第56話:蒼き日々の残響 ―還らぬ遠吠え―
北方霊峰へ近づくにつれ、世界は少しずつ色を失っていった。
針葉樹林を渡る風は鋭さを増し、地表を覆う土は凍結した灰色の岩肌へと変わる。
空気の中からも、禁忌の森に満ちていた湿った生命の匂いが静かに削ぎ落とされていく。
セレスティアとルシアンは、麓に住む人間たちも禁足地として近寄らない山道へと、足を踏み入れていた。
「ねぇお父様、あとどれくらい?」
「ここまで来ちまえば、あともう少しだ。気合い入れ直せ」
「うん、わかった」
セレスティアは厚手の外套の襟元を押さえながら、父の背を追って、白み始めた山道を登っていた。
吐く息は白く、睫毛には細かな霜が、薄く降り積もる。
それでも、星屑の守護のドレスに縫い込まれたベルローズの魔力が、凍えるような寒さの中でも、彼女の身体を芯から守り続けていた。
やがて、最後の岩場を越えた瞬間だった。
それまで閉ざされていた視界が、一気に開ける。
そこに広がっていたのは、あまりにも静かで、あまりにも美しい白銀の世界だった。
巨大な霊峰の斜面には、幾重にも雪が積もり、その中腹には、蒼く透き通った氷の湖が眠っている。
風に揺れる針葉樹は、白い霜を枝先へ纏っている。
陽光を受けた氷花は、まるで砕けた星屑のような、淡い輝きを放っていた。
雪原の一角には、セレスティアがこれまで見たこともない植物が群生している。
半透明の葉を持つ低木や、淡く青白い光を宿した木の実。
それから、氷の結晶にも似た花弁を持つ花々が、ひっそりと息づいていた。
世界そのものが、冷たい魔力で閉ざされているような景色だった。
けれど、その美しさの中に、セレスティアは強い違和感を覚える。
静かすぎるのだ。
鳥の声も聞こえず、獣の足音もない。
雪を踏む、小さな生き物の気配すら存在しない。
広大な自然が広がっているにも関わらず、そこには命が営まれている音だけが、綺麗に抜け落ちていた。
セレスティアは思わず周囲を見回したが、隣を歩くルシアンは何も言わない。
ただ、サファイアブルーの瞳だけが、白銀の大地のあちこちを、ゆっくりと辿っていた。
その視線の先には、半ば雪へ埋もれた洞窟跡があり、崩れた岩棚や、凍った湖畔が横たわっている。
セレスティアには、ただの景色にしか見えない場所。
ルシアンはまるで、かつてそこに確かに存在していた誰かの痕跡を探すように、それらを見つめ続けていた。
長い沈黙の後、ルシアンはゆっくりと口を開いた。
低い声は、雪を含んだ風の中へと溶けていく。
「俺はよくここで、自分の姿を見てた」
セレスティアは、父の視線の先を辿る。
今はただ、凍りついた湖面しか存在しない。
「……そう、なんだね」
「春になると、あの崖の下に青い実がなる。甘くてな、群れの連中は毎年奪い合ってた」
「おいしかったんだ?」
「まぁな。食い物自体、あんまねぇしな」
ルシアンは、少しだけ目を細めた。
だが、その表情に浮かんだのは懐かしさだけではない。
もっと深く沈んだ、言葉にならない感情だった。
「雪解けの頃は、山から吹き上げてくる風の匂いが変わる。それで季節を読んでた」
彼は淡々と語る。
それは悲劇の説明というよりは、確かにここに存在していた暮らしそのものだった。
セレスティアは、ようやく理解する。
ここは、物語の中で語られる幻獣の土地などではないのだと。
この場所は、ルシアンにとっての故郷であり、生きていた世界そのものなのだ。
そしてそのすべてが、もうどこにも存在しない。
ルシアンはゆっくりと、雪原へ視線を落とした。
「けどな、全部壊された。もう生き残ってるやつはいねぇ」
その声には、激情の色はない。
怒りすら、もう遥か昔に燃え尽きてしまったようだった。
「王都の連中は、幻獣を素材として見てた。俺たちの魔核は、高純度の魔力源になるからな」
風が吹き抜け、雪煙が二人の足元を撫でていく。
「核だけ取り出したら、あとはゴミ扱いだ。親父も兄弟も、群れの連中も皆……。あっと言う間に、ただの石ころになっちまった」
セレスティアの胸が、冷たく締めつけられる。
目の前に広がる景色は、あまりにも静かで美しく、神聖ですらある。
だからこそ、その雪の下へ、どれほど凄惨な記憶が沈んでいるのかを想像すると、息が苦しい。
ルシアンはかつての自分の無力さを思い返すように、唇を噛んで続けた。
「……俺は、魔力量が多いとかで……、生きたままとっ捕まってな。死にかけながら逃げて、……お前の母さんに救われた」
彼の蒼い瞳には、今見えている白銀の世界ではなく、遠い昔の惨劇が映っている。
魔導院の院長が率いた、王都の調査隊。
それがこの神聖な霊峰を踏みにじり、ルシアンの同族を、ただの部品として処理していった光景。
セレスティアには、その合理主義の残痕が。
目の前の美しい白銀に、染み付いているように思えてならなかった。
「……俺だけが生き残っちまって、あの城で暮らしてるのは、そういうわけだ」
セレスティアは、返す言葉を持たなかった。
自分が何を言おうと、父の心の深い部分には触れられないと、直感していた。
ふと、ルシアンがゆっくりと雪原の中央へ歩き出す。
「お父様……?」
その背中は、どこか遠い。
セレスティアは初めて、父が居場所を失った獣なのだと理解できた。
強大すぎる魔力のせいで、幻獣の姿を保てなかった、出来損ないの変異種。
守るべき同族から、化け物を見るような視線を向けられた記憶。
爪弾きにされるか、いないものとして扱われた孤独。
誇り高く遠吠えを交わす同族たちの輪へ、自ら混ざることもなかった。
それでも、ルシアンはこの場所を忘れなかった。
全てが消失した今。
その孤独な記憶すらも、彼にとっては唯一無二の、故郷の残骸だ。
雪原の中央で、彼はゆっくりと立ち止まる。
次の瞬間、その身体を濃密な蒼い魔力が包み込んだ。
蒼い毛並みが、吹雪のように広がっていく。
巨大な幻獣の姿へと戻ったルシアンは、霊峰の白銀へ立つだけで、この世界の神話そのもののようだった。
セレスティアは息を呑む。
ルシアンは、凍った湖を背にゆっくりと顔を上げた。
そして、彼の遠吠えが、霊峰全体へ響き渡った。
どこまでも深く、胸の奥を沈めるような咆哮だった。
群れへ混ざれなかった孤独な幻獣が、滅び去った同族たちへ。
今はもう誰も存在しない故郷へ、初めて自らの意志で、声を届けようとしている。
その遠吠えは、白銀の山々へ幾重にも反響し、凍った湖面を震わせ、空の果てまで広がっていく。
だがどれほど待っても、どこからも応える声は返ってこなかった。
世界はただ、静かだった。
セレスティアはその光景を、胸元を強く握りしめながら見つめた。
父は、ずっと独りだったのだ。
誇り高く、強く。
何者にも屈しないように見えたその背中は、帰る群れを失った獣だった。
誰にも応えてもらえない場所で、それでも生き延びてしまった存在。
どれほどの絶望を抱えながら、あの城へ辿り着いたのだろう。
やがて、遠吠えが終わる。
雪原には再び、白い静寂だけが降り積もっていく。
セレスティアは、ゆっくりとルシアンへ歩み寄った。
安易な慰めの言葉は出てこない。
だから彼女はただそっと、父の蒼い毛並みへ、手のひらを埋めた。
冷えた雪を纏った外側の毛は冷たいが、その奥には確かに、生きている熱があった。
ルシアンは、何も言わない。
だがその大きな耳が、ほんのわずかに後ろへ揺れた。
それだけで十分だった。
もうこの霊峰には、応える群れの声は存在しない。
けれど今、彼の隣には、自ら触れようとしてくれる存在がいる。
白銀の霊峰の上で、消えた命たちの静寂の中で。
父と娘だけが、互いの熱を確かめるように、長い間その場へ佇んでいた。




