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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第8章:寄り添う安息

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第63話:夏病の熱 ―集落の異変―

 初夏の禁忌の森には、春までとは異なる種類の湿気が満ち始めていた。

 雨を多く含んだ風は、薔薇の香りを濃く運び、中庭の石畳には薄い水気が長く残るようになっている。

 草木は勢いを増し、アマンダの管理する温室では菌糸も薬草も、数日前とは目に見えて姿を変えるほど繁茂していた。


 その一方で、どこか空気の淀みも強くなっている。

 生き物が繁茂する季節特有の、濃密すぎる生命の気配。

 腐敗と再生が隣り合う、夏の入口の匂いだった。


 その日、セレスティアは久しぶりに城を出て、エマの暮らす集落へ向かっていた。

 北方霊峰から帰還して以降、温室作りや霊峰の植物の世話に追われていた彼女。

 外へ出るのは、随分久しぶりになる。


 空は薄曇りで、湿った灰色の雲が低く垂れ込めている。

 森を抜ける風も生暖かく、肌へまとわりつくようだった。


 だが、集落へ近づいた瞬間、セレスティアは微かな違和感を覚える。

 いつもなら外へ洗濯物が干され、井戸端では女たちの話し声が聞こえる時間だった。

 それなのに、今日は窓を閉ざしている家が多く、人の気配も妙に少ない。


 代わりに、煎じ薬の苦い匂いと、湿った布の匂いが空気へ滲んでいた。

 遠くで咳が聞こえる。

 短く、喉を焼くような、苦しげな咳だった。


 セレスティアは胸の奥に小さな不安を抱えながら、エマの家の扉を叩く。

 しばらくして現れたエマは、口元を白い布で覆っていた。


「……セレスティア!」


 その声には、疲労が滲んでいた。

 普段ならすぐに笑顔を向けてくる彼女が、今日は明らかに顔色が悪い。


「エマ、大丈夫? ……何かあったの?」


 セレスティアが近づこうとすると、エマは反射的に半歩下がった。


「ごめん……、あんまり近寄らない方がいいかも。もし、セレスティアにもうつしちゃったら大変だよ」


 その一言で、セレスティアは事態の重さを理解する。

 家の奥からは、薬草を煮詰める匂いが強く漂ってきていた。


 室内を覗き込むと、エマの父もまた口元を布で覆い、鍋へ薬液を注いでいる。

 机の上には乾燥させた薬草が山のように積まれていた。

 それでもその量に対して、完成した薬はあまりに少ない。


「よくない病気が流行っててね。夏特有の病だよ」


 エマの父は、疲れた目を伏せながら言った。


「熱が何日も下がらないんだ。腹を壊すやつも多いし、水を飲んでも戻しちまう。子どもや年寄りから先に弱っていく」


 鍋の中では、濃緑色の液体が煮立っている。

 だが、その香りには、どこか力不足な薄さがあった。


「薬草で症状を抑えることはできる。でも、この辺に生えてるものじゃ、熱を完全に落としきれないんだ」


 エマもまた、小さく俯く。


「今のところ、苦しみを和らげるくらいしかできなくて……。せめて熱を下げてあげられればいいんだけど」


 彼女の指先には、細かな火傷跡が増えていた。

 眠る時間も惜しんで、薬を煎じ続けているのだろう。

 セレスティアは、胸が苦しくなった。


 集落の空気、そのものが疲弊している。

 病そのものも恐ろしいが、それ以上に、人々が少しずつ希望を削られていく気配が痛かった。


 帰路についたセレスティアは、湿った森を歩きながらずっと考え込んでいた。

 何か、自分にできることはないのか。


 その時脳裏へ浮かんだのは、霊峰の温室で静かに芽吹き始めていた青白い花だった。

 冷気を宿し、熱を鎮めるようなあの魔力。


 セレスティアは城へ戻るなり、そのまま温室へ駆け込んだ。

 温室の内部は、ルシアンの魔力によって、外界とは別の空気に保たれている。

 薄い霜を纏った硝子、循環する蒼い冷気。

 その中央では、霊峰から持ち帰った植物たちが、確かに根を張り始めていた。


 温室の様子を見に来たアマンダは、すぐにセレスティアの異変へ気づいた。


「……何かありましたね?」


「エマが住んでる集落で、病気が流行っていて、薬も足りないんだって……。みんな苦しんでるの。だから、なんとか出来ないかなって思って……」


 セレスティアは、今見てきたばかりの集落の様子を説明する。

 黙ったまま話を聞き終えたアマンダは、霊峰の花を静かに見つめた。


「この花は、強い冷気の魔力を持っています。適切に煎じれば、熱を下げる薬にはなるでしょうね」


 その場へやってきたベルローズも、真剣な顔で花弁へ視線を落とす。

 疫病や薬学についての知識を持つ彼女にとっても、この一件は真剣に向き合わなければならないものだった。


「けれど……、まだ育成途中でしょう。通常の速度では量が足りないわ」


「だったら早く育てればいいだろ」


 背後から、ルシアンの低い声が落ちる。

 彼は上着の袖を捲り上げ、温室の空気を一瞥しながら、面倒そうに眉を寄せる。


「冷気なら俺が回してやるよ。必要なだけ育てりゃいい」


 だがアマンダだけは、すぐには頷かなかった。

 彼女は花へ指先を触れながら、小さく目を伏せる。


「……生命の循環を無理やり早めるのは、本当はあまり好きではないんです」


 その声には、珍しく迷いがあった。

 菌糸の精霊である彼女にとって、生と死は本来、自然に巡るものだ。

 芽吹き、育ち、朽ちる速度を強制的に捻じ曲げる行為には、本能的な忌避感がある。

 だが、セレスティアはアマンダの目を見据えて言った。


「お願い……、エマを助けたいの。あの子にも、集落の人たちにも、苦しんでほしくない。駄目かな、アマンダ……」


 その真っ直ぐな声に、アマンダはしばらく沈黙した。

 やがて彼女は、異質な純真さを宿した琥珀色の瞳を和らげ、小さく微笑む。


「……セレスティア様は、本当に母君に似ていますね」


 それを聞いていたベルローズはわずかに睫毛を伏せ、深紅の瞳を泳がせる。

 都合のいい装置として扱われ、心を磨り潰されかけた過去を持つ彼女には、歪められる命の痛みが、他人事には思えなかった。

 それでも今は、娘が抱いた助けたいという無垢な感情を、否定したくない。


「……それなら、やりましょうか」


 ベルローズの感情を抑えた一言で、その場の空気が決まった。


 その夜、ドラクロワ城の温室は、かつてないほど濃密な魔力に満たされていた。

 ルシアンが硝子壁の制御核へ大きな手をかざし、冷気を流し込む。


 彼の指先から紡がれる、サファイアブルーの光。

 それが半透明の導管を伝うたび、室内の硝子へ薄氷が波紋のように広がっていく。


 アマンダは温室の土へ深く両手を沈め、菌糸を用いて植物の成長速度を加速させ、根へ直接栄養循環を繋いでいく。

 セレスティアは星の魔力で、急激な成長によって暴走しかける生命力を優しく包み込んで安定させ、花弁へ均等に魔力を行き渡らせていた。

 三人の異なる力が混ざり合うたび、霊峰の花々は青白い光を放ち始める。


 ベルローズは少し離れた回廊の影から、その光景を静かに見つめていた。

 冷気、菌糸、星の魔力。

 ここにあるのは、異質な存在たちの意志が、誰かを救うためだけに重なり合っている調和だ。


 やがて、最初の花がゆっくりと開いた。

 涼しげな蒼い色をした、氷細工のような半透明の花弁。

 中心には、淡い光が宿っている。


 アマンダがその瑞々しい花を摘み取り、薬室へと迅速に運ぶ。

 慎重に薬液へ落とすと、濁っていた液体の色が一気に澄み始めた。


 薄青い光が、鍋の中で揺れている。

 ベルローズはその変化を見つめ、低く呟いた。


「……大丈夫。成功しているわ」


 セレスティアは、静かに息を呑んだ。

 病に苦しむ人々の顔が脳裏を過る。

 まだ量は足りない。

 それでも確かに今、自分たちは救えるかもしれないものへ、手を伸ばしている。


 夏の湿った夜風が、城を撫でていく。

 霊峰から持ち帰られた命の欠片が、今度は誰かを生かすための光として、ゆっくりと花開こうとしていた。

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