第61話:霊峰の欠片 ―父の故郷を残したくて―
ドラクロワ城の庭には初夏の柔らかな陽光が落ち、つややかな薔薇の花弁には、朝露の名残が薄く残っている。
北方霊峰から戻って、しばらく経ったある日。
セレスティアは中庭の隅にしゃがみ込み、小さな布包みをそっと膝の上へ広げていた。
暖かな風は、湿った土と薬草の匂いを運んでいく。
遠くではアマンダが、温室の植物へ水を与えている気配があった。
その穏やかな空気の中で。
セレスティアだけがどこか秘密を抱えるように、真剣な眼差しで布の内側を見つめていた。
包みの中に入っているのは、北方霊峰から持ち帰った小さな種と、淡く青白い光沢を宿した木の実だった。
半透明の殻に覆われた種は、氷片のように冷たい質感を残していた。
木の実からは、霊峰で嗅いだあの甘く澄んだ香りが、かすかに漂っている。
セレスティアはそれを両手で、包み込むように持ちながら、小さく息を吐いた。
本当は、持ち帰って良いものだったのか分からない。
あの霊峰は、父が失った故郷であり、今ではもう誰も住まない死の土地だ。
そこから命の欠片を持ち出すことはもしかすると、静かに眠る過去を、無理やり引き剥がすことだったのかもしれない。
それでもセレスティアは、どうしても置いてこられなかった。
あの白銀の山を、ただ滅びた場所として終わらせたくなかったのだ。
父が悩み、苦しみながらも生きていた場所。
同族たちが季節を感じながら、確かに暮らしていた土地。
その記憶が、雪の下へ完全に埋もれて消えてしまうことが、どうしても寂しかった。
セレスティアは指先でそっと、青白い木の実を撫でる。
霊峰でルシアンが「群れの連中が奪い合ってた」と語っていた、甘い実。
その時の彼の声色は懐かしさだけではなく、失われた日々へ触れる痛みにも満ちていた。
「……少しでも、残せないかな」
セレスティアが小さく呟いた、その時。
温室の方から、アマンダの柔らかな足音が近づいてきた。
彼女は両腕に薬草籠を抱えたまま、セレスティアの手元を覗き込み、琥珀色の瞳をゆっくりと細める。
「それ、霊峰から持ってきたんですね」
問い詰めるような口調ではなかった。
むしろ、新しい菌糸を見つけた時のような純粋な興味と、穏やかな喜びが滲んでいる。
セレスティアは少し安心して頷いた。
「うん。持って帰ってきちゃったんだ。……育つか、わからないけど」
アマンダはその種を一粒摘み上げ、しげしげと眺める。
彼女の細い指先へ、種の表面に残っていた冷気が淡く絡みついた。
「なるほど。この子たち、まだ眠っていますね。でも、完全に死んではいない」
アマンダは目を伏せ、魔力の流れを探るように言った。
「霊峰の植物は、普通の植物とは少し違います。冷気だけではなく、あの土地特有の魔力循環に深く結びついている。だから、この城の暖かい空気では、たぶん長く持ちません」
セレスティアの肩が落ち、耳と尾がしょんぼりとうなだれる。
やはり、難しかったのかもしれない。
あの山でしか、生きられない命なのだろうか。
だがアマンダは、セレスティアに柔らかな微笑みを投げかけ、すぐに続けた。
「でも、再現できれば話は別です」
「再現?」
「ええ。温度じゃなくて、霊峰の魔力そのものを」
その言葉に、セレスティアはぱっと顔を上げた。
そして次の瞬間には、ある存在を思い浮かべていた。
霊峰で見た、白銀の世界。
雪を踏みしめる父の足跡と、記憶を拾い集める横顔。
凍てついた風の中で揺れていた、名前も知らない植物。
あの場所にあったものを、全部ここへ持ってくることはできない。
それでもほんの少しだけ、この場所へ連れてこられるかもしれない。
霊峰で父と過ごした数日を通して初めて抱いた、未来への期待だった。
中庭のさらに奥では、ルシアンが石人形を相手に訓練をしていた。
彼は既に初夏の暑苦しさに辟易し、袖が取り払われた訓練着を纏っている。
ベルローズの編んだ守護の紐飾りが、今日も上腕に揺れていた。
踏み込みとともに氷と蒼炎が叩き込まれるたび、周囲の空気が薄く凍りつき、石畳には細かな霜が走っていく。
彼の魔力は、生まれた土地を離れた今でも、霊峰の冷たい空気をそのまま宿している。
無駄のない最小限の動きで石の身体を受け流し、凍らせては砕くその広い背中を、セレスティアは真っ直ぐに見つめた。
セレスティアは勢いよく立ち上がると、そのまま父の方へと駆けていく。
「お父様!」
ルシアンは石人形の首を片腕でへし折りながら、面倒そうに振り返る。
サファイアブルーの瞳に、駆け寄ってくる娘の姿が映った。
「なんだよ」
「霊峰の植物、育てられないかな」
セレスティアは大事そうに布包みを抱え直し、広げて見せる。
ルシアンは目を細め、その視線が、娘の手の中にある種と木の実へ落ちる。
彼はすぐに、セレスティアがあの山の欠片を持ち帰っていたことを理解した。
だが彼は短く息を吐くと、投げ捨てるようにして答えた。
「無理だろ。こういうもんは、あの土地だから育つんだよ」
「でも、少しでも残したいの。お父様の故郷が、滅びたままなのは嫌なの。……少しだけでも、この城で生きていけたらって思ったんだ」
セレスティアは真っ直ぐな言葉を携えて、父を見る。
ルシアンは、すぐには答えられなかった。
あの寒風吹き荒ぶ、険しい霊峰の植物を、この薔薇の香りに満ちた安全な城へ持ち込む。
その発想そのものが、彼にはどこか現実感のないものだった。
あの場所は、失われた土地だ。
幻獣としての誇りに生き、最後には侵略されて死んでいった群れの記憶が、積み重なった場所。
そこに咲く実も花も、生きるために噛み締めるものでしかなかった。
それを、この穏やかな庭で育てるなどということが、本当に許されるのか。
そんな幸福が、自分たちに似合うのか。
かつて霊峰で孤立し、我が身を呪った日々が脳裏をよぎる。
それでも、セレスティアの蒼い瞳には、迷いがなかった。
彼女は霊峰を、失われた場所としてではなく、繋がる場所として見ている。
その時、後ろからついてきていたアマンダがゆっくりと口を開く。
「ルシアンさんの魔力なら、再現できるかもしれません。少なくとも、この種たちを目覚めさせることはできるでしょうね」
ルシアンは、ますます面倒だと言いたげに眉を寄せた。
「……お前らまさか、俺を温室代わりに使う気かよ」
「そういうことです」
アマンダは異質な純粋さを宿した瞳のまま、穏やかに微笑む。
セレスティアは父の右腕に巻かれた紐飾りのあたりへ、縋りつくように身を寄せた。
「お願い、お父様」
長い指先で濃藍色の髪を乱暴にかき上げ、ルシアンは深く息を吐いた。
「……わかったよ。やりゃあいいんだろ。離せ」
「やった!」
不器用な優しさを滲ませた低い声に、セレスティアの笑顔が明るく輝いた。




