第64話:青き雫 ―命を繋ぐ薬―
ドラクロワ城の薬室。
夜明け前の冷たい静けさと、煎じた薬草の苦い香りが、重く満ちている。
作業台の上では、霊峰の花を煎じて作り上げた薬液が、小さな硝子瓶へ慎重に分けられていた。
液体は青白い光を薄く宿し、瓶の内側で揺れるたび、淡く瞬いている。
ベルローズが一瓶ずつ魔力の濃度を確かめ、効能が偏らないよう、慎重に封蝋を施していく。
ピピは木箱の内側へ柔らかな布を敷き、揺れで瓶が割れぬよう、仕切りの角度や紐の締め具合を何度も確認していた。
アマンダは摘み取った花の残滓を小皿に移し、まだ使える成分が残っていないかを、琥珀色の瞳で静かに見極めている。
セレスティアはその全てを見つめながら、胸の奥で鼓動が少しずつ早くなるのを感じていた。
この薬を届ければ、エマたちを助けられるかもしれない。
そう思うだけで、焦燥と希望が入り混じった熱が、彼女の指先まで満ちていくようだった。
「お父様。これをエマのところへ持っていくの、一緒に来てくれる?」
セレスティアがそう尋ねると、壁際で腕を組んでいたルシアンは珍しく、視線を泳がせた。
普段ならば、娘が外へ向かうとなれば当然のように立ち上がり、荷物を片手で担いで先を歩いているところだ。
だが今日の彼は、隣に座り込んでいるベルローズの気配をちらりと確認してから、低く息を吐いた。
「行ってやりてぇのは山々なんだがな。花を育てんのに魔力を使ったせいで、……少し、疲れてんだよ」
その言葉を聞いたセレスティアは、意外そうに目を瞬かせた。
ルシアンが、あの程度の魔力消費で疲れるとは思えなかった。
父の耳はいつものように立ち上がっているし、尾の毛並みも、顔色も良いようだ。
それでも、本人がそう言うならそうなのだろうかと、首を傾げる。
けれどベルローズだけは、すぐにその嘘を見抜いていた。
ルシアンが、花を育てるために流した魔力程度で、動けなくなるはずがない。
本当は、まだ不安定さを残す自分の傍にいてやるつもりなのだ。
ベルローズは気まずそうに、深紅の瞳を伏せた。
そのくせ今日も、ルシアンのすぐ隣へ腰掛けている。
「……別に、私のことは構わなくていいのよ」
ベルローズは密やかに言った。
だが、その声にはいつもの冷ややかな鋭さが、少しだけ欠けていた。
「構ってねぇよ。疲れてるって言ってんだろ」
あまりにも分かりやすい言い訳だった。
ピピが木箱の紐を締めながら、呆れたようにルシアンに視線をやる。
アマンダは楽しげに目を細めていたが、今日は余計なことは言わなかった。
セレスティアは、整った眉を寄せて考え込む。
北方霊峰を越え、父と並んで魔物と戦い、エマの集落で苦しむ人々を見てきた。
自分はもう、城の中でただ守られるだけの子供ではいたくない。
薬を届ける道は、何度も歩いた森の道だ。
自分一人でも大丈夫かもしれない。
そう思いかけた瞬間、ピピが即座に鋭い声を上げた。
「ちょっとセレスティア様、一人で行こうなんて考えてませんよね」
「えっ……。どうしてわかったの?」
セレスティアの耳が、ぴくりと跳ねる。
それを横目で見てから、ピピは深く息を吐き出して続けた。
「荷物の量を見てくださいよ。薬瓶は割れ物ですし、病の集落へ向かうんだ。護衛兼、運搬役として、僕が行きますよ」
するとアマンダも、薬草籠を抱え直しながら柔らかく微笑んだ。
「それでは、わたしも行きます。病の匂いや、薬の効き方も見ておきたいですから」
そうして、セレスティア、ピピ、アマンダの三人が集落へ向かうこととなった。
ピピは木箱を背負い、追加の薬草や予備の布、消毒用の蒸留液まで丁寧に荷へ詰め込んだ。
セレスティアも小さな薬箱を胸に抱え、外套の留め具をしっかり結ぶ。
アマンダは、必要になるかもしれない薬草をいくつか籠へ入れながら、どこか散歩へでも出るような、穏やかな表情をしている。
城門を出る直前、セレスティアは両親を振り返った。
ルシアンはベルローズの隣で腕を組んだまま、こちらを見ている。
表情はいつも通り愛想の一つもなかったが、その瞳には明らかな心配があった。
「何かあったら、すぐ戻れよ」
低い声に、セレスティアは力強く頷く。
「うん。ちゃんと届けて、ちゃんと帰ってくる」
その答えに、ルシアンは短く鼻を鳴らした。
「お母様と作った薬だもん、きっとうまくいくよね」
「……ええ。気を付けて行くのよ」
ベルローズはそれ以上は何も言わず、ただ娘の襟元を見つめている。
そこに込められた守護術式が乱れていないことを確かめると、目を細めて彼女を見送った。
森の道は、夏の湿気を深く含んでいる。
足元の土は柔らかく沈み、草葉には、朝露と雨の名残が重たく絡む。
ピピは背負った木箱が揺れないよう歩幅を一定に保ち、薬瓶が互いに触れ合わぬよう、時折肩紐の具合を確かめていた。
セレスティアはその少し前を歩き、風の匂いや小動物の気配を慎重に探る。
以前なら、こうした役割は父に任せきりだった。
今の彼女は、木々のざわめきの奥にある変化を、自分の耳と尾で確かめようとしている。
(……大丈夫。危険はない)
ただ安全だと油断するのではなく、安全であることを確認しながら歩いている。
その違いを、セレスティア自身も少しだけ誇らしく感じていた。
けれど、完璧に落ち着いた道中とはいえなかった。
アマンダが、道端の腐葉土の中に珍しい白い菌糸を見つけるたび、ふらりと横道へ逸れようとするのだ。
「アマンダ、そっちは目的地と逆だよ」
「少しだけ見てもいいですか? この湿り気、面白いですよ」
「薬を届ける方が先だって言ってるだろ。あぁもう、勝手に進まないでよ!」
ピピは何度も彼女を呼び、襟首を捕まえては引き戻す。
そのたびに、セレスティアは少しだけ笑った。
重苦しい病の気配へ向かっているはずなのに、二人のやり取りは奇妙なほどいつも通りだ。
その変わらなさが、彼女の胸を支えてくれた。
森は時折深く沈黙し、夏の熱を含んだ風が、三人の髪を揺らす。
幸いなことに、魔物の気配も、不穏な魔力の淀みもない。
薬箱の中で、青白い瓶だけが光を揺らしていた。
集落へ近づくと、前回よりもさらに、薬草を煎じる匂いが濃くなっていた。
窓は閉ざされ、人々の声は少ない。
セレスティアは胸の奥が締めつけられるのを感じながら、エマの家へ向かう。
扉を叩くと、少し遅れてエマが姿を見せた。
口元を布で覆い、疲れた顔をしていた彼女は、セレスティアたちが抱える木箱を見るなり、目を見開いた。
「セレスティア。……それ、もしかして」
セレスティアは慎重に、薬箱を持ち上げた。
「うん。城のみんなで作ったの。まだ、どれくらい効くかはわからないけど、熱を下げる薬になるはず」
エマの瞳に、信じられないものを見るような光が宿る。
後ろから現れたエマの父も、ピピが開いた木箱の中で淡く青白く光る薬瓶を見て、疲れた表情のまま言葉を失っていた。
「こんな綺麗な薬、初めて見たよ」
エマが小さく呟く。
アマンダは薬瓶を一本取り出し、扱い方を穏やかに説明した。
「強い熱の人には、薄めて少しずつ。急にたくさん飲ませると、身体が冷えすぎるかもしれません。腹痛の強い人には、こちらの薬草と合わせてください」
ピピはすぐさま注意事項を紙へ書きつけ、瓶の数を確認しながら、几帳面に分類していく。
「一日に使える量には限りがありますからね。ここに詳細をまとめておいたので、必ず守ってください」
エマの父は震える手で一本を受け取ると、深く頭を下げた。
「助かるよ。これで、少しでも持ち直す者が出るかもしれない」
その言葉に、セレスティアの胸の奥へ、温かなものが広がった。
自分たちの力が、城の中だけではなく、外にいる誰かの命へ届こうとしている。
霊峰から持ち帰った命の欠片が、エマたちの手の中で、確かに希望へ変わろうとしている。
薬を渡し終える頃には、空は少しずつ夕暮れの色を帯び始めていた。
エマは何度も礼を言い、けれど病人たちのもとへ急がなければならず、長く話すことはできなかった。
セレスティアも、それを理解していた。
名残惜しさはあったが、今日は会いに来たのではない。
命を繋ぐ薬を届けに来たのだ。
帰り道、ピピは空になった仕切りを見ながら、割れた瓶が一本もないことに満足そうに頷いている。
アマンダは道端の茸へまた吸い寄せられかけ、ピピに腕を掴まれていた。
セレスティアは少し前を歩きながら、胸元へ手を当てる。
自分一人で成し遂げたわけではない。
城のみんなの力で作った薬を、ピピとアマンダと一緒に運んだだけだ。
それでも、確かに自分もその一部だった。




