第60話:空洞の理由 ―帰ってきた半身―
ベルローズは、ルシアンの問いにすぐには答えなかった。
深紅の瞳を伏せ、膝の上で重ねた白い指先を見つめる。
彼女自身、自分がなぜこんなにも落ち着かないのか、完全には言葉にできないのだ。
霊峰へルシアンとセレスティアを送り出したあの朝から。
彼女の中にはずっと、奇妙な空洞があった。
(……馬鹿馬鹿しい)
チョーカーの魔力も、結晶化した角の共鳴も、二人の無事を確かに伝えていた。
魔力の繋がりも、角の共鳴も途切れていない。
無事なのは分かっている以上、心配する必要などないのだと、自分に言い聞かせた。
それでも目の前に、手を伸ばせる距離にいない。
いつもなら当然のように聞こえる低い声も、廊下の先で揺れる尾も。
夜に隣へ入り込んでくる、重い体温も。
数日の間だけ、この城から消えていた。
たった数日。
けれどベルローズにとってそれは、想像以上に長かった。
彼女はこれまで、多くのものを最初から失う前提で生きてきた。
王都で利用され、誇りを傷つけられた頃から。
誰かに依存することなど、愚かだと思っていた。
自分の身を守るものは、己の魔力と冷徹な意志だけ。
他者などいつか裏切るか、自分のもとを去るか、壊れてしまうものだと考えていた。
だからこそルシアンという存在が、いつの間にか自分の感覚の一部にまで入り込んでいたこと。
それに、彼が離れたことで、改めて気づいてしまった。
彼がいることは、もはや誰かが傍にいるという程度のものではなかったのだ。
城の静けさも、夜の暗さも。
ひとりでいた頃には、それこそが自分を安定させるものだった。
けれど今は、そこに彼の気配がないだけで、同じ場所がやけに広く感じられる。
その事実を認めることが、ベルローズには少しだけ、恐ろしいものだった。
彼はただの番ではない。
従者でも、騎士でも、保護者でもない。
自分の角を美しいと言い、傷も過去も拒まず、当然のように隣へ戻ってくる獣。
彼女が孤独の深淵に沈まないよう、どこまでも不器用に、それでも確かに牙を立てて支えてきた半身。
その気配が、遠く離れた時。
ベルローズは、自分の内側から何かを引き抜かれるような感覚を覚えた。
「仕方がないでしょう……?」
やがて、ベルローズはぽつりと呟いた。
「……こんなに長く、離れたことがなかったんだもの」
その声は、普段の冷ややかな魔女のものではなかった。
微かに掠れて、どこか幼い。
口に出してしまってから、彼女自身が一番驚いたように唇を閉ざす。
ルシアンはサファイアブルーの瞳をわずかに見開く。
彼は、ベルローズの寂しさに気づいていた。
彼女の全身から溢れる感情の匂いを、彼は嗅ぎ取っている。
霊峰への出発の朝にも、その気配は察していた。
けれど、それがここまで深く彼女の中に残っているとは、思ってもみなかった。
彼女はいつだって凛として、強く、揺らがないように見える。
たとえ内側に不安を抱いても、それを綺麗に畳み、冷静な言葉で覆い隠してしまう。
そんな彼女が、今は置いていかれた子供のように、自分から目を離せずにいる。
ルシアンはしばらく何も言わず、濡れた手を拭った。
それからゆっくりとベルローズの前へ歩み寄り、耳をぴくりと動かしながら、彼女の顔を覗き込む。
「……あんた、ほんと面倒くせぇな」
苛立ちからではなく、むしろ、胸の奥から込み上げる愛おしさを誤魔化すための、彼なりの不器用な言葉だった。
ベルローズは眉を寄せ、彼を見つめ返す。
「人の不安を、面倒で片づけるのね」
「片づけてねぇよ」
ルシアンは、ベルローズの隣へ腰を下ろすと腕を伸ばし、彼女の肩を引き寄せる。
彼女は一瞬だけ身を固くしたが、すぐに拒絶を捨てて抵抗をやめ、彼の胸元へ額を預けた。
「離れてても繋がってるって、あんたが一番よくわかってるだろ?」
「……わかっているわ」
「なら、何がそんなに不安なんだよ」
ベルローズは答えなかった。
理解できているから、平気であるとは限らない。
そんな簡単な矛盾を、どう説明すればよいのか分からなかったのだ。
魔力は繋がっているし、角には彼の蒼がある。
彼の首元には、自分の魔力で編み上げたチョーカーが咲き、腕には自分が縫い込んだ守りがあった。
どれほど距離があっても、その存在が消えたわけではない。
それでも、彼の体温が手元にない夜は、城の闇が以前よりずっと広く、深く感じられたのだ。
ルシアンは、彼女が何も答えないのを責めなかった。
ただ、抱く腕へ少しだけ力を込める。
「なら、しばらく好きにくっついてろ」
その声を聞いたベルローズが、不機嫌そうに顔を上げた。
「……私を、子供扱いしているの?」
「してねぇよ。寂しかったんだろ」
あまりにも真っ直ぐに言われ、ベルローズは言葉を失った。
頬へ微かな熱が差し、角の先が淡く光る。
彼女はそれを隠すように、視線を逸らした。
「……あなたは、本当に無神経ね」
「そうかもな」
ルシアンは低く抑えた声で笑った。
ベルローズは不服そうに彼を睨むが、身体を離そうとはしない。
むしろ、彼の衣類の端を細い指で軽く掴んだままだった。
ルシアンはそれに気づき、満足げに濃藍色の尾を揺らす。
中庭には、夕暮れの光が落ち始めていた。
黒薔薇の花弁は濃い影を抱き、石畳には二人の長い影が重なって伸びている。
遠くの回廊では、ピピが見てはいけないものを見たように咳払いをして去り、アマンダが柔らかく微笑んでピピに続く気配がした。
けれどベルローズは、今だけはそれを咎めなかった。
霊峰の旅は終わった。
けれどその旅は、残された者の心にも、目に見えない形で小さな痕跡を残していたのだ。
ベルローズは、空洞が彼の熱によって、少しずつ満たされていくのを感じていた。
自分の中に、彼のための場所ができていたことを、離れてみて改めて知った。
魔力で繋がっているからといって、満たされる場所ではない。
声を聞き、体温に触れ。
隣にいる気配を感じることでしか、埋まらない場所だった。
ベルローズはルシアンの胸元に額を預けたまま、睫毛を伏せる。
すぐそばにある鼓動を聞いていると、身体の奥に張りつめていたものが、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
ルシアンは彼女の漆黒の髪へ無造作に頬を寄せ、低く囁いた。
「もう戻ってる。ここにいるだろ」
そう言って、ルシアンは彼女の身体をさらに抱き寄せた。
ベルローズは目を伏せたまま、小さく頷く。
言葉にすれば、きっとあまりにも弱く聞こえてしまう。
彼女は何も言わず、ただ彼の服を掴む指先へ、ほんの少しだけ力を込めた。
離れていた数日間にできた空洞は、少しずつ消えていく。
帰ってきた半身の温度を確かめながら、ベルローズは目を閉じる。
夕闇が庭を包み込む中、薔薇の香りと蒼い魔力の気配が、静かに寄り添う二人の周囲へ溶けていった。




