↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第8章:寄り添う安息

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
67/83

第66話:初夏の戯れ ―魔女の小さな悪戯―

 夏病の薬は、少しずつではあるが、確かに集落の人々を救い始めているらしかった。


 熱に浮かされていた子どもが、ようやく眠れるようになっただとか。

 数日間水すら受け付けなかった老人が、粥を口にしただとか。

 そんな報せが、エマを通してぽつぽつと、ドラクロワ城へ届き始めている。


 セレスティアは今日もまた、エマのもとへ向かっている。

 朝早くから薬の追加分と、アマンダが選別した補助用の薬草を抱え、張り切って城を出ていった。


 ピピはそれに付き添い、薬瓶の本数や荷の固定を最後まで確認しながら、相変わらず忙しなく小言を並べていた。

 アマンダもまた、病の経過と薬の効き方を見るために同行している。

 彼女が留守にしている温室には、いつもより少しだけ深い静けさが落ちていた。

 結果として、初夏の風が吹くドラクロワ城には、今日もベルローズとルシアンだけが残されている。


 中庭には、禁忌の森から流れてくる濃い緑の香りと、草花の生命力に満ちた匂いが満ちていた。

 前夜に降った細かな雨が、石畳へ薄く残っている。

 薔薇の花弁は深い艶を帯び、蔓の影は陽光の下で、濃く揺れていた。


 霊峰の植物を育てる小さな温室では、青白い花が淡い冷気を漂わせ、その周囲だけが夏の熱から切り離されたようだった。

 だが庭全体には、確かに初夏の湿った暑さがある。

 空気は重く肌にまとわりつき、わずかに動くだけで汗が滲む。


 ルシアンは訓練場の片隅で訓練着に着替え、石人形を相手にゆっくりと身体をほぐしていた。

 激しい打ち込みではなく、あくまで感覚を整えるための動きだった。


 肩を回し、重心を落とし、足裏で石畳の熱を確かめるように踏み込む。

 魔力はほとんど使わず、肉体の動きだけで石人形の腕を受け流して懐へ入り、寸前で止める。


 北方霊峰の冷たい空気の中では鋭く冴えていた身体も、この湿った暑さの中ではどうにも重い。

 ルシアンは小さく息を吐き、額へ滲んだ汗を手の甲で拭った。

 濃藍色の前髪が張り付き、鍛えられた首筋を、一筋の汗がゆっくりと伝い落ちる。


 少し離れた場所では、ベルローズが薔薇の根元へ水をやっていた。

 漆黒の髪を軽く纏め、ルシアンが贈った髪飾りを、さりげなく結び目に留めている。


 細い如雨露(じょうろ)を手に、黒いドレスの裾をわずかに持ち上げながら。

 彼女は一見、いつも通りの静かな所作で、草花の世話をしている。


 だが、その深紅の瞳は時折、横目でルシアンを追っていた。

 本人はそれを隠しているつもりなのだろうが、ルシアンには分かっている。


 霊峰から戻って以来。

 彼女は以前よりずっと、自分を視界に入れたがるようになった。

 今日もまた、薬室にいるわけでもなく、書斎へ籠もるわけでもなく。

 こうしてわざわざ、中庭で水をやっている。


 ベルローズ自身も、とうに気づいていた。

 自分の行動が、妙に落ち着きのないものと化している。


 ルシアンがそこにいるだけで、どうしても視線が向く。

 石畳を踏み込む足の運びも。

 肩から腕へ流れる筋肉の動きも、汗を拭う何気ない仕草も。

 以前よりずっと強く、意識の端へ引っ掛かる。


 彼女の中で、霊峰へ送り出した数日間が、未だ完全には終わっていないのだ。

 戻ってきた今でさえ、ふとした瞬間に、あの冷たい山へ再び彼が消えてしまうような錯覚が、胸を掠める。


 だからなのかもしれない。

 今こうして、目の届く場所にいる彼へ、無意味なほど触れたくなるのは。


 ルシアンはそんな彼女を、見て見ぬふりをした。

 彼女がそうしたいのなら、好きにさせておけばいい。

 ベルローズが、自分のそばにいることで落ち着くというなら、それはそれで悪くなかった。


 いや、正直なところ、『悪くない』どころではない。

 あの冷たい魔女が、自分の存在を求めているという事実。

 それだけで、彼の胸の奥に獣じみた満足感が、静かに広がっていく。

 自分に呆れながら、ルシアンはもう一度石人形へ向き直った。


 その時、彼の首筋へ冷たいものが散った。

 ほんの少量の水だった。


 雨粒でも、どこかから落ちたものでもない。

 明らかに、横から飛んできた。


「…………」


 ルシアンは動きを止め、ゆっくりとベルローズの方を見やった。

 彼女は何事もなかったかのように、薔薇の根元へ水を注いでいる。

 深紅の瞳は花壇へ向けられ、こちらを少しも見ていない。


(……俺の気のせいか?)


 あまりにも平然としているせいで、彼はそう思いかけた。

 だが、再び身体を動かし始めた直後。

 今度は肩口へ小さな水滴が散り、ルシアンは眉を寄せる。


 ベルローズはやはりこちらを見ておらず、如雨露の先は花壇へ向いている。

 けれどその水の一部だけが、明らかにおかしな軌道を描いて、こちらへ飛んできていた。


「……おい」


 ルシアンが低く呼ぶと、ベルローズはゆっくりと瞬きをした。

 そして、ようやく彼の方へと顔を向ける。


「何かしら」


「今、水飛ばしただろ」


「水やりをしていただけよ」


 平然とした声だったが、角の根元が淡く光っている。

 彼女が何かを誤魔化している時の、分かりやすい揺らぎだった。

 ルシアンはその態度に、呆れたように目を細めた。


「薔薇の根元から俺の肩まで、水が跳ねるわけねぇだろ」


「そうかしら。……不思議なこともあったものね」


 ルシアンはしばらく黙り、ベルローズはすました顔で、水やりへ戻る。

 だが、その白い指先が如雨露の取っ手をほんの少し強く握っているのを、彼は見逃さなかった。


 何を考えているのかまでは分からない。

 けれど、彼女がこちらの反応を見ていることだけは確かだった。


 ベルローズは内心、自分でも呆れていた。

 こんな幼稚な真似をしてまで注意を引きたいのか、と。

 だが、ルシアンが振り返るたび、胸の奥が妙に熱を帯びる。

 彼の視線が自分へ向くだけで、霊峰へ送り出していた間の空白が、少し埋まる気がした。


 ルシアンはあえて何も言わないままで、訓練を再開した。

 石人形の腕を避け、足を滑らせるように踏み込み、身体を低く回したその瞬間。

 今度は背中へ、細い水の筋がかかった。

 冷たさが熱を帯びた肌へ走り、濃藍色の髪の先から水滴が落ちる。


 ルシアンのこめかみが、わずかに動いた。

 振り返ると、ベルローズはやはり知らん顔をしている。

 あまりにも、見事な知らん顔だった。


 四度目は額だった。

 冷たい雫が眉間へ落ち、目元を伝う。


 ルシアンはそこでようやく、大きな溜息をついて、訓練を完全に止めた。

 石人形を片手で押しのけ、濡れた髪をかき上げる。


 ゆっくりと歩みを進める彼の足音が、石畳に低く響く。

 ベルローズはなおも水やりを続けているが、その睫毛が微かに震えた。


「……何ガキみたいなことやってんだ」


 ルシアンが目の前まで来てそう言っても、ベルローズはしゃがみ込んだ姿勢のまま、素知らぬ顔で、薔薇の株元へ水を落としていた。


 初夏の日差しが彼女の黒髪へ艶を与え、白い横顔に薄い影を落としている。

 細い首筋には、じわりと汗が滲んでいた。


「おい、聞いてんのかよ」


 ルシアンは彼女の隣へ屈み込む。

 近づいた途端。

 薔薇の濃い香りと、ベルローズの纏う冷たい魔力の気配が混ざりあい、彼女がひどく近く感じられた。


「聞いているわ。水やりをしていただけだと言ったでしょう」


「俺にか?」


「あなたは花ではないでしょう?」


 その言い方はいつも通り冷ややかだったが、ルシアンはもう分かっていた。

 ベルローズは試している。

 言葉ではなく、ほんの小さな悪戯で。

 自分がどこまで受け止めるのかを、確かめている。


 霊峰の旅以降、彼女の中に残った不安は、今も完全には消えていないのだろう。

 離れていた時間を埋めるように。

 視線だけでなく、触れる理由を探している。


 だというのに、それを素直に言えない。

 だから、水を飛ばすなどという妙な形になるのだ。

 ルシアンは、呆れたように息を吐いた。


「ほんとに、素直じゃねぇな」


 その言葉を聞いたベルローズの深紅の瞳が、こちらへ向いた。

 水を湛えた如雨露が、静かに石畳へ置かれる。


 次の瞬間には、彼女の白い手がルシアンの肩へ伸びていた。

 まるで花弁へ触れるような、軽い動きだった。

 だが、そのまま意外なほど迷いなく、力が込められる。


 ルシアンは抵抗しなかった。

 いや、抵抗しようと思えばいくらでもできたのだ。


 ベルローズの力で、本来なら彼の身体を倒せるはずがない。

 けれど彼女が力を込めた一瞬。

 彼は自然と力を抜き、彼女を受け止める形で、背中から石畳へ倒れ込んだ。


 硬い石へ当たる直前、腕で衝撃を逃がし、片手でベルローズの腰を支える。

 彼女の身体がルシアンの上へ重なり、黒いドレスの裾が、石畳へふわりと広がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。