義だったわ」
ルシアンはそれを見て、ふんとひとつ鼻を鳴らし、深く溜息を吐く。
「ったく……」
だが、そのサファイアブルーの瞳には、先ほどまでの不機嫌さはない。
彼女の安息を許す、静かで深い色が満ちていた。
俄かに、ピピが手元のメモをぱちんと叩く音が響く。
衣装の山とルシアンを見比べ、彼は思い出したように、口を開いた。
「よし、大体の歪みは分かった。じゃあ、ちゃんと一から採寸し直そっか。脱いで」
大広間に、数秒の静寂が落ちる。
「……まだやんのかよ」
ルシアンの、心底嫌そうな低い声が、広間の高い天井へと深く響き渡った。
夕暮れの気配を帯びた湿った風が窓から入り込み、ルシアンのチョーカーを揺らす。
ドラクロワ城の午後は、かつての孤独を忘れさせるような穏やかな笑いの残滓を、いつまでも纏っていた。




