第54話:父娘の牙 ―対等な共闘―
ドラクロワ城を発ってから、森の空気は確実にその質を変え始めていた。
禁忌の森の内側では、湿った黒土と薔薇の香りが濃く漂っており、瑞々しい木々も、どこか魔女の城へ身を寄せるように枝を曲げていた。
だが、北へ向かうにつれてその湿度は薄れていく。
代わりに、冷えた石と針葉樹の乾いた匂いが風の底へ混じりはじめる。
セレスティアは、母から贈られた守護のドレスの上から、旅用の厚手の外套を羽織っている。
彼女は父の数歩後ろを歩きながら、初めて踏む北への道を、慎重に見つめていた。
足元の土は城の周囲より硬く、霜の名残を含んだ小石がところどころに覗いている。
遠くの空は淡く白み、雲の奥には、まだ姿を見せぬ霊峰の冷たい気配が、低く横たわっていた。
ルシアンは濃藍色の髪を鋭い北風に揺らし、常に先を歩いていく。
広い肩には重い荷を背負っているが、その歩幅に乱れは一切ない。
外套の下の上腕には、出発の朝にベルローズが結んだ、藍色の腕紐が隠れている。
彼は何も言わない。
時折北の方角へ耳を向け、風の匂いを確かめるように鼻先を動かしている。
その横顔には、生まれ故郷へ近づく懐かしさとは異なる、もっと重く沈んだものがあった。
セレスティアは、背中から漂うその気配を感じ取りながらも、あえて問いかけなかった。
不器用な父が語るべき時を選ぶのなら、その時までじっと待とうと思ったのだ。
足場の悪い急な坂を越えるたび、ルシアンは何も言わずに自然と速度を落とし、セレスティアが追いつくのを待つ。
大きな倒木を跨ぐ時は、振り返りもせずに短く声をかけた。
「足元見ろよ」
「わかってる、ちゃんと見てるよ」
「見てるやつはそこで引っかからねぇぞ」
セレスティアが返すと、ルシアンはさらに短く切り捨てる。
素っ気ない言葉の奥にある確かな気遣いを、彼女は以前より正確に受け取れるようになっていた。
守られていることの有り難みを知り、帰る場所の意味を理解した今。
父の不器用な優しさは、以前よりもずっと温かく、胸に染み込んでいく。
二人は、針葉樹が深く密集する暗い谷間へ差しかかった。
禁忌の森と、北方の冷たい山地の境界にあたるその場所。
地面には苔と枯れ葉が厚く積もり、ところどころから白い霜が、冷たく覗いている。
空気が急に静まり、それまでかすかに聞こえていた鳥の声が遠のいた。
ルシアンの歩みが、ぴたりと止まる。
ほとんど同時に、セレスティアも足を止めていた。
彼女の漆黒の耳が鋭く立ち、尾が警戒に低く揺れる。
冷たい風の中に、濁った獣の魔力が混じっていた。
腐臭ではなく、もっと乾いた異質な匂いだ。
「お前も気付いてるな、セレスティア」
ルシアンが低い声で問う。
声量は抑えられているが、静まり返った谷間によく通った。
「うん。右前方、岩陰の奥。……一体じゃない」
セレスティアが答えると、ルシアンの片眉がわずかに上がった。
彼女の声は震えていない。
怖がっていないわけでもないだろうが、感覚は極めて正確だった。
ルシアンはそれ以上何も言わず、視線を前方に固定したまま命じた。
「下がりすぎるな。それと、俺の死角に入んなよ」
「うん」
セレスティアは深く頷き、星の魔力を足元へ薄く広げた。
岩陰から姿を現したのは、白骨を思わせる、細長い体を持った氷獣だった。
狼にも鹿にも似ているが、どちらとも違う。
四肢は異様に長く、関節は逆に折れ、背には青白い結晶が疎らに生えている。
口元から漏れる息は白く、触れた草葉を瞬時に薄く凍らせていく。
数は三体。
いずれも、飢えているわけではない。
むしろ、異物が自らの縄張りへ入り込んだことを本能的に拒むような、冷酷な敵意をその身に纏っていた。
セレスティアは息を呑んだが、今は背後に守るべきエマはいない。
非戦闘員を抱えた恐怖ではなく、自分自身の判断で父と並び立つ、純粋な緊張感だけがそこにあった。
ルシアンは背負っていた重い荷を、地面へと下ろす。
上腕の藍色の腕紐に縫い込まれたベルローズの緻密な魔力が、ルシアンの昂りに呼応して淡く揺れた。
彼はそれに気づいて視線を落としたが、すぐに鋭い目で前方を見据える。
「正面の二体は俺が潰す。お前は横へ抜けるやつを止めろ。無理に倒そうとすんな、流れを切れ」
「わかった」
短いやり取りだけで、十分だった。
霜を砕くような速さで、氷獣の一体が低く跳び、もう一体が側面へ回り込む。
ルシアンは一歩も退かず、迫る一体の鋭い爪を腕で受け流す。
彼は身を沈めて踏み込むと同時に、腕を軽く振り、打ち上げるように蒼炎を放つ。
激しい衝撃で氷獣の身体が大きく浮き、背の結晶が派手に砕け散る。
セレスティアはその圧倒的な力に見惚れる暇もなく、横へ抜けようとしたもう一体へと向き直った。
星の魔力が足元から広がり、霜に覆われた苔と木の根を淡く光らせる。
セレスティアは、速度が速すぎる相手には、強引な拘束は間に合わないと判断した。
魔物の脚を直接魔力で拘束しようとはせず、地面の魔力の流れをずらす。
彼女は氷獣が次の足を一歩踏み込む瞬間の足場だけを、脆く崩した。
氷獣の前脚が深く沈み、体勢が大きく乱れる。
セレスティアは、その刹那の隙を的確に狙って光の糸を放ち、魔物の結晶の根元に絡む、濁った魔力の結び目を綺麗に断ち切った。
氷獣の動きが、一拍遅れる。
ルシアンはその一拍を逃さなかった。
最初から、そこへ敵が崩れることを知っていたかのように身を翻し、蒼炎を纏った爪で氷獣の喉元を深く裂く。
白い息が激しく弾け、魔物の身体は黒ずんだ霧となって空気中に崩れていった。
セレスティアはその完璧な連携に、胸を激しく震わせる。
自分の魔法が、父の一撃へ確かに繋がった。
ただ守られるためではなく、父の牙が深く届くための道を、作ることができたのだ。
だが、戦闘はまだ終わっていない。
残る最後の一体が背後の岩場を強く蹴り、セレスティアの頭上から不意を突いて飛びかかってきた。
彼女は耳で風の切れ目を鋭く拾い、尾で重心を細かく調整して横へ逃れる。
その瞬間、星屑の守護のドレスに縫い込まれていた術式が鋭敏に反応した。
かすめた氷の爪を、淡い星明かりのような光で弾き、逸らす。
母の魔力が、布越しにほんの一瞬だけ、彼女を包み込む。
セレスティアはその温もりを背中に感じながら、強く踏みとどまった。
怯えて下がるわけにはいかない。
今は父と共に、ここで戦っているのだ。
「お父様! 左に誘導する!」
セレスティアは叫び、魔力の糸を再び地面へ走らせる。
氷獣は本能的にその魔力を避け、彼女の意図した方向へと進路を強制的に変えた。
そこには、苔の下に隠れた薄い氷の層があった。
セレスティアが魔力を一気に流すと、氷の表面が鏡のように滑らかになり、氷獣の長い脚が流れる。
たった一瞬の隙だが、ルシアンにはそれで十分すぎた。
彼は音もなく踏み込み、サファイアブルーの瞳を細めると、魔物の首筋へ容赦のない、鋭い一撃を落とした。
氷獣は抵抗する間もなく崩れ落ち、冷たい霧となって谷間の空気へ溶けていく。
完全な静寂が戻った。
セレスティアは肩で小さく息をしながら、周囲の気配を慎重に探る。
もう周囲に敵意はない。
冷たい風が針葉樹の間を通り抜け、砕けた結晶の粉を淡くきらめかせながら舞い上げた。
ルシアンは蒼い魔力を鎮めながら腕を組み、しばらくの間、黙って娘の様子を見ていた。
(魔力の細けぇ制御はベルローズ譲りだな。あの一瞬で結び目が切れるなら上等だ。……身体の使い方は俺に似たか)
セレスティアの立ち位置、魔力の使い方、判断の速さ。
そして敵を単に倒すためではなく、父の攻撃を通すために場を整えた、その戦い方。
そのどれもが、彼の想定していたよりもずっと、実戦の形を成していた。
「……案外やるじゃねぇか。悪くねぇ」
低く、抑えられた声で零れた言葉に、セレスティアは目を瞬かせた。
「え?」
セレスティアは、その意味を理解するのに少しだけ時間がかかったが、やがて耳をぴんと立てた。
父が、自分の戦いをしっかりと見て、連携し、そして褒めてくれた。
その不器用な賛辞は真っ直ぐに、彼女の胸に届く。
「お父様こそ……、すごかった」
セレスティアは素直に、尊敬の念を込めて言った。
ルシアンは怪訝そうに眉を寄せる。
「何がだよ」
「全部見えてたでしょう? 魔物の動きも、私の魔力も、地形も。お父様はただ強いだけじゃなくて、ちゃんと全部を見てるんだってわかったよ」
ルシアンは少しだけ目を見開き、言葉に詰まった。
そんなふうに真正面から、純粋な尊敬を向けられることに、彼はどうしても慣れていない。
彼は面倒そうに視線を逸らすと、地面から荷物を再び拾い上げた。
「……見えてなきゃ死ぬだけだ。戦いなんざ、そういうもんだろ」
「でも、すごいよ」
「うるせぇ。先に進むぞ」
言い捨てる父の背中に、セレスティアは小さく笑い、自分の荷物を背負い直す。
さきほどまでどこか恐ろしく、未知の脅威に満ちているように見えていた北への道が、今は少しだけ違って見えた。
自分は、まだ未熟だ。
父の圧倒的な強さには、遠く及ばない。
けれど、並んで戦うことはできる。支えることはできる。
母の洗練された制御と、父のしなやかな身体能力。
その両方を受け継いだ自分だけの戦い方を、これから一歩ずつ見つけていけばいい。
二人は再び、北へと歩き出す。
谷間の先には、より厳しく冷たい風が待っていた。
遠く、雲の裂け目の向こうに、白く霞む山影がその姿を覗かせている。
北方霊峰はまだ遠い。
だがその道の上で、父と娘の足音は、力強く並び始めた。




