第65話:静かな留守番 ―娘の帰りを待ちながら―
セレスティアたちが、薬を抱えて森の道へ出ていった後。
ベルローズは薬室の作業台に残った器具を片づけながら、何度も同じ硝子棒を拭いている自分に気づき、手を止めた。
慣れた森の道なのだから、薬を届けて戻るだけなら大きな危険はないだろう。
ピピもアマンダも、共にいる。
そう理解しているのに、胸の奥には、帰還を待つ者特有の落ち着かなさが広がっていく。
ルシアンは薬室の入口近くの壁へ背を預け、腕を組んだまま黙っていた。
彼もまた、完全に平静を保つわけにはいかずにいた。
耳は時折、城門の方角へ向き、森の風に混じる娘の気配を拾おうとしている。
セレスティアがどの道を歩き、どの速度で進んでいるかも、危険な魔力の淀みが近くにないことも、彼には理解できる。
それでも、視界の届かない場所へ送り出すことには、やはり慣れない。
まして今、彼女は助けを待つ人間たちのもとへ向かっている。
自分が前へ出て全てを蹴散らせば済む話ではなく、娘自身が誰かへ手を伸ばしに行っている。
その成長は認めているが、心配が消えるかは、まるで別の問題だった。
「気になるなら、城門まで行けばいいでしょう?」
ベルローズが、硝子瓶を棚へ戻しながら口を開く。
ルシアンは鼻を鳴らし、低い声で返した。
「俺に言ってんのか、自分に言ってんのか、どっちだよ」
その返答に、ベルローズの手が止まる。
彼女は何事もなかったように棚の扉を閉めたが、深紅の瞳が目に見えて揺らいでいる。
ルシアンはその横顔を見て、小さく息を吐く。
北方霊峰から戻って以来。
ベルローズは以前よりずっと、分かりやすくなっている。
とは言っても、他者から見ればなお冷静で、凛として。
感情の輪郭を綺麗に隠す、魔女のままだろう。
だがルシアンには分かる。
視線の動き、指先の緊張、角に灯る魔力の淡い揺らぎ。
そうした彼女の小さな欠片を、彼はひとつひとつ拾い上げる。
セレスティアはもう、森の道も知っているし、魔物相手に一歩も動けなくなるような弱さもない。
ピピは、几帳面すぎるほど几帳面。
アマンダもまた、自然の異変には誰より敏感だ。
だが、頭で分かっていることと、胸の奥に巣食う不安が黙ることは違う。
ベルローズはそれを、霊峰の旅を通じて思い知らされていた。
「……セレスティアは、変わったわね」
ベルローズはぽつりと言った。
ルシアンは、耳と視線だけを彼女へ向ける。
「そうか?」
「ええ。前ならきっと、あなたの背中を探していたでしょう。けれど今日は、自分の足で行こうとしていた。……ピピとアマンダが一緒だと決まってからも、きちんと役割を果たそうとしている顔をしていたわ」
ルシアンは、しばらく黙っていた。
セレスティアが、出ていく直前に見せた瞳を思い出す。
緊張と、微かな恐れがそこにはあった。
それでもあれは、ただ守られる側ではなく、誰かの助けになろうとする者の目だった。
「……あいつは俺たちの娘だからな。弱いままじゃいねぇだろうよ」
その声には、父としての誇りと、どこか寂しさに似た響きが混ざっていた。
ベルローズはその声を聞き、少しだけ目を伏せる。
閉じた城の中で一生守られて生きることではなく、外の世界へ出ても、自分の足で戻ってこられる強さ。
それが、セレスティアへ与えたかったものだ。
だが、その願いが叶い始めた時。
自分たちは初めて、守るだけでは済まない寂しさを味わっている。
薬室の窓の外では、夏の湿った風が薔薇を撫でていく。
ベルローズはしばらくそれを見つめていたが、やがて立ち上がり、薬室を出た。
ルシアンも、何も言わずに後を追う。
二人は石造りの回廊を歩き、中庭へ向かった。
城の中は相変わらず静かで、二人の衣擦れと足音だけが、長い回廊に響いている。
普段ならピピがどこかの柱を磨き、アマンダが湿気の多い壁際に何かを育てようとしては叱られている。
セレスティアが、温室へ駆け込む音もする。
静けさは安息でもあるはずなのに、今日は少しだけ、空白に似ていた。
中庭へ出ると、特殊温室の硝子が、薄い霜を纏って淡く光っていた。
霊峰から持ち帰った植物たちが、内側で息づいている。
少し前までは、滅びた土地の記憶にすぎなかったものたち。
それが今はこの城の中で、誰かを救う薬へ変わろうとしている。
ルシアンは温室の前で足を止め、しばらく無言でその光を見つめた。
ベルローズは、彼の横顔を見上げる。
彼の瞳には、まだ完全にはほどけきらない複雑な影があった。
故郷の欠片が、この城で育つこと。
奪い合っていた実や花が、人を救うために使われること。
それはきっと、彼にとって幸福でありながら、容易には飲み込めない変化でもある。
「ねぇ、ルシアン。……嫌だったかしら」
ベルローズが問うと、ルシアンはほんの少し眉を寄せた。
「何がだよ」
「霊峰の植物を、この城で育てること。あなたの故郷のものを、別の目的で使うこと」
ルシアンは、すぐには答えない。
薄く霜の張った硝子の向こうで、青白い花が揺れている。
やがて彼は、低く言った。
「……わからねぇ」
彼はかつて、その故郷で自分の居場所を持てなかった。
群れに混ざれず、遠吠えにも入れず、孤独に苛まれていた時間。
それでもあの土地は、確かに彼の始まりだった。
その欠片が今、ドラクロワ城の土と魔力を受け、別の形で息づいている。
「嫌ってわけじゃねぇ。ただ、変な感じだ。あそこにあったもんが、ここで育つなんてな」
ベルローズはその答えを、ただ黙って受け止めた。
過去が新しい形へ変わる時、そこには必ず痛みが伴う。
中途半端な救いは、時に残酷でもある。
「それでも、あの子は残したかったのね」
「ああ。……そうだろうな」
「あなたの故郷を、滅びた場所のままにしたくなかったのでしょう」
ルシアンは温室の硝子へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
自分の指先から流れる冷気が、温室の内部と呼応する。
あの山で奪われ、散らされた命の記憶。
その一部が、今は娘の願いによってここに根を下ろし、エマたちを助ける薬になっている。
そんな未来を、昔の自分は想像もしなかった。
「あいつは、俺よりずっと前を見てる」
その声には、苦さと誇りが混ざっていた。
ベルローズは、わずかに微笑んで返す。
「私たちの、娘だもの」
しばらく二人は温室の前に並んでいたが、やがてベルローズが、無意識にルシアンの上着へ指先を伸ばす。
黒い裾の端を、ほんの少しだけ摘まむその仕草。
彼女は、自分でも気づいていないようだった。
彼女が、身構えも拒絶も見せず、ただその距離を許している。
ルシアンは視線だけを落としたが、何も言わなかった。
代わりに自分の大きな手で、彼女の細い指をそっと包み込む。
戦う者の手でありながら、その触れ方はどこまでも繊細で、慎重に制御されている。
「まだ落ち着かねぇのか?」
「そうね。……少しだけ」
その正直な返事に、ルシアンは目を細める。
自分の不安を認めることは、彼女にとって敗北に等しかったはずだ。
けれど今は、それを自分にだけは渡してくれる。
その事実が、どうしようもなく愛おしいと思える。
「落ち着かないんなら、俺の傍にいろよ」
「……私に命令するつもり?」
ベルローズは、美しい眉を微かに上げてルシアンを見た。
ルシアンはそんな視線を、意にも介さずに続ける。
「命令じゃねぇ、提案だろ」
「ずいぶん横柄な提案ね」
「嫌なら離れりゃいい」
ベルローズは何も言わなかったが、包まれた手にほんの少しだけ力を込める。
ルシアンの尾が、ゆったりと揺れた。
夏の湿った風が中庭を抜け、黒薔薇の香りと霊峰の冷気が、淡く混ざり合う。
森では、セレスティアたちが今も、薬を届ける道を歩いているのだろう。
二人はその帰還を待ちながら、ただ並んで、城の静けさに身を置いていた。
戻ってくると信じながら、胸の奥に生まれる不安を抱え続けること。
手を伸ばせない場所にいる者を、それでも愛し続けること。
ベルローズはその難しさを、今になってようやく知り始めていた。
ルシアンもまた、彼女の隣で同じ沈黙を共有していた。
やがて遠くから、森を抜けて戻ってくる複数の気配が、風に混ざる。
セレスティアの軽い足取り、ピピの硬い歩幅、アマンダのどこか柔らかな気配。
ルシアンの耳がかすかに動き、ベルローズもまた、その変化を感じ取って顔を上げた。
「あいつら、戻ってきたみたいだな」
ルシアンが短く言い、ベルローズは小さく頷く。
胸の奥に張っていた細い糸が、ようやく緩んでいく。
けれど彼女は、「もう少しだけこのままで」とでも言うように、ルシアンの手を離さなかった。
ルシアンはふっと唇を緩め、彼女を尾で包みこんで体を寄せた。
城門の方から近づいてくる、三人の気配を待ちながら。
二人は薔薇と霊峰の花が同じ庭で息づく、その不思議な静けさの中に佇み続けていた。
◆
セレスティアたちが城へ戻ると、ルシアンとベルローズは、中庭の石椅子に並んでいた。
ルシアンは一見、退屈そうにしていた。
だが、三人が無事に戻ったことを確かめると、それまで立っていた耳の角度が、ようやく自然な位置へと戻る。
ベルローズもまた、娘の顔を見て、柔らかく目元を緩めた。
「届けられたのね」
「うん。ちゃんと行って帰って来られたよ」
セレスティアがそう答えると、ルシアンは短く息を吐いた。
「なら上出来だ」
その不器用な一言に、セレスティアは微笑んだ。
夏の湿った風が中庭を抜け、薔薇の香りを運んでいく。
遠くの集落では今、青い薬瓶が誰かの熱を冷まし始めているかもしれない。
その確かな想像が、セレスティアの胸の奥を、明るく灯していた。




