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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第7章:幻獣の故郷

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第55話:月下の守り火 ―離れていても、あなたのそばに―

 周囲の景色はすでに、禁忌の森の持つ湿り気と濃密な生命の色彩を完全に失っている。

 針葉樹の枝葉は硬く尖り、風が吹き抜けるたび、葉擦れの音はどこか冷たい響きを帯びていた。


 昼間はまだ、辛うじて陽光が地表へ熱を残していた。

 だが、日が沈み始めた途端、北から流れ込む空気は急激に鋭さを増していく。

 呼吸のたびに、肺の内側を薄く裂いていくような冷気だ。


 それでも、ルシアンとセレスティアの歩みは止まらない。

 常人であれば到底踏破できない速度で、二人は山道と森を越え続けていた。

 ルシアンはほとんど休憩らしい休憩を取らず、険しい岩場も、凍り始めた斜面も、まるで平地を歩くかのような自然さで踏破していく。


 セレスティアもまた、その背を懸命に追っていた。

 母から贈られた星屑の守護のドレスは、確かな温もりを身体へ残し続けている。

 過酷な冷気の中でも、彼女の呼吸と魔力の流れをそっと支えていた。


 それでも、旅の疲労は確かに存在している。

 足裏には硬い地面を踏み続けた鈍い熱が残り、肩へ掛けた荷物は時間と共に、確実な重量となって身体へ食い込む。


 だがセレスティアは、一度も荷を父へ預けようとはしなかった。

 歩幅を崩さず、息を整えながら。

 ただ、前を歩く大きな背中を見失わぬように、進み続けていた。


 日がに山の向こうへ沈み込む頃、ルシアンはようやく足を止めた。

 周囲は針葉樹林がわずかに途切れ、風除けになる大岩がいくつも並ぶ窪地になっている。

 遠くから吹き下ろしてくる風も、この場所なら多少は弱まるらしい。

 ルシアンは周囲を一瞥すると、短く告げた。


「今日はここだな」


 セレスティアは、ほっと息を吐き出した。

 気づかぬうちに肩へ入り続けていた力が、少しだけ解けていく。


 ルシアンは背負っていた荷を地面へ下ろすと、慣れた手つきで乾いた枝葉を集め、蒼炎を小さく放って火を熾した。

 暗い窪地の中央へ、橙色の炎が揺らめき始める。

 冷え切っていた空気が、ようやくかすかな熱を帯び始めた。


 セレスティアは父の隣へ腰を下ろしながら、ぱちぱちと静かに燃える火を見つめた。

 炎の陰影は、ルシアンの横顔を普段よりさらに鋭く見せている。


 サファイアブルーの瞳は、暗闇の奥を常に警戒し続けている。

 大きな耳は、風の流れの変化を一瞬たりとも逃さぬよう、微細に動いていた。

 休んでいるように見えて、その実、彼の神経は周囲の森全体へ張り巡らされている。


「お父様、少しは寝た方がいいんじゃない?」


 セレスティアが控えめに言うと、ルシアンは火へ枝を一本放り込みながら返した。


「ここで寝こけて、お前ごと魔物に喰われるくらいなら、起きてる方がマシだ」


 その声色は、いつも通りぶっきらぼうだった。

 ルシアンとて、疲労がないわけではない。

 戦闘や長距離の移動で、筋肉には確かな熱が蓄積しているはずだ。

 それでも彼は、自分が眠ることで娘へ危険が及ぶ可能性を、本能的に許容できないのだ。


 それは人間的な自己犠牲というより、もっと根源的な、獣としての生存本能に近かった。

 自らの縄張りの内側に置いた存在だけは、何があっても守り切る。

 その頑なな執念が、ルシアンという幻獣の骨格そのものへ、深く刻み込まれている。


 セレスティアはその気配を隣で感じ取りながら、毛布代わりの厚手の外套へ、身体を包んだ。

 温かな火の熱以上に、隣に座る父そのものが、彼女へ安心感を与えていた。


 ルシアンの、自らの縄張りへ他者を決して侵入させないという、圧倒的な存在感。

 幼い頃からずっと、その気配の内側で育ってきた。

 だからこそ、彼女の身体は理性より先に、ここには脅威は届かないと理解してしまう。


 最初こそセレスティアも耳を立て、周囲の音を警戒していた。

 針葉樹の擦れる音、遠くの岩場を風が滑る音、雪解け水が細く流れる気配。

 だが、次第に瞼が重くなっていく。

 火の温もりと、父の濃密な魔力の圧が、彼女の緊張を少しずつ解きほぐしていった。


「……寝るなら、ちゃんと横になれよ」


 ルシアンが低く言う。


「まだ……、起きてる、……よ」


 セレスティアは返そうとしたが、その言葉は途中で曖昧に崩れた。

 次の瞬間には、彼女の身体はすでに深い眠りへ落ち始めていた。


 ルシアンはそんな娘の様子を横目で確認すると、小さく息を吐き出した。

 完全に眠り込んだセレスティアの耳は、もう安心しきった柔らかな角度で垂れている。

 外套の隙間から覗く藍色のドレスへ、炎の灯りが静かに落ちていた。


 ルシアンの目に入ったのは、ドレスに施されたベルローズの刺繍だった。

 一針一針、彼女が眠る時間を削りながら縫い込んだ魔力。

 精密で、過剰なほど丁寧で、そしてどこまでも執念深い守護。


「……ったく、過保護にも程があるだろ」


 ルシアンは視線を細めると、ひとりごちた。

 そう思いながらも、その布へ宿る魔力の気配に触れていると、不思議と胸の奥が静かになっていく。

 彼は無意識に、自らの上腕へ巻かれた藍色の腕紐へ指先を伸ばした。

 外套の下に隠されているそれは、冷えた空気の中でも、仄かな熱を残している。


(これ、あいつの魔力の熱か)


 彼女は心配も寂しさも、何ひとつ言葉にしない。

 だが、その代わりにこうして自分の魔力を縫い込み、無理やりこちらへ持たせてくる。

 そうした姿が、ルシアンにはたまらなく愛しく思えた。

 彼の尾が、大きくゆったりと揺れる。


(俺が言えたことじゃねぇが……、素直じゃねぇんだよな。どんだけ経っても)


 ルシアンはその細い腕紐を、指先で静かに撫でた。

 離れた場所からでも、ベルローズの細い指先が、そこへ触れているような感覚が残っている。


 続いてルシアンは、首元のチョーカーに手をやった。

 ベルローズの魔力を受け止め続ける、彼女との繋がりの証。

 彼はゆっくりと顔を上げ、冷えた夜空を見つめた。

 雲の切れ間の向こうに、白い月が浮かんでいる。


 その頃、ドラクロワ城でもまた、ベルローズが同じ月を見上げていた。

 夜の城は、静まり返っている。


 セレスティアとルシアンの気配がない。

 彼らの足音がしない。

 それだけでこれほど城が広く、冷たく感じるのかと、自分でも驚くほどだった。


「セレスティア……、怪我などしていないかしら」


 ベルローズの部屋の机上には、無意識のうちに様々な物が集められていた。

 セレスティアと読み解いていた魔導書。

 選別途中の薬草。

 娘が花壇で育て、嬉しそうに摘んで持ってきた星灯り草。


 ルシアンが過去に寄越した古い栞や、蒼い花の髪飾り。

 そして彼女はそっと、自らの角へ触れる。

 その結晶の奥には、今なお濃く混じり続ける、蒼い幻獣の魔力が脈打っている。


「……ルシアン」


 ベルローズはそれらを前にしたまま、長い睫毛を伏せた。

 気づけば、自分は二人の欠片ばかりを手元へ寄せ集めている。

 普段ならそんな感傷的な行為を、自嘲して切り捨てていただろう。

 だが今夜ばかりは、それを止める気にはなれなかった。


 遠く離れた北への道。

 冷たい風、未知の土地。

 そして、成長したとはいっても、親にとってはまだまだ幼い娘。


 ルシアンが共にいる以上、きっと大丈夫だと理解している。

 理解していてもなお、不安は胸の奥へ積もっていく。


 ベルローズはもう一度、自らの結晶化した角へ、指先で触れた。

 その瞬間、遠く離れた場所にいるはずの幻獣の気配が、呼応するように胸の奥を揺らす。


 彼女は角から指先を離し、そのまま胸元を押さえた。

 鼓動が、いつもよりも煩く打っている。

 ベルローズはそれを鎮めようと、夜着の布地をぎゅっと握りしめた。


 生きている、無事でいる。

 それだけが、今の彼女にとって、何よりの救いだった。


 ベルローズは窓辺へ歩み寄ると、夜空の白い月を見上げた。

 そして遠い野営地では、ルシアンもまた、同じ月を見つめながら火の番を続けている。


 二人の間に、広大な距離が横たわっている。

 それでも、魔力も祈りも、未だ確かに繋がったままだった。

 冷たい北風の吹く夜の中で、その静かな結びつきだけは決して消えない。

 深く、穏やかに息づいていた。

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