第66話:初夏の戯れ ―魔女の小さな悪戯―
夏病の薬は、少しずつではあるが、確かに集落の人々を救い始めているらしかった。
熱に浮かされていた子どもが、ようやく眠れるようになっただとか。
数日間水すら受け付けなかった老人が、粥を口にしただとか。
そんな報せが、エマを通してぽつぽつと、ドラクロワ城へ届き始めている。
セレスティアは今日もまた、エマのもとへ向かっている。
朝早くから薬の追加分と、アマンダが選別した補助用の薬草を抱え、張り切って城を出ていった。
ピピはそれに付き添い、薬瓶の本数や荷の固定を最後まで確認しながら、相変わらず忙しなく小言を並べていた。
アマンダもまた、病の経過と薬の効き方を見るために同行している。
彼女が留守にしている温室には、いつもより少しだけ深い静けさが落ちていた。
結果として、初夏の風が吹くドラクロワ城には、今日もベルローズとルシアンだけが残されている。
中庭には、禁忌の森から流れてくる濃い緑の香りと、草花の生命力に満ちた匂いが満ちていた。
前夜に降った細かな雨が、石畳へ薄く残っている。
薔薇の花弁は深い艶を帯び、蔓の影は陽光の下で、濃く揺れていた。
霊峰の植物を育てる小さな温室では、青白い花が淡い冷気を漂わせ、その周囲だけが夏の熱から切り離されたようだった。
だが庭全体には、確かに初夏の湿った暑さがある。
空気は重く肌にまとわりつき、わずかに動くだけで汗が滲む。
ルシアンは訓練場の片隅で訓練着に着替え、石人形を相手にゆっくりと身体をほぐしていた。
激しい打ち込みではなく、あくまで感覚を整えるための動きだった。
肩を回し、重心を落とし、足裏で石畳の熱を確かめるように踏み込む。
魔力はほとんど使わず、肉体の動きだけで石人形の腕を受け流して懐へ入り、寸前で止める。
北方霊峰の冷たい空気の中では鋭く冴えていた身体も、この湿った暑さの中ではどうにも重い。
ルシアンは小さく息を吐き、額へ滲んだ汗を手の甲で拭った。
濃藍色の前髪が張り付き、鍛えられた首筋を、一筋の汗がゆっくりと伝い落ちる。
少し離れた場所では、ベルローズが薔薇の根元へ水をやっていた。
漆黒の髪を軽く纏め、ルシアンが贈った髪飾りを、さりげなく結び目に留めている。
細い如雨露を手に、黒いドレスの裾をわずかに持ち上げながら。
彼女は一見、いつも通りの静かな所作で、草花の世話をしている。
だが、その深紅の瞳は時折、横目でルシアンを追っていた。
本人はそれを隠しているつもりなのだろうが、ルシアンには分かっている。
霊峰から戻って以来。
彼女は以前よりずっと、自分を視界に入れたがるようになった。
今日もまた、薬室にいるわけでもなく、書斎へ籠もるわけでもなく。
こうしてわざわざ、中庭で水をやっている。
ベルローズ自身も、とうに気づいていた。
自分の行動が、妙に落ち着きのないものと化している。
ルシアンがそこにいるだけで、どうしても視線が向く。
石畳を踏み込む足の運びも。
肩から腕へ流れる筋肉の動きも、汗を拭う何気ない仕草も。
以前よりずっと強く、意識の端へ引っ掛かる。
彼女の中で、霊峰へ送り出した数日間が、未だ完全には終わっていないのだ。
戻ってきた今でさえ、ふとした瞬間に、あの冷たい山へ再び彼が消えてしまうような錯覚が、胸を掠める。
だからなのかもしれない。
今こうして、目の届く場所にいる彼へ、無意味なほど触れたくなるのは。
ルシアンはそんな彼女を、見て見ぬふりをした。
彼女がそうしたいのなら、好きにさせておけばいい。
ベルローズが、自分のそばにいることで落ち着くというなら、それはそれで悪くなかった。
いや、正直なところ、『悪くない』どころではない。
あの冷たい魔女が、自分の存在を求めているという事実。
それだけで、彼の胸の奥に獣じみた満足感が、静かに広がっていく。
自分に呆れながら、ルシアンはもう一度石人形へ向き直った。
その時、彼の首筋へ冷たいものが散った。
ほんの少量の水だった。
雨粒でも、どこかから落ちたものでもない。
明らかに、横から飛んできた。
「…………」
ルシアンは動きを止め、ゆっくりとベルローズの方を見やった。
彼女は何事もなかったかのように、薔薇の根元へ水を注いでいる。
深紅の瞳は花壇へ向けられ、こちらを少しも見ていない。
(……俺の気のせいか?)
あまりにも平然としているせいで、彼はそう思いかけた。
だが、再び身体を動かし始めた直後。
今度は肩口へ小さな水滴が散り、ルシアンは眉を寄せる。
ベルローズはやはりこちらを見ておらず、如雨露の先は花壇へ向いている。
けれどその水の一部だけが、明らかにおかしな軌道を描いて、こちらへ飛んできていた。
「……おい」
ルシアンが低く呼ぶと、ベルローズはゆっくりと瞬きをした。
そして、ようやく彼の方へと顔を向ける。
「何かしら」
「今、水飛ばしただろ」
「水やりをしていただけよ」
平然とした声だったが、角の根元が淡く光っている。
彼女が何かを誤魔化している時の、分かりやすい揺らぎだった。
ルシアンはその態度に、呆れたように目を細めた。
「薔薇の根元から俺の肩まで、水が跳ねるわけねぇだろ」
「そうかしら。……不思議なこともあったものね」
ルシアンはしばらく黙り、ベルローズはすました顔で、水やりへ戻る。
だが、その白い指先が如雨露の取っ手をほんの少し強く握っているのを、彼は見逃さなかった。
何を考えているのかまでは分からない。
けれど、彼女がこちらの反応を見ていることだけは確かだった。
ベルローズは内心、自分でも呆れていた。
こんな幼稚な真似をしてまで注意を引きたいのか、と。
だが、ルシアンが振り返るたび、胸の奥が妙に熱を帯びる。
彼の視線が自分へ向くだけで、霊峰へ送り出していた間の空白が、少し埋まる気がした。
ルシアンはあえて何も言わないままで、訓練を再開した。
石人形の腕を避け、足を滑らせるように踏み込み、身体を低く回したその瞬間。
今度は背中へ、細い水の筋がかかった。
冷たさが熱を帯びた肌へ走り、濃藍色の髪の先から水滴が落ちる。
ルシアンのこめかみが、わずかに動いた。
振り返ると、ベルローズはやはり知らん顔をしている。
あまりにも、見事な知らん顔だった。
四度目は額だった。
冷たい雫が眉間へ落ち、目元を伝う。
ルシアンはそこでようやく、大きな溜息をついて、訓練を完全に止めた。
石人形を片手で押しのけ、濡れた髪をかき上げる。
ゆっくりと歩みを進める彼の足音が、石畳に低く響く。
ベルローズはなおも水やりを続けているが、その睫毛が微かに震えた。
「……何ガキみたいなことやってんだ」
ルシアンが目の前まで来てそう言っても、ベルローズはしゃがみ込んだ姿勢のまま、素知らぬ顔で、薔薇の株元へ水を落としていた。
初夏の日差しが彼女の黒髪へ艶を与え、白い横顔に薄い影を落としている。
細い首筋には、じわりと汗が滲んでいた。
「おい、聞いてんのかよ」
ルシアンは彼女の隣へ屈み込む。
近づいた途端。
薔薇の濃い香りと、ベルローズの纏う冷たい魔力の気配が混ざりあい、彼女がひどく近く感じられた。
「聞いているわ。水やりをしていただけだと言ったでしょう」
「俺にか?」
「あなたは花ではないでしょう?」
その言い方はいつも通り冷ややかだったが、ルシアンはもう分かっていた。
ベルローズは試している。
言葉ではなく、ほんの小さな悪戯で。
自分がどこまで受け止めるのかを、確かめている。
霊峰の旅以降、彼女の中に残った不安は、今も完全には消えていないのだろう。
離れていた時間を埋めるように。
視線だけでなく、触れる理由を探している。
だというのに、それを素直に言えない。
だから、水を飛ばすなどという妙な形になるのだ。
ルシアンは、呆れたように息を吐いた。
「ほんとに、素直じゃねぇな」
その言葉を聞いたベルローズの深紅の瞳が、こちらへ向いた。
水を湛えた如雨露が、静かに石畳へ置かれる。
次の瞬間には、彼女の白い手がルシアンの肩へ伸びていた。
まるで花弁へ触れるような、軽い動きだった。
だが、そのまま意外なほど迷いなく、力が込められる。
ルシアンは抵抗しなかった。
いや、抵抗しようと思えばいくらでもできたのだ。
ベルローズの力で、本来なら彼の身体を倒せるはずがない。
けれど彼女が力を込めた一瞬。
彼は自然と力を抜き、彼女を受け止める形で、背中から石畳へ倒れ込んだ。
硬い石へ当たる直前、腕で衝撃を逃がし、片手でベルローズの腰を支える。
彼女の身体がルシアンの上へ重なり、黒いドレスの裾が、石畳へふわりと広がった。




