第55話:月下の守り火 ―離れていても、あなたのそばに―
周囲の景色はすでに、禁忌の森の持つ湿り気と濃密な生命の色彩を完全に失っている。
針葉樹の枝葉は硬く尖り、風が吹き抜けるたび、葉擦れの音はどこか冷たい響きを帯びていた。
昼間はまだ、辛うじて陽光が地表へ熱を残していた。
だが、日が沈み始めた途端、北から流れ込む空気は急激に鋭さを増していく。
呼吸のたびに、肺の内側を薄く裂いていくような冷気だ。
それでも、ルシアンとセレスティアの歩みは止まらない。
常人であれば到底踏破できない速度で、二人は山道と森を越え続けていた。
ルシアンはほとんど休憩らしい休憩を取らず、険しい岩場も、凍り始めた斜面も、まるで平地を歩くかのような自然さで踏破していく。
セレスティアもまた、その背を懸命に追っていた。
母から贈られた星屑の守護のドレスは、確かな温もりを身体へ残し続けている。
過酷な冷気の中でも、彼女の呼吸と魔力の流れをそっと支えていた。
それでも、旅の疲労は確かに存在している。
足裏には硬い地面を踏み続けた鈍い熱が残り、肩へ掛けた荷物は時間と共に、確実な重量となって身体へ食い込む。
だがセレスティアは、一度も荷を父へ預けようとはしなかった。
歩幅を崩さず、息を整えながら。
ただ、前を歩く大きな背中を見失わぬように、進み続けていた。
日がに山の向こうへ沈み込む頃、ルシアンはようやく足を止めた。
周囲は針葉樹林がわずかに途切れ、風除けになる大岩がいくつも並ぶ窪地になっている。
遠くから吹き下ろしてくる風も、この場所なら多少は弱まるらしい。
ルシアンは周囲を一瞥すると、短く告げた。
「今日はここだな」
セレスティアは、ほっと息を吐き出した。
気づかぬうちに肩へ入り続けていた力が、少しだけ解けていく。
ルシアンは背負っていた荷を地面へ下ろすと、慣れた手つきで乾いた枝葉を集め、蒼炎を小さく放って火を熾した。
暗い窪地の中央へ、橙色の炎が揺らめき始める。
冷え切っていた空気が、ようやくかすかな熱を帯び始めた。
セレスティアは父の隣へ腰を下ろしながら、ぱちぱちと静かに燃える火を見つめた。
炎の陰影は、ルシアンの横顔を普段よりさらに鋭く見せている。
サファイアブルーの瞳は、暗闇の奥を常に警戒し続けている。
大きな耳は、風の流れの変化を一瞬たりとも逃さぬよう、微細に動いていた。
休んでいるように見えて、その実、彼の神経は周囲の森全体へ張り巡らされている。
「お父様、少しは寝た方がいいんじゃない?」
セレスティアが控えめに言うと、ルシアンは火へ枝を一本放り込みながら返した。
「ここで寝こけて、お前ごと魔物に喰われるくらいなら、起きてる方がマシだ」
その声色は、いつも通りぶっきらぼうだった。
ルシアンとて、疲労がないわけではない。
戦闘や長距離の移動で、筋肉には確かな熱が蓄積しているはずだ。
それでも彼は、自分が眠ることで娘へ危険が及ぶ可能性を、本能的に許容できないのだ。
それは人間的な自己犠牲というより、もっと根源的な、獣としての生存本能に近かった。
自らの縄張りの内側に置いた存在だけは、何があっても守り切る。
その頑なな執念が、ルシアンという幻獣の骨格そのものへ、深く刻み込まれている。
セレスティアはその気配を隣で感じ取りながら、毛布代わりの厚手の外套へ、身体を包んだ。
温かな火の熱以上に、隣に座る父そのものが、彼女へ安心感を与えていた。
ルシアンの、自らの縄張りへ他者を決して侵入させないという、圧倒的な存在感。
幼い頃からずっと、その気配の内側で育ってきた。
だからこそ、彼女の身体は理性より先に、ここには脅威は届かないと理解してしまう。
最初こそセレスティアも耳を立て、周囲の音を警戒していた。
針葉樹の擦れる音、遠くの岩場を風が滑る音、雪解け水が細く流れる気配。
だが、次第に瞼が重くなっていく。
火の温もりと、父の濃密な魔力の圧が、彼女の緊張を少しずつ解きほぐしていった。
「……寝るなら、ちゃんと横になれよ」
ルシアンが低く言う。
「まだ……、起きてる、……よ」
セレスティアは返そうとしたが、その言葉は途中で曖昧に崩れた。
次の瞬間には、彼女の身体はすでに深い眠りへ落ち始めていた。
ルシアンはそんな娘の様子を横目で確認すると、小さく息を吐き出した。
完全に眠り込んだセレスティアの耳は、もう安心しきった柔らかな角度で垂れている。
外套の隙間から覗く藍色のドレスへ、炎の灯りが静かに落ちていた。
ルシアンの目に入ったのは、ドレスに施されたベルローズの刺繍だった。
一針一針、彼女が眠る時間を削りながら縫い込んだ魔力。
精密で、過剰なほど丁寧で、そしてどこまでも執念深い守護。
「……ったく、過保護にも程があるだろ」
ルシアンは視線を細めると、ひとりごちた。
そう思いながらも、その布へ宿る魔力の気配に触れていると、不思議と胸の奥が静かになっていく。
彼は無意識に、自らの上腕へ巻かれた藍色の腕紐へ指先を伸ばした。
外套の下に隠されているそれは、冷えた空気の中でも、仄かな熱を残している。
(これ、あいつの魔力の熱か)
彼女は心配も寂しさも、何ひとつ言葉にしない。
だが、その代わりにこうして自分の魔力を縫い込み、無理やりこちらへ持たせてくる。
そうした姿が、ルシアンにはたまらなく愛しく思えた。
彼の尾が、大きくゆったりと揺れる。
(俺が言えたことじゃねぇが……、素直じゃねぇんだよな。どんだけ経っても)
ルシアンはその細い腕紐を、指先で静かに撫でた。
離れた場所からでも、ベルローズの細い指先が、そこへ触れているような感覚が残っている。
続いてルシアンは、首元のチョーカーに手をやった。
ベルローズの魔力を受け止め続ける、彼女との繋がりの証。
彼はゆっくりと顔を上げ、冷えた夜空を見つめた。
雲の切れ間の向こうに、白い月が浮かんでいる。
その頃、ドラクロワ城でもまた、ベルローズが同じ月を見上げていた。
夜の城は、静まり返っている。
セレスティアとルシアンの気配がない。
彼らの足音がしない。
それだけでこれほど城が広く、冷たく感じるのかと、自分でも驚くほどだった。
「セレスティア……、怪我などしていないかしら」
ベルローズの部屋の机上には、無意識のうちに様々な物が集められていた。
セレスティアと読み解いていた魔導書。
選別途中の薬草。
娘が花壇で育て、嬉しそうに摘んで持ってきた星灯り草。
ルシアンが過去に寄越した古い栞や、蒼い花の髪飾り。
そして彼女はそっと、自らの角へ触れる。
その結晶の奥には、今なお濃く混じり続ける、蒼い幻獣の魔力が脈打っている。
「……ルシアン」
ベルローズはそれらを前にしたまま、長い睫毛を伏せた。
気づけば、自分は二人の欠片ばかりを手元へ寄せ集めている。
普段ならそんな感傷的な行為を、自嘲して切り捨てていただろう。
だが今夜ばかりは、それを止める気にはなれなかった。
遠く離れた北への道。
冷たい風、未知の土地。
そして、成長したとはいっても、親にとってはまだまだ幼い娘。
ルシアンが共にいる以上、きっと大丈夫だと理解している。
理解していてもなお、不安は胸の奥へ積もっていく。
ベルローズはもう一度、自らの結晶化した角へ、指先で触れた。
その瞬間、遠く離れた場所にいるはずの幻獣の気配が、呼応するように胸の奥を揺らす。
彼女は角から指先を離し、そのまま胸元を押さえた。
鼓動が、いつもよりも煩く打っている。
ベルローズはそれを鎮めようと、夜着の布地をぎゅっと握りしめた。
生きている、無事でいる。
それだけが、今の彼女にとって、何よりの救いだった。
ベルローズは窓辺へ歩み寄ると、夜空の白い月を見上げた。
そして遠い野営地では、ルシアンもまた、同じ月を見つめながら火の番を続けている。
二人の間に、広大な距離が横たわっている。
それでも、魔力も祈りも、未だ確かに繋がったままだった。
冷たい北風の吹く夜の中で、その静かな結びつきだけは決して消えない。
深く、穏やかに息づいていた。




