第70話:魔女の報復 ―幻獣は逃げられない―
夏の日差しは長い。
午後を過ぎても、ドラクロワ城の中庭には濃厚な光がとどまっている。
ベルローズは、中庭のテラスへ静かに腰掛け、手元に置かれた磁器のカップを指先で弄んでいた。
深い黒のドレスは今日も一切の弛みなく整えられ、袖口の黒いレースが、彼女の白い肌を一層引き立てている。
その佇まいはいつも通り、隙のない冷徹な魔女、そのものであった。
だが深紅の瞳だけは、どこか不穏な光を宿して、一点を凝視している。
視線の先には、中庭の片隅に置かれた石椅子へ、気怠そうに背を預けているルシアンの姿がある。
彼は、薄い雲が流れていく夏の空を、ぼんやりと眺めていた。
濃藍色の前髪が微風に揺れて、サファイアブルーの瞳を時折覆う。
あの夜、ベルローズを離さなかった張本人であるにもかかわらず、彼の顔には一切の反省の色がない。
むしろここ数日は特に、どこか満ち足りた空気を纏っている。
耳も尾もいつも以上に、いかにも「機嫌がいいです」といった様子だ。
ベルローズはその様子を見るたびに、自業自得とはいえ、腹の底からじわじわと腹立たしさが込み上げてくるのを感じていた。
あの夜の自分は、完全に敗北していたと思う。
少しだけ彼を惑わせるつもりで仕掛けた水遊びが、結果として飢えた獣を自ら煽る形になってしまった。
その果てに、彼女は朝まで寝台から解放されず、深く沈み込むような倦怠感の中で、泥のように眠る羽目になった。
身体中が重くて、身支度を整えるどころか、指一本動かすことすら億劫だった己の醜態。
あれを思い出すだけで、今でも自尊心が軋む。
しかも、この不器用な幻獣は、疲弊しきった彼女へ向かって平然と「体力ないな」と言い放ったのだ。
何事も魔法で済ませようとするからだと、野生の頑健さを基準にした理屈で。
そして、なんとか起き上がって降りた階下で、誰もいないところを見計らったピピに、小声でかけられた一言。
『……ベルローズ様。その、大変申し上げにくいのですが。……悪い虫に刺された跡が残っていますので、数日は、襟の高いドレスを選ばれた方がよろしいかと』
ピピの心底気まずそうな表情を思い返すと、今でも顔から火が出そうだ。
ベルローズは深く淹れた紅茶を一口すすり、目を細めた。
立ち上る湯気が、彼女の美しい横顔を曇らせる。
何をされようと、彼がベルローズにとって唯一無二の存在であることは変わらない。
あの日の自分に責任があったことも、重々承知している。
それでも、どうしても苛立ちを抑えきれない。
「……今日という今日は、許さないわよ。覚悟なさい、ルシアン」
不意に落ちた低い声は冷たく、どこか執念深い響きを帯びていた。
その一言で、中庭の空気が一瞬だけぴたりと静まる。
「えっ……?」
少し離れた花壇の陰で、大輪の薔薇の手入れをしていたセレスティアが、驚いたように鋏を動かす手を止めた。
石畳の上で城の補修用具を整理していたピピも、灰色の瞳を瞬かせ、思わず工具箱を腕の中で抱え直す。
「……なに? とうとうルシアンが粛清されるの?」
結晶質の羽を小さく震わせ、ピピは呆れと緊張が入り混じったような声を上げた。
一方、セレスティアの傍でしゃがみこんでいたアマンダだけは、琥珀色の瞳を悪戯っぽく細め、楽しそうにこちらを見つめている。
ルシアンは、ゆっくりと首を巡らせてベルローズを見た。
呼びかけられても、何が起きているのか皆目見当がつかないといった様子で。
「……何でだよ」
「理由を説明しなければわからないの?」
「さっぱりだな」
その少しも悪びれない返答に、ベルローズの角の根元が、怒りの熱でわずかに引き攣った。
それでも、彼女は声を荒らげるような無様な真似はしない。
ただ冷ややかな視線をルシアンから外し、ゆっくりとピピの方へ向けた。
「ピピ。例の試作品を、大広間に全部持ってきて。……ルシアン、ついていらっしゃい」
「は?」
「いいから。ついていらっしゃい、と言ったのよ。聞こえなかったわけではないでしょう?」
数秒の重い沈黙が、中庭に落ちる。
ピピはしばらく、主の意図を測るように目を瞬かせていた。
だが、やがてその意味を理解し、深く溜息を吐き出した。
「……あぁ、そっち?」
ピピは呆れたように、肩をすくめている。
それでもその灰色の瞳には、あからさまに面白がる、少年らしい光が混ざっていた。
「大広間でお待ちください、すぐに用意しますから」
彼は工具箱を床へ置くとそれだけ言い残し、小走りで城の奥へと消えていく。
ルシアンはその様子を、ひどく嫌な予感に満ちた顔で見送った。
サファイアブルーの瞳が、ベルローズの冷徹な笑みを捉える。
「おい、何する気だよ」
「……報復よ。安心なさい、命までは取らないから」
ベルローズは涼しい顔で、再びカップを口元へ運んだ。
その所作は優雅そのもので、一点の乱れもない。
深紅の瞳の奥には、妙な愉悦が揺らめいていた。
わけがわからないままに大広間へと連れてこられたルシアンは、広い空間の真ん中で、居心地悪そうに佇んでいた。
やがて、セレスティアとアマンダが後を追ってくる。
彼女らの表情は、何が始まるのかという期待に満ちていた。
しばらくして、ピピが両腕に溢れんばかりの衣装を抱えて戻ってきた。
それはあくまで『防護魔法の実験用』として、ベルローズがピピに命じたもの。
彼が丹念に仕立てていた、試作段階の衣類だった。
上質な黒いシャツ、仕立ての硬い白いシャツ、細身のベスト。
精緻な刺繍の施されたロングコート、軍服風の重厚なジャケット、絹のクラバット、質の良い革手袋まで。
どれも通常よりやや凝った意匠が施され、ドラクロワ城の空気に合わせたかのような、深みのある色合いをしていた。
「……いや待て。何でそんな量があるんだよ。試作品ってそれのことか?」
ルシアンは山積みの布地を見て、露骨に嫌そうな声を出す。
「そうだよ。君、無駄に背が高くて体格がいいから。参考用にちょうどいいんだよね」
「全部俺に着せる必要あんのかよ」
「あるある。ずっと試したかったんだ」
疑わしそうに目を細めるルシアンの横で、ピピは意地の悪い笑みを浮かべ、手際よく服を仕分けしていく。
セレスティアはすっかり目を輝かせ、その様子を楽しそうに見つめていた。
「お父様、着替えをするの? お人形さんみたい……」
「誰がお人形だ」
ルシアンは低く唸り、耳を不快そうに伏せた。
だが、彼はそこから一歩も動こうとはせず、逃げ出す気配も見せない。
大広間の特等席に腰掛けたベルローズが、顎に美しい手をやり、妙に真剣な眼差しでこちらを眺めていることに気づいていたからだ。
彼女がこうして他者に対し、露骨に何かを欲しがるような態度を見せるのは、極めて稀なことだ。
ならば、多少の不自由には付き合ってやってもいいと、彼の本能が判断していた。
「勘弁してくれ、どいつもこいつも暑苦しそうじゃねぇか」
ルシアンは辟易したように尾を床へ投げ出す。
「文句を言わない。暑いなら自分の魔力でなんとかしなよ」
ピピは全く取り合わず、ルシアンの大きな体に最初の一着を押し付けた。
着せられたのは、糊の強く効いた白いシャツだった。
だが、ルシアンがそれに袖を通した瞬間、不快そうに眉間へ深い皺が刻まれる。
「……おい」
洗練されたしなやかな強さを持つ彼の肉体の、広い肩幅と厚い胸板。
腕を動かすたびに、白い生地が危うい軋み声を上げる。
ボタンの隙間からは、鍛えられた胸元のラインがわずかに覗いていた。
「これ、俺には小せぇだろ。……動けねぇ」
「だから、試作品だって言ってるじゃないか? ……まぁ、やっぱ小さいんだね、はいはい」
ピピは平然と言い放ち、何かを帳面に書き付けた。
その態度にルシアンは鼻に皺を寄せ、牙を覗かせた。
「わかってて作ってるのかよ?」
「僕じゃない。ベルローズ様のお考えなんだよ」
「はぁ?」
ピピはルシアンが思わず漏らした唸り声を受け流すと、さらにその上から細身のベストを着せようとする。
ルシアンが腕を動かした瞬間、胸元のボタンが張り詰めた音を立てた。
彼はわずかに目を見開き、耳を完全に寝かせる。
「ほら見ろ、ボタンが飛んでも知らねぇぞ」
「むしろ、そういうのがいいらしいよ? 僕はよくわかんないけど」
ピピの言葉にルシアンは呆れ果て、セレスティアは意味が分からず小首を傾げている。
ベルローズは、その間ずっと何も言わなかった。
ただ、いつもよりずっと長い時間、執拗なほどじっとルシアンを見つめている。
彼女の深紅の瞳は饒舌だ。
特に視線が止まっているのは、布地を押し広げている張った肩口や、袖を押し上げる前腕。
そして、少し窮屈そうに開いた首元の隙間だった。




