第67話:濡れた熱の行方 ―あなたにだけ見せるもの―
「……頭打ったらどうしてくれんだよ」
その口調は軽いが、ルシアンの心臓は妙にうるさい。
ベルローズがこんなことをするのは、初めてだった。
彼女から距離を詰めてくることはある。
寄り添い、手を握り、眠る時に体温を求めることもあった。
だが、こんなふうに悪戯を仕掛け、彼を押し倒して上から見下ろしてくるなど。
これまで一度もなかった。
しかも今の彼女は、明らかに分かってやっている。
自分が受け止めることも、自分が拒まないことも。
ベルローズはルシアンの広い肩に両手をついたまま、じっと彼を見下ろしていた。
深紅の瞳が、初夏の光の中で煌めいている。
そこにはいつもの冷ややかな知性も確かにあるが、それだけではない。
「あなたなら、受け止めてくれると思ったの」
ほんの微かな、悪戯が成功した子供のような愉悦。
そして、抑えきれないほどではないが、確かに存在する湿った熱。
ルシアンはその瞳を見た瞬間、喉の奥が乾くのを感じた。
「信頼が重すぎんだろ……」
「嫌だったかしら?」
ベルローズは、小首を傾げてルシアンを見る。
瞳に宿る熱とは裏腹に、少女のような仕草だった。
「……そうは言ってねぇよ」
「それなら、構わないでしょう?」
その声音はいたって穏やかだ。
だが、その奥にある甘えは、これまでのベルローズにはほとんど見られなかったものだった。
ルシアンはサファイアブルーの瞳を細める。
彼女は今、自分にしか見せない幼さを、わざと差し出している。
拒まれないことを、確かめるように。
自分の醜く乱れた部分も、受け入れられると信じたいかのように。
ベルローズはほんの少しだけ身を屈め、彼との距離を縮めた。
黒髪がさらりと零れ落ち、ルシアンの頬へ冷たい影を作る。
薔薇の香りと、初夏の水気を含んだ肌の匂い。
吐息が混ざり合いそうなほど距離が近づいても、彼女は目を逸らさなかった。
「私がこんな子供じみたことをするのは、あなたにだけよ」
その声は低く、柔らかかった。
夏の熱を含んだ風が、二人の髪をゆっくり揺らしていく。
「受け入れてくれないの?」
言葉だけなら、ただの戯れにも聞こえただろう。
それでもその深紅の瞳には、わずかながら、確かな色情が混じっていた。
ルシアンは一瞬、返す言葉を失った。
獣の本能が、目の前の熱へ反応する。
押し倒されているのは自分のはずなのに、主導権を奪われている感覚はなかった。
彼女が自分へ預けてくる感情の重さを、全身で受け止めているようだ。
だが同時に、彼はその奥にある不安も見ていた。
ベルローズは誘っている。
けれど、それ以上に確かめている。
自分の弱さも、幼さも欲も、全部ここに置いていいのかと。
愛されることに、どれだけ時間が経っても慣れきれない。
そんな彼女が、恐る恐るこちらへ身を寄せてきている。
ルシアンはゆっくりと片手を上げ、彼女の黒髪へ触れた。
指先で一房を掬い、耳の後ろへ流す。
その仕草は、彼にしては奇妙なほどに繊細だった。
指先が触れるたび、ベルローズの肩がほんの少し震える。
「……あんたが俺にだけ見せるもんを、俺が拒むと思うかよ」
ベルローズの深紅の瞳から、張り詰めていたものがほどける。
ルシアンは彼女の腰を支える腕へ、少しだけ力を込めた。
「ただな。やるなら、もうちょっと場所を選べ」
呆れたように言いながらも、ルシアンの声はどこか低く掠れていた。
「今は誰もいないわ」
ベルローズはそれに気づいたのか、唇へ微かな笑みを浮かべる。
いつもの冷たく美しい、魔女のものとは違う。
自分が彼を揺らしていることを理解した女の、危うい微笑だった。
「戻ってきたらどうすんだ」
「その時は、あなたが誤魔化してくれるでしょう?」
「……俺任せかよ」
ルシアンは鼻から小さく息を吐き、慣れた仕草で、彼女の後頭部へ手を回した。
無理に引き寄せるのではなく、逃げるなら逃げられる程度の力で。
彼はゆっくりと、距離を詰める。
ベルローズは逃げなかったどころか、むしろ、彼女の方から顔を近づけた。
唇が触れる寸前。
庭を渡る風が二人の間へ、薔薇の濃密な香りを運んだ。
その口づけは、最初は驚くほど静かだった。
濡れた水滴の冷たさと、身体の奥に溜まった熱が、触れ合った場所からゆっくり混ざり合っていく。
ルシアンは彼女の呼吸を確かめるように、浅く、丁寧に唇を重ねた。
一度離れては、また触れる。
ベルローズはそのたびに瞼を伏せ、彼の肩へ置いた指先へ力を込める。
それを感じ取ったルシアンが、今度はわずかに長く唇を重ねる。
ベルローズの唇は、雨上がりの花弁のようにひやりとしていた。
けれど、重ね続けるうちに少しずつ熱を帯び、彼へ柔らかく馴染んでいく。
ルシアンはそれを感じながら、胸の奥が鈍く満たされていく感覚を覚えていた。
彼女は今、自分へ甘えている。
冷徹な魔女でも、ドラクロワの当主でもなく。
たったひとりの、彼の番として。
「あんた、ずいぶん大人しくなったな」
「……知らないわ。いま、……わざわざ言わないで」
「はいはい……」
浅く重ねられていた唇が、次第に深く触れはじめる。
交わった舌先に、ベルローズの呼吸が揺れた。
その音を聞いたルシアンの喉が、低く鳴る。
子供じみた悪戯から始まったはずなのに、そこにはもう、軽さだけでは収まらない感情が沈んでいた。
やがてベルローズが、ほんのわずかに唇を離した。
呼吸は未だ近く、薄っすらと潤んだ深紅の瞳が、ルシアンを見下ろしている。
角の根元が淡く、熱を帯びたように光っていた。
ルシアンはそれを見て、喉の奥で低く笑う。
「……わかりやすいな」
「あなたには、そうかもしれないわね」
ルシアンの胸の奥で、何かが深く満たされていく。
自分にだけ。
そう言われるたび、獣の独占欲が疼く。
彼女の弱さや甘えが、自分だけに向けられている。
それだけで、どうしようもなく価値があると思える。
ベルローズは彼の胸元へ手を置いたまま、ゆっくりと目を細めた。
先ほどまでの悪戯な表情は薄れ、代わりに、どこか安堵したような静けさが宿っていた。
霊峰の旅以来、彼女の胸の奥に沈んでいる不安が緩んでいく。
触れればここにいる、抱き寄せれば熱が返ってくる。
当たり前のことなのに、それがひどく愛おしかった。
ルシアンはそんな彼女を見上げながら、小さく息を吐く。
正直、このままこの場で押し倒してしまいたい衝動はあった。
彼女の濡れた黒髪も、熱を帯びた深紅の瞳も、すべてが無防備なものに見える。
だが同時に、ここが中庭であるという理性も、まだ辛うじて残っていた。
セレスティアたちが戻ってきた時、石畳の上で魔女を抱き潰していたなどという状況は、さすがに避けたい。
「……ベルローズ、立て」
「何かしら、また命令するつもりなの?」
「提案だって言ってるだろ。……嫌なら俺はこのままでも構わねぇんだぞ」
ベルローズは何かを決めかねたように視線を宙へと投げると、目を細めた。
その一瞬に、ルシアンの理性が不穏に軋む。
もし彼女が「このままでいい」と言ったなら、自分は本当に止まれるのか分からなかった。
だがベルローズはやがて小さく息を吐き、彼の胸元からゆっくりと身を起こした。
ルシアンもまた、片腕で彼女を支えながら上体を起こす。
黒いドレスの裾を払うベルローズの手つきは、いつものように優雅だ。
だが、その頬にはまだ淡い熱が残っていた。
彼女はそれを隠すように、髪を耳へ掛け直す。
ルシアンは立ち上がり、彼女の手を取る。
濡れた石畳の上、二人の影が、夏の光の中で重なっていた。
森の向こうでは、セレスティアたちが集落を発つ頃だろうか。
城はただ静かで、薔薇は湿った風に揺れ、霊峰の温室からは淡い冷気が漂ってくる。
ベルローズは何も言わず、少しだけ名残惜しそうに、ルシアンの手を握り返した。
ルシアンはその指先を見下ろし、低く呟く。
「……続きは、場所を選んでからだ」
ベルローズの深紅の瞳が、すっと細められる。
「何の続きかしら」
「言わねぇとわかんねぇか?」
「ええ。……私は、庭の水やりをしていただけだもの」
そう言って彼女は、薄く微笑んだ。
その顔は涼しげで、いつもの冷たい魔女そのものだったが、繋いだ手は決して離れない。
ルシアンは呆れたように息を吐きながらも、その手を強く握り直す。
初夏の庭に、薔薇の香りが深く満ちている。
水に濡れた石畳の上で、二人の距離は先ほどよりもずっと近くなっていた。
その静かな熱は、誰もいない城の奥深くで、ゆっくりと続いていく。




