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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第8章:寄り添う安息

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第59話:離れていた数日 ―最近、妙に近い―

 ルシアンとセレスティアが、北方霊峰から戻って数日が経った。

 ドラクロワ城には、再び穏やかな日常が戻り始めている。


 けれどルシアンだけは、その中に紛れ込んだ微かな違和感に、早い段階から気づいていた。

 ベルローズが、妙に近いのだ。


 最初は、気のせいだと思った。

 ルシアンが中庭で、木人を相手に訓練していた時。

 ベルローズは、いつもなら回廊や、二階の窓辺から一瞥する程度だ。

 それがわざわざ庭へ降りてきて、薔薇の絡む石椅子に腰を下ろしている。


 何か用があるのかと思えば、彼女は特に声を掛けてくるわけでもない。

 ただ静かに、こちらを見ている。


 ルシアンが踏み込み、氷を纏った爪が木肌を削り、蒼い魔力の残滓が空気へ薄く散る。

 そのたびに、ベルローズの深紅の瞳が、彼の動きを一つも取りこぼさぬよう追っていた。


 訓練そのものを、彼女に見られることには慣れている。

 この城にルシアンが流れ着いてからというもの、日常的に繰り返されてきたことだ。

 だが、この日の視線は少し違っていた。


 休憩に入って水を飲む、喉の動き。

 額へ浮いた汗を、無造作に手の甲で拭う仕草。

 荒くなりかけた呼吸が、数度の深い息で整っていく様子。


 そうした何気ない細部までも、ベルローズは奇妙なほど熱心に見つめていた。

 あまりにじっと見られるので、ルシアンはつい眉を寄せ、声をかける。


「なんだよ。……何か言いたいことでもあんのか?」


 ベルローズはそれを聞くとかすかに瞬きをし、深紅の瞳を見開いた。

 まるで、見ていた自覚が今、ようやく戻ったようだった。


「別に。あなたが訓練しているのを見ていただけよ」


「……見すぎだろ」


「そうかしら」


 平然とした声で返されるが、ベルローズはその後も立ち去らない。

 ルシアンがもう一度木人へ向き直れば、彼女の視線はまた戻ってくる。

 鋭く、冷静。

 けれどいつもより、わずかに湿度を帯びた眼差しだった。


 その違和感は、その日だけで終わらなかった。

 ルシアンが城門近くへ巡回に出れば、気づくと少し離れた場所にベルローズがいる。

 厨房へ水を取りに行けば、彼女もまた茶を淹れるという名目で現れる。

 廊下を曲がるたび、黒いドレスの裾が視界の端へ揺れる。


 普段なら、自分が彼女へ付きまとっていると呆れられる側だ。

 だというのに、今は明らかに、彼女の方がこちらを追っている。

 そのうえ本人には、その自覚が薄いらしい。


 ルシアンが足を止めれば、ベルローズも止まる。

 ルシアンが歩き出せば、少し遅れて彼女も歩き出す。

 何度かそれを繰り返したあと、ルシアンは振り返るのをやめた。


(なんなんだ、あいつ)


 理由は未だにはっきりとしないが、不思議と嫌な感じはしなかった。

 いつもなら、自分が彼女の姿を探しているところだ。

 声を聞きたくて傍へ行き、彼女の香りを感じ取って安堵する。

 それを彼女の方がしていると思うと、妙な気分だった。


 その夜も、二人はいつものように同じ寝台へ入った。

 ルシアンは横になるなり、ほどなくして眠りへ落ちていく。

 ベルローズは隣で目を閉じたものの、なかなか寝付けずにいた。


 すぐそばから聞こえる、規則正しい寝息。

 ときおり寝返りを打つたび、寝台がわずかに軋む。


 その気配を感じながら、ベルローズはそっと目を開いた。

 月明かりの中に、見慣れた横顔がある。

 濃藍色の髪に、伏せられた長い睫毛、無防備に緩んだ口元。


 彼がそこにいる、ただそれだけのことを、ベルローズはしばらく確かめていた。

 やがて彼女は、そっと彼の胸元に寄り添った。

 ルシアンは無意識に彼女を抱き込み、腕の中に包む。


「……何をしているのかしら、私は」


 ルシアンはその呟きに応えるように、喉の奥から低く声を漏らし、更に深く彼女を胸元へとしまい込んだ。


「苦しいわ」


 ベルローズは不満そうに小さく呟いたが、彼を押し返す気にもなれない。

 やがて彼女は、諦めたように目を閉じる。

 彼がこうして触れられる距離にいることが、ひどく心地よい。


 離れていたのは、ほんの数日だった。

 それでも、彼のいない寝台の空白やシーツの冷たさは、想像以上に彼女の心を揺らしていた。


 翌朝、いつもなら朝食を終えれば、城の住人は各々の場所へと散っていく。

 けれどその日も、ベルローズはルシアンが立ち上がると、ほんの少し遅れて席を立った。


「……またか」


 思わず呟いたルシアンに、ベルローズは眉を寄せ、首を傾げてみせる。


「何か言った?」


「いや、何でもねぇよ」


 ぶっきらぼうに返し、ルシアンは先に歩き出す。

 背後から、黒いドレスの裾がついてくる気配を感じながら。


 ピピは主の変化に、早々に気づいていた。

 城の回廊で、ルシアンとベルローズがほとんど間を置かず、同じ方向へ歩いていく。

 それを見て、彼は工具箱を抱えたまま複雑な顔をする。


「ベルローズ様、今日は薬室へ行く予定だったのでは?」


「何? 薬室に向かっているわ」


「えっと、……そちらは城門ですけど」


「……少し、風の様子を見に行くだけよ」


 ピピは何かを言いかけ、結局口を閉じた。

 彼は、主が自分の感情を誤魔化そうとしている時の硬さを、よく知っている。


 余計な指摘をすれば、彼女の矜持を傷つけるだけだ。

 代わりに彼は、少し離れたところで呆れたように耳を伏せているルシアンへ、何とかしろよと言いたげな視線を送った。


 その点、アマンダはもっと容赦がない。

 温室の水やりを終えた彼女は、ベルローズがルシアンの背を追うように中庭へ向かっていくのを見送りながら、穏やかな声で呟いた。


「ベルローズ様。最近ずっと、ルシアンさんの匂いを追っていますね」


「え? お母様が?」


 温室での作業を手伝っていたセレスティアが、父と母を交互に見る。

 その場にいたピピが思わず咳き込み、ベルローズの足がぴたりと止まる。

 ルシアンはじとりとアマンダを見るが、彼女は何も悪いことを言ったつもりがないらしく、柔らかく微笑んでいるだけだった。


 ベルローズは、冷ややかな表情を作ったまま、足早にその場を離れていく。

 けれど、淡く熱を帯びていたその頬を、ルシアンは密かに目で追っていた。


 夕刻の中庭で、ルシアンは石人形を相手にしていた。

 旅の疲労はほとんど抜けていたが、北方霊峰へ向かう途中に戦った時の感覚が、身体に残っている。


 氷獣の速度、雪原の足場、セレスティアと連携した時の魔力の流れ。

 それらを反芻するように、彼はいつもより鋭く身体を動かしていた。

 ピピが調整した石人形の腕をかわし、腰を落とし、爪で抉るように胴を打つ。


 袖を捲った腕には、ベルローズが結んだ藍色の腕紐がまだ巻かれている。

 彼女に言われた通り、旅の途中で落とすことはなかった。

 緩めば巻き直しはしたが、帰ってきてからも外していない。


 ベルローズは、石椅子に腰かけてそれを眺めていた。

 思索のための魔導書も持たず、膝の上には薬草籠もない。

 ただ、ルシアンだけを見ている。


 訓練を終えた彼が、城の地下から湧き上がる霊水を汲み、喉を潤す。

 冷たい水が顎を伝い、襟元へ落ちる。

 彼は長く息を吐き、濃藍色の髪をかき上げて汗を拭った。


 その一連の仕草を、ベルローズはほとんど瞬きもせず見つめていた。

 さすがに耐えかねて、ルシアンは水桶を地面へ置く。


「おい……」


 ベルローズはルシアンの声に、ゆっくりと顔を上げて応えた。


「何かしら」


「それはこっちの台詞だ。さっきから何なんだよ」


「……何が?」


「俺が動くたびについてくる。訓練してりゃ庭にいる。水飲んでるだけでも見てるだろ。……どうした?」


 問い詰めるというほど強い声ではなく、むしろ、戸惑いに近い響きがあった。

 彼女が自分へ向ける情を疑ったことはないし、互いにどれだけ深く結びついているかも分かっている。

 けれどここまで露骨に存在を確かめられるのは、初めてだった。

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