第69話:朝の手触り ―世話焼きの幻獣―
一方その頃、食堂ではセレスティアが朝食の席につき、ピピが給仕を始めていた。
窓から差し込む朝の光が長いテーブルへ落ち、焼き立てのパンと、温かいスープの匂いが穏やかに広がっている。
「おはよう、ルシアン。顔を洗ったらすぐに席について。君の分のパンはもう切ってあるからね」
ピピが磨き抜かれた盆を片手に、忙しなく動き回りながら声をかける。
朝の秩序が少しでも乱れるのは、我慢ならないらしい。
ルシアンはそれに「ああ」と応じたが、席に着くことなく、無造作に棚から水差しを取り出した。
セレスティアは、スープを掬っていた手を止め、不思議そうに顔を上げる。
「ねぇお父様、お母様は? まだ起きてこられないの?」
ルシアンは水差しに冷たい湧き水を注ぎながら、素っ気なく答えた。
「寝てる」
「具合が悪いの?」
セレスティアの声には、純粋な心配が滲んでいた。
ルシアンは一瞬だけ、手の動きを止める。
その横でピピが、ゆっくりと目を細めた。
何かを察したような、呆れ半分の冷ややかな視線だった。
ベルローズがまだ寝室から出てこないことと、朝っぱらから水差しを持っていこうとしているルシアンを見れば、十分すぎた。
ピピは何も言わないが、その灰色の瞳には『また君のせいか』という無言の非難がこれでもかと込められている。
ルシアンはそれを正面から、平然と受け流した。
「……ちょっとな、疲れてんだよ」
「疲れてるって、そんなに?」
眉を寄せ、首を傾げているセレスティアに、ルシアンは黙り込んだ。
嘘は言っていない。
セレスティアは納得していない様子だったが、それ以上問い詰めることはせず、再びスープへ匙を戻した。
水差しを一度置こうとしたルシアンの腕が、朝の光の中へ差し出される。
ピピの視線が、右腕の内側で止まった。
そこに残った小さな歯型が、薄く赤みを帯びている。
(……ちょっと、まさか)
ピピの灰色の瞳が見開かれ、視線がゆっくりとルシアンの顔へ戻る。
本人は、まるで気にしていない。
それどころか、歯型がついていること自体を忘れているような顔でうろついている。
ピピは無言のまま、視線を逸らした。
何を見たのかは、あえて考えないことにした。
というか、あまり考えたくない。
けれど、どう考えてもあれが自分の主と無関係だとは思えない。
ピピの中でいくつかの推測が生まれ、そして即座に封印された。
(聞かない。僕は絶対に聞かないからね)
聞いたところで、幸せになる者は誰もいない。
それでもピピは、ルシアンが水差しをもう一度手に取ったところで、彼の腕を軽く叩いて声をかけた。
「……ルシアン、それ、しまっといて」
「あ?」
「絶対に、セレスティア様には見せないで」
声を潜めたピピの視線が、彼の腕へ落ちる。
ルシアンは自分の腕を見下ろし、それからピピにちらりと視線をやった。
「……ああ」
それだけ答えると、彼は気まずそうにすることすらなく、少し袖を引き下ろした。
ピピは小さく、安堵の溜息を吐く。
詳しい事情など、知らなくていい。知らないほうがいい。
ただ、あれをセレスティアが見つけてしまったら。
「お父様、これどうしたの?」
などと無邪気に尋ねる未来だけは、何としても阻止しなければならない。
朝の食卓には、何もなかったことにしておくのが一番だ。
ピピは深く溜息を吐きながら、果物籠から熟れた果実を手際よくいくつか選び、皿へ載せた。
「これなら食べやすいだろ。水分もちゃんと摂らせてよね。まったく、無茶をさせるなっていつも言ってるのに……」
「わかってんだよ」
ルシアンは短く返し、ピピから皿を受け取った。
アマンダは、ナッツの殻を剥きながら、その様子をじっと眺めていた。
琥珀色の瞳が楽しげに揺れる。
「アマンダ、……頼むから。余計なこと言わないでよ」
アマンダが口を開こうとしたところで、ピピが即座に低く釘を刺す。
彼女はピピの言った通り、口をぽかりと開けたままで止まる。
やがて微笑むと、再びナッツへと視線を落とした。
セレスティアだけが会話の意図を理解できず、不思議そうに瞬きをしていた。
ルシアンは小さく息を吐き、果物の皿と水差しを纏めて持ち上げる。
「そうだ、お父様。今日もエマと約束してるんだ。森をお散歩するの」
セレスティアがパンを一口大に裂きながら、気を取り直したように言った。
「だから、ちょっと出かけてくるね」
「ああ。気を付けて行けよ」
ルシアンが短く答えると、セレスティアは耳を元気よく動かして頷く。
いつものように不愛想な声色だったが、そこには娘の安全を案じる、父親としての温度があった。
ルシアンは手にした皿を見下ろし、踵を返した。
再び寝室へ戻ると、ベルローズはまだ寝台の中で目を閉じていた。
だが、扉が開いた気配に気づくと、薄く瞼を持ち上げる。
朝の光は先ほどより少しだけ強くなり、寝室の中には、カーテン越しの光が満ちている。
夜の名残を閉じ込めていた濃い影は薄れ、乱れた寝具の上にも、容赦なく朝が降り積もっていく。
その光の中で見るベルローズは、いつもよりずっと無垢なものに見えた。
黒髪は枕に散り、頬にはまだ、微かな熱が残っている。
ルシアンは何も言わず、水差しと皿を卓上へ置いた。
そして寝台の端へ腰掛け、慣れた手つきで水を注ぐ。
「ほら、起きろ。飲め」
そのぶっきらぼうな声に、ベルローズは掛け布を引き寄せて押さえながら、ゆっくりと上体を起こした。
ルシアンは、彼女の背にそっと手を添える。
身体を起こしただけで、まだ残っている重さが、ゆるやかに戻ってくる。
ベルローズはそんな、身体の奥に沈んだ名残を意識しないように、目を伏せる。
「……ピピに、何か言われたかしら」
ベルローズは水を一口含み、掠れた声で尋ねた。
ルシアンは食堂でのピピの呆れた目つきを思い返したが、ふいと視線を逸らしながら答える。
「別に。小言はいつもと同じだな」
「そう。ならいいけれど……」
彼の前では、もう強がる意味も、冷酷な支配者を気取る必要もなくなっていた。
そんな自分の変化を、いつになっても、完全には受け入れきれないでいる。
けれど、ルシアンはその戸惑いも弱さも、何一つとして責めない。
ルシアンは彼女の杯が空になったのを確認すると、当然のように水を注ぎ、寝台へ座り直す。
彼の首元に咲く紫の薔薇が、朝の光を受けて、その輪郭を主張している。
「少しは、反省しているの?」
「悪かったとは思ってるぞ」
「……それならもう少し、申し訳なさそうにして」
「あんた、自分には責任ありませんって言えるのかよ?」
珍しく頑なに反論してくる彼に、もう勝てそうにはない。
それでいて、こうして世話を焼いてくるのだから、本当に質が悪い。
ベルローズは何も言わず、再び寝台に身を沈めた。
窓の外から、初夏の風が薔薇の香りを運んでくる。
静かな、熱を孕んだ世界の片隅。
彼女は心地よい倦怠感に身を任せ、目を閉じた。
瞼を閉じると、ルシアンが寝台の傍らにいる気配が、はっきりと分かった。
彼が何も言わずそこにいることを確かめたベルローズの呼吸が、やがてゆっくりと深くなっていく。
ルシアンは、その寝息に耳を傾け、眠りについた彼女の顔をしばらく見つめていた。
申し訳なさがないわけではない。
ただ今回ばかりは、自分だけが悪いとは思っていなかった。
むしろ、あれだけ煽っておいて、自分は何もしていないような顔をされるほうが納得できない。
それでも、眠ってしまえば随分と静かだ。
さっきまで必死に反論していた唇も、今は何も言わない。
伏せられた睫毛も、寝台に散った黒髪も、すっかり力が抜けている。
ルシアンは眠るベルローズの頬にかかる髪を、指先でそっと払った。
「しょうがねぇな」
ルシアンは小さく息を吐き、誰に聞かせるでもなく呟いた。
はじめに近づいてきたのも、離れようとしなかったのも、全部彼女だ。
それでも彼女が自分のせいにしたいなら、好きにすればいい。
彼はふと、腕へ小さく残った歯型へ視線を落とす。
これくらい、どうということもない。
いつもなら、何もかも自分の内側へ収めてしまう彼女が、あれほど余裕をなくしていた。
自分の前では、綺麗に取り繕うこともできなくなる。
噛みついて、爪を立てて、それでも離れようとしなかった。
「……かわいいやつ」
「なに……?」
微かに眉を寄せ、ベルローズが寝ぼけた声を漏らす。
目は閉じたままだ。
どうやら眠りの底で、自分に向けられた言葉だけを拾ったらしい。
ルシアンは、思わず小さく苦笑して返した。
「何でもねぇよ」
「そう……」
納得したのかしていないのか、ベルローズはそれだけ呟くと、再び眠りへと戻っていく。
その拍子に、掛け布の中から伸びてきた手が、彼の服の裾をつまんだ。
ルシアンはその手を見下ろし、今度こそ何も言わなかった。




