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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第7章:幻獣の故郷

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第57話:不完全な在り処 ―幼い幻獣の隠れ家―

 北方霊峰の夜が明ける頃。

 空は深い群青色の底から、ゆっくりと白み始めていた。


 雪原には、昨夜の風が運んできた新雪が薄く積もった。

 ルシアンが遠吠えを響かせた場所も、今では白に、半ば覆い隠されている。


 セレスティアは外套へ身体を包んだまま、浅い眠りから目を覚ました。

 冷たい空気を吸い込んで、小さく肩を震わせる。

 焚き火の残り火は赤黒く燻り、その傍らには、既に起きていたルシアンの背中がある。


 彼はいつものように、眠った形跡がほとんどない。

 白い息を吐きながら、霊峰のさらに奥を見つめていた。

 昨日の遠吠えの余韻は、まだどこかこの山全体へ沈殿しているようだった。


 セレスティアは父の横顔を見つめながら、声を掛けるべきか迷う。

 けれど、ルシアンは彼女が起きた気配を感じ取ると、振り返ることなく、低く口を開いた。


「少し歩くぞ」


 それだけだった。

 ついて来いとも言わないが、置いていく気配もない。

 セレスティアは無言で頷き、急いで支度を整えると、その背を追って雪原へ足を踏み出した。


 朝の霊峰は、昨夜以上に静かだった。

 風は細く、遠くの氷壁を削るように流れ続けている。

 ルシアンは迷いのない足取りで、前を歩いていく。

 彼は、群れが暮らしていた跡地からさらに外れた、崖沿いへ向かっていた。


 人どころか、幻獣たちですら滅多に近寄らなかったのだろう。

 足元の雪は深く、岩肌には長い年月をかけて形成された蒼氷が張り付いている。


 やがてルシアンは、巨大な岩壁の裂け目の前で足を止めた。

 吹き溜まりになった、雪の奥。

 半ば氷へ埋もれるようにして、小さな洞窟が口を開けている。


「……ここは?」


 セレスティアが首を傾げながら父を見上げ、小さく呟く。

 ルシアンは彼女をちらりと見て答えた。


「昔、俺が勝手に使ってた場所だ」


 二人は狭い裂け目を抜け、洞窟の奥へ入る。

 内部は外より風が弱く、氷壁の隙間から差し込む蒼白い光が、薄明かりを作っていた。

 そこには、長い時間放置されていたにも関わらず、誰かが暮らしていた痕跡が残っている。


 平らに削られた石床、獣毛を敷いていた名残。

 骨を削って作られた、粗末な器。

 壁には爪で刻んだような無数の線傷があり、幼い獣が暇潰しにでも残したような、不揃いな跡が残っていた。


 セレスティアはゆっくりと、周囲を見回す。

 どれも不器用で、洗練とは程遠い。

 だがそこには確かに、生きていた気配が残っていた。


「……お父様、ここで暮らしてたの?」


 ルシアンは少しだけ眉を寄せ、それから肩を竦めた。


「暮らしてたっつーか……、まぁ、勝手に居座ってただけだ」


 その言い方はいつも通り投げやりだったが、声の奥にはかすかな苦味が滲んでいる。

 彼は洞窟の奥へ進みながら、氷壁へ背を預けるように立った。


「群れの連中は俺のこと、好かなかったからな」


 セレスティアは、そっと父に視線をやった。

 ルシアンは白い天井を見上げながら、淡々と続ける。


「気味悪いって目で見られてたし、遠吠えもまともに混ぜてもらえなかった」


 雪原で見たあの孤独な遠吠えが、セレスティアの脳裏へ蘇る。

 群れへ混ざれなかった幻獣。

 誇り高い同族たちの輪の外側で、ひとりだけ別の形を持ってしまった存在。


 それでもルシアンは、この場所を捨てなかった。

 嫌われても、馴染めなくても、ここが故郷だったのだ。


 ルシアンはふと、何かを思い出したかのようにしゃがみ込み、氷の下へ半ば埋もれていた、古びた布袋を引きずり出した。

 長い年月を経ているにも関わらず、不思議と中身は綺麗なまま保存されている。


 彼はその中から、小さな牙飾りを取り出した。

 蒼白い牙を削って作られた、不格好な護符だった。


 磨き方も荒く、紐の編み方も不均一。

 今のルシアンなら、もっと遥かに洗練されたものを作れるだろう。

 だが、その粗削りさが逆に、幼い頃の彼の姿を痛々しいほど鮮明に感じさせた。


「……綺麗。それ、なに?」


「昔、初めて一人で仕留めた獲物の牙だ」


 ルシアンはそれを眺めながら、小さく息を吐いた。


「ガキだったからな。大物が狩れて嬉しくて、こいつを作ったんだった」


 その声音には、自嘲が混じっていた。

 同時に、もう戻れない日々への執着も残っている。

 彼はその牙飾りを、セレスティアへ無造作に差し出した。


「お前にやる。持ってけ」


 セレスティアは目を瞬かせた。


「……いいの?」


「どうせここに置いといても、埋もれるだけだからな」


 ルシアンは、どうでも良いとでも言いたそうに、ぞんざいに答える。

 だが、そのサファイアブルーの瞳は、ほんの少しだけ揺れていた。


 それが彼にとって、ただの細工ではないことくらい、セレスティアにも分かった。

 彼女は両手でそっと、牙飾りを受け取る。


 冷たいはずの牙には、不思議と微かな熱が残っていた。

 孤独だった幼い幻獣が、この世界へ必死に爪痕を残そうとしていた痕跡そのもの。

 セレスティアはその牙を胸元へ抱きしめながら、ゆっくりと口を開く。


「ねぇ、お父様。……私に流れてる幻獣の血は、半分だけだよ」


 ルシアンが彼女に視線を向ける。

 雪明かりが、静かな洞窟の中へ、淡く差し込んできた。

 セレスティアは牙飾りを見つめながら、小さく続ける。


「でも……、半分だけでも、確かにお父様の血なんだよね」


 その声には、迷いだけではなく、決意が宿っていた。


「だから私、お父様たちのことも、この霊峰のことも……、ちゃんと覚えていたい。幻獣としての誇りも、背負っていきたいって思うよ」


 ルシアンはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙は重かったが、不快なものではない。


 彼は大きく力強い手をゆっくりと動かし、目元を隠すように前髪を弄ってみせる。

 かつてその不完全さの象徴として、忌み嫌った人間の姿。

 今ではベルローズをその手で抱き留め、同じ目線で、同じ時間を刻むための確かな器へと変わっている。

 そして、その血の半分が、こうして目の前の少女へと受け継がれ、彼女の生を支えている。


 ルシアンの指先が、セレスティアの小さな肩へ触れた。

 そこから伝わる彼の熱は、かつて霊峰に吹き荒れていた冷徹な嵐とは違う。

 どこまでも静かで、確かな包容力に満ちていた。


「お前がそんなに、気負う必要はねぇんだよ」


 彼の声は低く、どこか柔らかい響きを帯びていた。


「半分だろうが何だろうが、お前は俺の娘だ。それ以外に、何か証明する必要があるかよ」


 セレスティアは続く言葉を探しながら、唇を噛む。

 本当は伝えたい。

 お父様はもう独りじゃない、群れを失った獣じゃないと。

 自分たちは、家族だと。


 けれど、群れという言葉が、この霊峰ではあまりにも重かった。

 それゆえに、どうしてもうまく言えない。

 軽々しく口にしてはいけない気がして、喉の奥で言葉が止まってしまう。


 代わりにセレスティアは、一歩だけルシアンへ近づいた。

 そして、蒼狼の姿になった彼にするのと同じように、父の腕へそっと額を寄せる。


 ルシアンは耳をぴくりと動かし、娘を見つめた。

 セレスティアの身体から伝わってくる熱は、小さく未熟で、それでも確かに生きている。


 遠い昔、この霊峰で自分を拒絶した同族たちとは違う。

 彼を部品としてしか扱わなかった連中のような、あの凍りついた銀の秩序とも違う。

 恐れでも拒絶でもなく、ただ真っ直ぐに隣へ立とうとする気配だった。


 洞窟の外では、白銀の山々が朝の光を受けて輝き始めている。

 長い沈黙の後、ルシアンは小さく息を吐いた。

 そして、ひどく不器用だったが、確かに微笑んだ。


 強者の笑みでも、父としての余裕ある顔でもなく。

 ようやく信じ始めた獣の顔が、そこにはあった。

 長い孤独の果てに、自分に触れようとしてくれる存在が、確かにここにいると。

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