第58話:帰還する星々 ―父と娘の帰る群れ―
北方霊峰を離れて数日。
視界を埋め尽くしていた白銀ばかりの世界は、南へ戻るにつれて少しずつ、失われていた色彩を取り戻し始めていた。
針葉樹ばかりだった単調な景色の中にも、しなやかな広葉樹の深い緑が混ざり始める。
湿った苔や土、そして遠くの庭園で咲き始めた薔薇の甘い香り。
それらが禁忌の森へ帰ってきたことを、静かに告げる。
セレスティアは厚手の外套を胸元で小さく押さえながら、その湿った空気を深く吸い込んだ。
肺の奥へ広がった、懐かしい気配。
張り詰めていた身体のどこかが、ようやくゆっくりと解けていくのを感じる。
隣を歩くルシアンは相変わらず、長旅の疲労など微塵も感じさせない歩調を保っていた。
しかしその耳や尾は、凍りついたような緊張から解放され、わずかに力が抜けている。
彼自身もまた、この森へ戻ると無意識に警戒が緩むのだ。
今のセレスティアには、よく分かった。
やがて、生い茂る木々の向こうに、見慣れたドラクロワ城の黒い尖塔が見え始める。
薔薇に覆われた古城は、以前と何も変わらぬ威容で、森の奥深くに佇んでいた。
その姿を視界に収めたセレスティアの胸の奥に、確かな熱が広がっていく。
帰ってきたのだ。
自分の足で世界を知り、その上で、またこの場所へ戻ってきた。
頑強な城門へ近づくと、既にピピがそこに待ち構えていた。
落ち着かずに、何度も城門の周辺を行き来していたのだろう。
彼は出発前と変わらず、一分の隙もない服装だ。
けれど、心なしかその銀髪には、ほんの少しだけ乱れが残っている。
ピピは二人の姿を認めた瞬間、明らかに安堵したように、小さく肩を落とした。
だが、その感情を悟られまいとするように、すぐさま眉を寄せた。
「遅い! 予定より半日以上ずれてるよ。雪崩にでも巻き込まれたのかと思ったじゃないか」
「悪ぃな。山越えにちょっと時間食った」
ルシアンがいつも通りの声で、気怠そうに答える。
続いてピピの灰色の瞳は、その後ろに立つセレスティアへと向けられた。
「……怪我はありませんか、セレスティア様」
「うん、大丈夫。ピピ、ただいま」
セレスティアが笑うと、ピピは今度こそ深くため息をついた。
その時、城の奥にある温室の方から、ふわりと柔らかな薬草の香りが漂ってくる。
アマンダだった。
「お帰りなさい。森が、ずっと二人を待っていたみたいですよ」
ただ静かに、帰還を受け入れてくれる、そんな心地よい響きだった。
セレスティアはその変わらない呼びかけに胸を温かくしながら、小さく頭を下げる。
「ただいま、アマンダ」
「本当に、無事に戻られて良かった。……そうそう。ピピなんて今朝からずっと……」
アマンダは思い出した、といった調子で両手をぽんと合わせた。
「お二人の魔力を観測しているベルローズ様のところへ、何度も何度も様子を聞きに行っては、大丈夫よ、って言われていたんですよ。とってもおかしかったです」
「アマンダ! 余計なこと言うのやめて!」
羽根を羞恥と怒りに震わせるピピに、セレスティアは思わず、明るく声を上げて笑った。
薄暗い玄関ホールへと一歩足を踏み入れると、正面の階段にはベルローズが立っていた。
夜色の黒いドレスの裾を静かに揺らしながら、深紅の瞳でこちらをじっと見下ろしている。
その凛とした佇まいは、出発前と何一つ変わらない。
けれど、母の角から立ち上る魔力の揺らぎが、今この瞬間だけ、優しく緩んだ。
それがセレスティアには、はっきりと感じ取れた。
「お帰りなさい。セレスティア、ルシアン」
「ただいま、お母様!」
セレスティアは喜びと安堵を抑えきれず、弾んだ足取りで駆け寄った。
旅立つ前よりも、その足の踏み込みには確かな芯がある。
ベルローズはそんな娘の姿を静かに見つめ、その目を細めた。
次の瞬間には、その静けさは、帰郷した少女の年相応の高揚感へと塗り替えられていた。
「お母様、聞いて! お父様、本当にすごかったの! 魔物を三体も相手にして……」
セレスティアは溢れ出す感情を止められない様子で、一息に話し始めた。
霊峰へ向かう道中で遭遇した魔物のこと、父と背中を合わせて戦ったこと。
自分の未熟な魔力が、確かに足止めとして役に立ったこと。
氷獣との戦いで、ベルローズがドレスの裏地に緻密に縫い込んでくれていた守護の術式が、自分を危機から救ってくれたこと。
「本当に助けられたの。このドレスがなかったら、爪を避けきれなかったかもしれない」
そう言って、セレスティアは外套の裾を誇らしげに開き、藍色のドレスの刺繍を見せた。
ベルローズはその美しい刺繍の状態を、一目で看破した。
術式が正しく機能して愛娘を守り抜いたことを確認すると、長い睫毛を伏せる。
「良かった……。ちゃんと役に立ったのね」
微かに下がった眉の輪郭には、母親としての深い安堵が滲んでいた。
さらにセレスティアは、大切に外套の内側に忍ばせていたものを取り出した。
「それとね、お父様が私にこれをくれたの。昔作ったものだって」
手のひらの上に現れたのは、蒼白い牙を削って作られた、不格好で粗削りな護符だった。
それを見た瞬間、ベルローズの深紅の瞳が、ほんの少しだけ驚きに丸くなる。
背後に立っていたルシアンは、途端につまらなそうに目を背け、大きな手を髪へとやった。
「あそこに置いておいても、どうせ埋もれるだろ。だから持たせただけだ」
「そう……」
ベルローズはしばらく、セレスティアの小さな手のひらにある牙飾りを見つめていた。
ルシアンがかつて、誰にも交じれぬ孤独の中で、自らの存在を証明するために削り出した、傷だらけの記憶の破片。
不完全な存在として霊峰で爪弾きにされていた彼の、その不器用な魂の在り処。
それを彼女は、誰よりも深く理解していた。
ベルローズの唇が、弧を描く。
ルシアンは面倒そうに、広い肩を竦めた。
だがその濃藍色の尾は、主の落ち着かない内心を代弁するように、微かに揺れていた。
「お母様、私、中庭の花壇を見てくるね。旅の間、ずっと心配だったの」
「あ、待って! 僕が留守中にどれだけ手入れをしておいたか、ちゃんと見てよね」
セレスティアがそう言うと、ピピが忙しなく後を追う。
アマンダもまた、「お花たち、お土産話を待っていますよ」と、穏やかな足取りで二人に続いた。
三人が去っていく賑やかな気配が、中庭へと抜けていく。
静まり返った玄関ホールには、ルシアンとベルローズの二人だけが残された。
高い天井から差し込む、薄明かりの中。
ルシアンは無駄のない動きで距離を詰めると、その大きな腕でベルローズの身体をそっと抱き締めた。
ベルローズもまた、彼の厚い胸元に素直に顔を寄せ、その背に細い腕を回し返す。
衣服の隙間から伝わってくる彼の体温は、冷徹な北の嵐を耐え抜いた、野生の熱に満ちていた。
ふいにルシアンは、無造作に外套を脱ぎ捨てると、袖を捲る。
そして、右腕に硬く巻き付けられた守護の守りを、彼女の目の前に突き出した。
「失くさねぇで、ちゃんと帰ってきたぞ」
「……そのようね」
ベルローズは、感情を排した口調を装って応じる。
彼を失うかもしれないという、胸の奥底に潜む、無自覚な恐怖。
それがこうして、彼の確かな肉体の厚みに触れることで、ゆっくりと霧散していく。
二人はそのまま、中庭へ向かって歩き出した。
「……寂しかったか?」
ルシアンは蒼い瞳をベルローズに向け、抑えた声でぽつりと言った。
ベルローズは歩みを止めることなく、前を見つめたまま、何も答えなかった。
代わりに彼女は、ドレスの袖から伸ばした白く細い指先で、ルシアンの大きな手を、そっと握り締めた。
やがて夕刻になる頃には、ドラクロワ城の食堂へ、温かな食事の香りが満ち始めていた。
石造りの厨房から漂ってくる、焼きたてのパンの香ばしい甘み。
じっくりと煮込まれた肉料理の、芳醇な湯気。
そして、細かく刻まれた新鮮な香草の、青い香り。
保存食ばかりを口にしていた過酷な旅路を思えば、それはほとんど、感覚を麻痺させるほどに幸福な匂いだった。
「ピピのご飯、本当に久しぶり。嬉しいな、携行食はちょっと味気なかったから」
セレスティアは食卓に綺麗に並べられた皿を見つめ、瞳を輝かせる。
その言葉を聞いたピピは、誇らしげに腕を組んだ。
「当然だよ。あんな保存食と、僕が時間をかけて仕込んだ料理を一緒にされちゃ困ります」
小言を並べるピピの声音には、明らかに満足げな色が滲んでいた。
テーブルの上には、必要以上とも思えるほどの品数が美しく整列している。
彼の、生真面目な性格が反映された光景だった。
「別に、腹が膨れりゃ十分だっただろ?」
席についたルシアンが、ぼそりと呟く。
その色気のない言葉に、セレスティアは耳を少し倒して、言葉を選ぶように口ごもった。
「えっと、お父様は……」
「ルシアンは味の深みなんて二の次で、とにかく量だけ満たされればそれで満足するからね。まったく、料理を作る側のこだわりってやつを理解してほしいよ」
ピピが呆れたようにため息をつくと、セレスティアも何度も頷く。
「そうそう。お父様、お肉なら何でもいいと思っているところがあるものね」
「おい……」
ルシアンは、深く大きな息を吐き出して黙り込んだ。
その賑やかなやり取りを、少し離れた席から見ていたアマンダが、小さく笑う。
ベルローズもまた、その無秩序な温かさを拒絶することなく、深く淹れられた紅茶を口元へ運んでいた。
磨かれた食器が触れ合う、澄んだ音。
中庭から流れ込む薔薇の香りと、アマンダの連れてきた薬草の匂いが混ざり合う。
そこには、間違いなく「帰ってきた」という空気が満ちていた。
セレスティアは小さく微笑み、胸元へ手をやった。
紐を付け直し、服の内側へ大切に仕舞い込んだ、不格好な牙飾り。
その冷たいはずの細工は、彼女の肌の熱を吸って、じんわりと温かくなっていた。
帰る場所とは、きっとこういうものなのだ。
遠い果てまで歩いた今だからこそ、以前よりもずっと深く、その尊さを理解できる気がしていた。




