第53話:旅立ちの朝 ―結ばれた祈り―
北へ向かう、旅立ちの日の朝。
ドラクロワ城はまだ夜の重い冷気を引きずった、静謐な空気に包まれている。
セレスティアはまだ薄暗い自室の窓辺に立ち、白んでいく空をじっと見つめていた。
未知なる旅への高揚と、極寒の土地へ向かう不安。
あの家出の一件を経て手に入れた、自分の足で一歩を踏み出すのだという決意。
それらが胸の中で、幾重にも折り重なっている。
ふと、彼女の部屋の厚い木製扉が、控えめに数度、乾いた音を立てて叩かれた。
「起きているわね、セレスティア」
聞き慣れた、母の声だった。
セレスティアが慌てて振り返ると、そこにはいつもの黒いドレスを纏ったベルローズが立っていた。
細い腕には、深い藍色の布地が大切そうに、恭しく抱えられている。
彼女は部屋の中へと入ると、余計な前置きを一切することなく、手元にあるその布を広げた。
朝の淡い光が、室内に差し込む。
布地に巡らされた金銀の刺繍糸が、夜空の星屑のように、神秘的なきらめきを放った。
「出発までに仕上がって、本当によかったわ」
それは、世界にただ一枚の『星屑の守護のドレス』だった。
夜明け前の張り詰めた空と、深い湖面を重ね合わせたような静かな青。
その上を流れるように施された刺繍は、単なる美的な装飾ではなく、星々の正しい軌道を模した、極めて緻密な守護術式だった。
銀糸は冷たい月光のように、金糸は朝焼け前の微かな陽光のように。
見る角度によって、繊細で奥深い輝きを静かに返している。
裾の丈は膝下程度に留められ、セレスティアの動きを邪魔しないよう配慮されていた。
セレスティアはしばらくの間、言葉を失ったまま、眼前に広げられたドレスを見つめていた。
自分のために、母がどれほどの想いを込めて作ってくれたのか。
すぐには実感として飲み込めない。
だが、刺繍の一針一針へと込められた魔力の流れを、彼女は自身の肌で正確に感じ取ることができた。
母が長い夜をかけ、指先を細やかに動かして、術式を編み込んだこと。
その膨大な集中と、言葉にならない深い愛情が、布越しに伝わってくる。
「……お母様が、一人でこれを作ってくれたの?」
「ええ。北の霊峰は、あなたが頭の中で思っている以上に過酷な場所よ。少しでも、守りを厚くしておきたかったの」
ベルローズはいつものように、淡々とした口調で言った。
その白い指先は、無意識にドレスの裾のラインを愛おしそうに整えている。
セレスティアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、そっとそのドレスへと袖を通していく。
肌へと上質な布が触れ、その内側へと深く縫い込まれていた守護術式が、彼女の持つ力に呼応した。
淡い星明かりのような蒼白い光が、刺繍の奥を脈打つように走り抜ける。
「とっても、綺麗……」
それは、胸の奥底から思わず零れ落ちた本音だった。
ベルローズは、ドレスを纏った娘の姿を静かに見つめる。
深い藍色の布は、セレスティアの漆黒に蒼が混じった美しい髪と、澄んだ蒼い瞳に驚くほどよく馴染む。
彼女が宿す星の魔力を、より際立たせていた。
まだその肩の線には、幼さが残る。
けれど、その瞳は以前よりも確実に、遠くの世界を見据える強さを覚え始めていた。
ベルローズはその確かな成長を、誇らしく思う。
同時に親として、胸の奥へと微かな寂しさが落ちていくのを、どうしても止められなかった。
やがて旅支度を終えた一行は、朝靄の白く残る城門の前へと集まっていた。
ピピは地面に並べられた荷物を前に、最後まで几帳面な確認を続けている。
保存食の配置や、皮袋の紐の結び目、外套の小さな留め具に至るまで。
何度も何度も指先で確かめ、見直していた。
「これは霊峰の激しい寒気で、万が一肺を痛めてしまった時のためのものです」
アマンダが温室の方から、乾燥させた薬草の束を追加で抱えてやってくる。
彼女は穏やかに説明を加えながら、頑丈な籠の隙間へそっと詰め込んだ。
「あと、こちらの根はちゃんと時間をかけて煮込んでから食べてくださいね。そのままだと、ほんの少しだけ身体に障る毒がありますから」
「さらっと恐ろしいことを言うんじゃねぇよ」
ルシアンが低い声でぼやく。
彼の広い両肩には既に、常人なら到底持ち上がらない量の荷物が掛けられていた。
乾燥保存食をはじめとして、天幕を兼ねた簡易寝具や、厚手の防寒具。
明らかに一人で抱えるには、過剰な重量だった。
だが、当の幻獣は眉一つ動かさず、それを意にも介していない。
だがセレスティアは当然のように、自分用にまとめられた重い布製の荷物を持ち上げた。
それを見たルシアンが、不機嫌そうに大きく眉を寄せる。
「おい、それ寄越せ。俺が全部持つ」
「大丈夫だよ、これくらい。私だって、お父様に厳しい訓練で鍛えられてるんだから」
セレスティアは誇らしげに、尾を小さく揺らしながら答えた。
これまでなら、父のその不器用な優しさに素直に甘えて、荷物を預けていたかもしれない。
けれど今の彼女は、自分の足で荒野を歩き、自分の荷をその背に持って旅へ出たいと、強く願っていた。
ルシアンはそんな娘の真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、それ以上は何も言わなかった。
だがその口元には、ほんのわずか、父親としての満足げな色が滲み出ている。
そしていよいよ、二人が城門の重い境界線を越えて歩き出す。
「それじゃ、行ってくるね」
「お気をつけて。ルシアン、セレスティア様に間違っても怪我なんてさせないでよ」
「わかってる。あんたに言われるまでもねぇよ」
ベルローズは静かに、その二人の背中を見送っていた。
その深紅の瞳の視線はどこか落ち着かず、長い睫毛が伏せられている。
彼女自身、自分でも処理しきれない奇妙な感情を抱えていた。
娘が自らの世界を広げていくことは、間違いなく誇らしい。
ルシアンが共にいる以上、その旅の安全も、心から信頼している。
それでも。
長い時間をずっと同じ城で過ごしてきた二人が、同時に自分の傍から離れていく。
それが彼女の胸の奥へと、寂しい空洞を作っていた。
その微かな心の揺らぎに気づいたのは、やはり半身であるルシアンだった。
彼は数歩進んだところでふと足を止め、低く呟いた。
「……本当に、仕方ねぇやつだな」
彼は軽く溜息を一つ吐き、ゆっくりと踵を返す。
セレスティアは、父のその様子を首を傾げて見つめた。
「お父様、どうしたの? 何か忘れ物?」
「ああ、……まぁそんなとこだ」
ルシアンは荷物を無造作にその場へ下ろすと、ベルローズの目の前まで引き返してきた。
そしてごく自然な迷いのない動作で、蒼く結晶化した美しい角へと、そっと自身の唇を落とした。
二人の魔力が触れ合い、角がほんの微かに淡く、温かな光を帯びる。
続けてルシアンは、大きな腕でベルローズの細い身体をぐっと引き寄せ、その胸の中へと強く抱きしめた。
「どんだけ遠くへ離れてようが、俺はいつでもあんたの傍にいるし、あんたもここにいる。そうだろ?」
ルシアンは自らの首元に巻かれた、紫の薔薇が咲いたベルベットのチョーカーへ軽く指先で触れた。
それから、ベルローズの角を視線で示す。
二人を繋ぐ、消えない魔力の結晶。
長い時間と、過酷な世界の中で共に生き抜いてきた者同士の、絶対的な証だった。
ベルローズはサファイアブルーの瞳から逃れるように視線を逸らし、小さく息を吐き出す。
「……それは、頭では分かっているわ。そうだけれど……」
「なんだ、角じゃなくてこっちの方が良かったのかよ? 言わなきゃわかんねぇぞ」
ルシアンは揶揄うように目を細め、低く笑う。
そして彼女の顎を、整った指先で軽く持ち上げると、そのまま躊躇いなく静かに唇を重ねた。
ベルローズは深紅の瞳を大きく見開いたが、次の瞬間には羞恥を隠すように、彼を鋭く睨みつけていた。
「……皆が見ている前で、そういう不躾なことをするのはやめて」
言葉とは裏腹に、彼女の結晶化した角は、喜びと愛しさを隠しきれずに、優しく光り続けている。
ルシアンは不敵に笑って何も答えず、その尾を大きく揺らした。
背後では、ピピが露骨に顔を顰めて明後日の方角を向いた。
アマンダは楽しそうに、口元を隠しながらくすくすと笑っている。
セレスティアはそんな愛おしい両親の姿を見て、困ったように微笑む。
そうしながらも、胸の奥底が確かな温かさで満たされていくのを感じていた。
ベルローズは平静を装い、小さく咳払いをすると、ようやく思い出したような口調を装って切り出した。
「……そういえば、あなたにも渡すものがあったわ」
彼女は黒い外套の内側から、丁寧に畳まれていた、細い藍色の飾り紐を取り出した。
深い青の布地を寸分の狂いもなく編み込み、表面へ蔓薔薇と蒼炎の刺繍が細やかに巡らされている。
その美しい文様の奥には、ベルローズの緻密な魔力が強固に織り込まれていた。
ベルローズは視線をわざと逸らしたままルシアンの袖を大きく捲り、その逞しい上腕へと、紐を結びつける。
指先の動きだけが、妙に慎重だった。
「絶対に、旅の途中で落としたりしないように。その上から、きちんと外套を着ておくのよ。……気を付けて行きなさい」
突き放すような、いつもの冷ややかな言い方だった。
だが、その冷たい言葉の実態が、何よりも重い「無事で、必ず私の元へ帰ってきなさい」という、一途な祈りであること。
それくらい、ルシアンには痛いほど分かっていた。
彼は右腕に硬く結ばれた藍色の腕紐を見下ろし、それから、愛おしそうに小さく笑った。
「ああ、わかってるよ。行ってくる」
朝の透明な光が、ドラクロワ城の薔薇と、歩み出す親子の姿を照らし出している。
果てしない北の霊峰へと続く旅が、今まさに始まろうとしていた。




