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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第8章:寄り添う安息

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第68話:熱の残滓 ―魔女の爪と、獣の牙―

 翌朝。

 ベルローズの寝室には、まだ夜の熱が微かに燻っていた。


 厚いカーテンの隙間から差し込む、灰白色の朝の光。

 湿った夏の空気は、昨夜閉ざされたままだった室内へ、静かに滞留している。

 乱れたシーツには深い皺が刻まれ、床へ落ちた黒いレースの一部が、薄明かりの中で影を落としていた。


 ベルローズは寝台の中央へ、半ば沈み込むように横たわったまま、ぼんやりと天蓋を見上げていた。

 身体が重く、喉も掠れて痛い。

 全身へ、鈍い倦怠感が絡みついている。


 特に腰から脚にかけては、少し動かそうとするだけで、熱を帯びた痺れのような感覚が走る。

 深く息を吸うたび、昨夜どれだけ長く彼の腕の中へ閉じ込められていたのかを、嫌でも思い出す。

 ベルローズは片腕で目元を覆い、眉を寄せた。


(……この幻獣相手に、あんな真似をした私は、本当に愚かだったのではないかしら)


 今になってようやく、冷徹な理性が戻ってきていた。

 昨日、中庭であの悪戯じみた水遊びをした時、自分は何を考えていたのだろう。


 ほんの少し、甘えたかっただけだった。

 離れていた時間を埋めるように。

 彼が自分を見てくれることを、確かめたかっただけだった。


 けれど相手はルシアンだということを、自分は忘れていたのではないか。

 彼は誇り高く、執着深く。

 そして、こちらが差し出した熱を決して見逃さない。

 野生の献身を宿した獣なのだから。


 帰路に就いたセレスティアたちの気配を感じ取った彼は、一度はベルローズを解放した。

 ベルローズもまた、乱れた呼吸も熱を帯びた角も隠しとおした。

 何事もなかった顔で庭へ立ち、普段通りの冷静な魔女を演じ切ったのだ。


 セレスティアの報告へ穏やかに頷き、ピピの小言を聞き流し、アマンダの笑みを受け止める。

 その間、ただ一人、ルシアンだけが知っていた。

 ほんの少し前まで、彼女がどんな顔で彼の胸へ縋りついていたのかを。


 そして夜が深まり、皆が寝静まったころ。

 彼は当然のように、再びベルローズをその手に捕らえた。

 昼間に途切れた熱を埋め直し、確かめ直すように。

 彼女を腕の中へ閉じ込め、結局朝方まで一度も逃がさなかったのだ。


「……あんた、相変わらず体力ないな」


 寝台の端へ腰掛けていたルシアンが、彼女を見下ろしてそう呟いた。

 ベルローズは掛け布へ半分埋もれたまま、ゆっくりと彼を睨みつける。


「なん、ですって……?」


 掠れた声が、思っていた以上に頼りなく響いた。

 濃藍色の髪は少し乱れているが、彼は信じられないほど平然としている。

 ルシアンは鼻を鳴らすと寝台から立ち上がり、床に落ちていたシャツを拾い上げた。

 何気なくその背を目で追ったベルローズは、思わず息を止めた。


 窓から差し込む白い光が、彼の背中を縁取っている。

 広い肩と、引き締まった背。

 その肩甲骨のあたりへ、細く赤い跡が幾筋か残されていた。

 昨夜、彼の身体へ縋りついたとき。

 どうしても抑えきれなくなって、力を込めてしまった指先の、その感覚まで鮮明に蘇る。


「…………」


 ベルローズは反射的に顔を逸らした。

 自分が、あんなにも無我夢中で彼に縋っていたこと。

 普段なら決して見せない姿を、この男にはすべて晒してしまうこと。

 朝になって改めて突きつけられると、羞恥が遅れて押し寄せてくる。


 ルシアンは、手に取ったシャツを頭から被ろうとして、ふと腕を止めた。 

 右腕の内側に、薄い赤みと、小さく並んだ歯の痕が残されている。

 彼は視線を落として瞬きをし、それをしばらく眺めた。


「ちいせぇ歯型だな」


「……見ないでくれる?」


 ベルローズは、更に深く掛け布の中へと潜り込んだ。

 ルシアンは薄く笑みを浮かべると、麻のシャツをばさりと被った。

 耳を少し動かしたあと、袖を適当に捲る。


 別に痛かったわけでもないし、傷として心配するようなものでもないのだろう。

 けれどベルローズにとっては、それどころではない。


「……私、そんなことを」


「ん?」


 彼女が小さく漏らすと、ルシアンはぴくりと耳を動かした。


「なんでも、ないわ……」


 記憶をたどれば、思い当たる節はいくつもあった。

 何かに耐えるように唇を噛み。

 それに気づいて差し出されたルシアンの指先に、まずは噛みついた。


 それから、声を抑えようとして、それでも抑えきれず。

 目の前にあった彼の腕へ歯を立てたのは、確かにベルローズ自身だった。

 あのときは、それ以外の事を考える余裕などなかったのだ。


 そんな彼に対して、ベルローズには、彼の爪や牙の痕は残っていない。

 ルシアンは、自分の身体がどれほど強く、鋭いのかを知っている。

 獣の牙が、どれほど容易く皮膚を傷つけるかも。

 爪に少し力を込めるだけで、彼女の柔らかな肌が簡単に裂けてしまうことも。 

 

 ルシアンはいくら熱に吞まれても、決してそこだけは忘れない。

 彼は、自分のものだと主張するように、ベルローズの肌に残せるものは残そうとする。

 何度も甘く噛むことはするし、消えにくい痕を付けることもよくある。

 それでも、傷になるほどの力は使わない。

 我慢というより、彼にとってはもう、身体に染みついた判断だった。


 ベルローズを抱く腕の強さを知っているからこそ。

 自分の爪と牙の鋭さを知っているからこそ。

 触れる時だけは、最後のところで必ず加減する。

 ベルローズが自分につけた爪痕や歯型程度、彼はさして気にならないのだろう。

 むしろ彼女が自分に残した、愛しいものとして扱っていた。


(……ルシアン)


 これでは余程、自分のほうが獣ではないのか。

 ベルローズはその事実に気づいて、また頬が熱くなる。

 自分はあれほど彼へ爪を立て、噛みついてしまったのに、彼は決して同じことを返さない。

 それでも、残せるものは残していくのが、かえって彼らしい。


「ずるいのよ、あなたは」


 思わず漏れた言葉に、ルシアンが振り返る。

 ベルローズは答えないまま、ただ、彼の首元へ視線を向ける。

 麻のシャツに隠れかけた肩口にも、薄く残った赤みがある。

 自分がいくつも、彼に残してしまった痕跡。


「何がだよ?」


「何でもないわ……」


 答えられるはずがない。

 何か言えば、必要以上に、またあのサファイアの瞳に見透かされてしまう。

 ルシアンはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。


「あんた、ほんとに起きられねぇのか?」


「……起きようとは、しているわ」


「しただけだろ。だから体力ねぇなって言ってんだよ」


 彼を睨みつける視線を受け流すルシアンの口元には、わずかに笑みが浮かんでいる。

 あれだけ長く自分を抱き潰しておいて、彼には疲労の気配すらほとんどない。

 その事実が、ベルローズには余計に腹立たしい。


「……何を、馬鹿な……。私は普通よ、あなたが規格外なだけでしょう……」


 掠れた声でそう返すと、ルシアンは小さく鼻を鳴らした。


「何でも魔法で済まそうとするからじゃねぇのか?」


「誰のせいで、こうなっていると思っているの……」


「先に煽ったのはあんただろ」


 ベルローズは本気で困惑し、呆れたように目を閉じた。

 彼はどうしてこう、悪びれないのだろう。

 疲弊した姿を誰かへ晒すなど、本来のベルローズにとっては屈辱でしかない。


 彼の番(つがい)として組み伏せられる幸せを、甘んじて受け入れていたのも事実だ。

 けれど、まして今のように髪は乱れ、身体は動かず。

 寝台から起き上がることすら、億劫になっている姿など。

 誰にも、絶対に見せたくないはずだった。


 だが、ルシアンの前では、そうした取り繕いが意味を持たなくなる。

 彼はベルローズの弱さも疲弊も欲も、すべてを見た上で、なお当然のように隣へ居続ける。

 その手が髪に触れ、至近距離に立ち、どれほど踏み込んできても。

 彼女の境界が、拒絶を呼び起こすことはない。


 ベルローズが起き上がろうとして身を起こしかけると、腰に鈍い重みが走った。

 思わず小さく息を詰め、そのまま再び寝台へ沈み込む。


 ルシアンはそれを見て、呆れたように鼻から浅く息を吐いた。

 彼の手が、彼女の額に宥めるように触れる。

 前髪を丁寧な手つきで分け、ルシアンは彼女の額へと、ほんの短い時間だけ唇を寄せた。


「……仕方ねぇな、わかったよ」


 苛立ちを露わにしたベルローズの紅い瞳を受け止め、低い声でそう言うと、彼は立ち上がる。

 大きな背中が窓際の光を遮り、室内へ濃い影を落とした。


「なんか飲むだろ、持ってくる。あんたは寝てろ」


 ベルローズは返事をする気力もなく、ただ片手で額を押さえた。

 微かに触れただけの彼の唇の余韻が、妙に残っている。

 そして、視界の端に映った彼の腕にはまだ、小さな歯型が残っていた。

 ベルローズはそれを見ないふりをして、掛け布を少しだけ引き上げた。


 ルシアンは部屋を出る前に一度だけ振り返り、寝台へ沈む彼女を見下ろす。

 そのサファイアブルーの瞳には呆れもあったが、それ以上に、満たされた獣の静かな熱が残っていた。


 ベルローズはその目を見てより腹立たしくなり、掛け布を鼻先まで引き上げる。

 ルシアンはふっと唇を緩めて笑うと、そのまま部屋を出ていった。

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