第62話:故郷を繋ぐ種 ―ここで生きるもの―
セレスティアの、霊峰の植物を育てたいという小さな計画。
その日の夕方には、城の管理人として、ピピまでもが巻き込まれていた。
「……はぁ? 氷属性の、魔力循環専用温室!?」
ピピは、中庭に集まった面々を見て頭を抱えた。
銀髪を光に反射させながら、灰色の瞳に困惑の色を浮かべている。
「ちょっとルシアン、君まで何を言い出すのさ。なんで北から帰ってきて早々、そんな面倒な設備を増やそうとするんだよ」
「俺が言い出したんじゃねぇよ。アマンダとセレスティアだ」
「それはわかってるけどさ……」
ピピは、盛大に溜息をついた。
彼はセレスティアから霊峰の種を見せられ、アマンダから、霊峰の魔力循環が必要だという条件を聞かされる。
すると次第に、ピピの表情は真剣なものへと変わっていった。
「冷気を循環させる魔導管は、城の地下鉱脈から採れる結晶がいいかな……?」
図面を描き始めた瞬間から、彼は完全に職人の目つきになっていく。
「霜結晶を利用した冷却装置を組み込んで、外気を遮断する特殊硝子で覆う。一番重要なのは、ルシアンの魔力を蓄積する魔石の配置だね」
ぶつぶつと小言を言いながらも、彼の手は恐ろしい速度で設計を組み立てていく。
冷気をどこから取り込み、どこへ巡らせれば効率がよいか。
どの位置へ核となる魔石を配置し、どの程度魔力を蓄えておくか。
植物が眠りから覚めるまで、どれほど時間を要するか。
線を引き、図面の上に置かれた霊峰の種を見ているうちに、彼の口数は次第に減っていった。
ベルローズは中庭のテラスで、その騒がしさを静かに眺めながら、深く淹れた紅茶を口元へ運んでいた。
未だにルシアンの傍から離れがたく、寂しさを埋められない彼女は、彼の訓練を見守った流れで中庭に出ていたのだった。
やがて、テラスに上がってきたセレスティアが少し不安そうに、ベルローズの隣へ歩み寄った。
「お母様。あのね、山から持ってきたもの、育ててみたいんだけど……。中庭を少し使ってもいいかな?」
ベルローズの深紅の瞳が、娘の抱える布包みへ柔らかく落ちる。
「もちろん構わないわ。そこまでして残したいものがあるのは、悪いことではないもの」
そこには、確かな許容があった。
遠い昔の彼女なら、失われたものへ執着する行為など、非合理な無駄だと切り捨てていたかもしれない。
けれど、大切な者たちが残したいと願うなら。
その選択を尊重することが、彼女の新しい世界の在り方だった。
「上手く育つといいわね」
「うん!」
微笑んで返すベルローズの言葉に、セレスティアの耳が嬉しそうに跳ねた。
ベルローズは娘の姿を、黙って見つめた。
それから、図面を引くピピの横で腕を組んで立っているルシアンへと、視線を移す。
あの土地について語るときのルシアンは、いつも遥か遠くを見ている。
失われたものを語る彼の声には、長い年月を超えてなお、残る痛みがある。
彼が失ったものを、この城で守ることができるのなら。
それはきっと、彼にとっても悪いことではないだろう。
数日後、ピピの迅速な作業とルシアンの手助けによって、中庭の一角に小さな特殊温室が完成した。
緻密に組まれた魔導管と、特殊硝子に囲まれた空間。
内部には薄い冷気が満ちており、霊峰に近い白さを宿している。
そこだけが、初夏の中に切り取られた冬の色をしていた。
薔薇の咲く中庭に、霊峰の冷気を宿した空間が息づいている。
異なる季節がひとつの庭に並ぶ光景に、セレスティアの胸は震えた。
「よし、ルシアン。核石に魔力を流してみて。急激に出力を上げちゃ駄目だよ。一定の循環を意識して、精密によろしく」
ピピの指示に黙って頷くと、ルシアンは温室の制御核へ大きな手をかざした。
彼の長い指先から、蒼氷の魔力が静かに紡ぎ出され、半透明の管を伝って内部へ広がっていく。
じわりと室内の温度が下がり、霊峰特有の凍てつく空気の質感が再現されていく。
アマンダが土に埋めた眠れる種が、ルシアンの冷気に触れた。
その瞬間、種はほんのわずかに、淡く青白い光を返した。
「反応した……!」
セレスティアは硝子に顔を近づけて、目を輝かせる。
アマンダもその隣で、楽しそうに目を細めた。
「ちゃんと、生きていますね。ルシアンさんの冷気が、この子たちに故郷を思い出させたみたいです」
ルシアンは腕を組みながら、その様子を複雑な顔で見下ろしていた。
自分の魔力が、今はこうして小さな命を生かすために使われている。
手のひらを離したあとも、彼の指先には仄かに冷気が残っている。
この城に来る前は、触れるものを凍らせることにしか、使ってこなかった魔力。
敵を屠るために磨き、己を守るために振るった力。
それと同じ力で、こうして小さな種の眠りを守っている。
そして、愛する者の熱を癒し、魔力循環を支えることすら出来ている。
何とも、妙な話だった。
やがてセレスティアは、持ち帰った木の実の最後の一つを取り出した。
それを爪で半分に割ると、透明な果肉が現れる。
あの霊峰で嗅いだ甘く澄んだ香りが、ふわりと中庭に広がった。
「お父様。この実が育ったら、これからはいつでも食べられるよ」
その無邪気な言葉に、ルシアンは息を止めた。
白銀の故郷は、もう戻らない。
失われた群れも、過ぎ去った日々も、二度と同じ形では帰ってこない。
けれど鼻腔を満たす香りは、あまりにも懐かしい。
群れの連中と奪い合っていた実。
腹を空かせ、雪を蹴り、誰より先に枝へ飛びついていた、遠い過去の記憶。
同胞の牙が肩を掠めることすら当たり前だった、あの荒々しくも孤独だった日々。
それが今は、この薔薇の咲く、暖かで安全な城の温室で育とうとしている。
穏やかで、優しい。
かつて死に場所としてこの地を選んだ自分には、不釣り合いなほどの幸福のようだった。
ルシアンは視線を逸らし、短く鼻を鳴らした。
「……そんな簡単に食えるようになったら、有り難みがなくなるだろ」
「でも今度は、取り合いしなくて済むね」
ふっと笑みを零すセレスティアに、ルシアンは答えない。
ただ、その蒼い瞳だけが、柔らかく細められていた。
回廊の影から、ベルローズがその光景を見守っていた。
ルシアンがふと顔を上げると、二人の視線が真っ直ぐに交差する。
ベルローズの深紅の瞳には、誰にも見せない微かな熱と、安息の揺らぎが宿っていた。
彼女がそこにいて、自分を見つめている。
それだけで、ルシアンの魂にある古い傷跡は、静かに満たされていくようだった。




