第52話:星屑の守護 ―旅立つ背に、祈りを―
北への遠征の準備が、本格的に進み始めてからというもの。
ドラクロワ城の中には、静かな緊張が満ちていた。
ピピは旅に必要な道具類を、几帳面に確認し続けている。
北方の厳しい寒気にも耐えられるよう、外套の金属性の留め具を、細かく叩いて修繕していた。
アマンダは、乾燥した保存食用の薬草を、一枚ずつ選別している。
寒冷地でも身体を芯から温める効能の強い根菜類も、薄暗い地下貯蔵庫から探し出していた。
そしてそれらを、湿気を避けるために編まれた頑丈な籠へと、丁寧に詰め込んでいく。
ルシアンは、普段よりさらに頻繁に、森の外縁へと姿を見せるようになっていた。
彼はこれから向かう北の霊峰の空気を、まだ遠いはずの風の中から、少しでも早く感じ取ろうとしているようにも見えた。
あるいは旅へ出る前に、このドラクロワ城周辺の安全を改めて、入念に確かめているようにも。
そんな慌ただしさの中。
ベルローズは城の奥にある静まり返った小さな裁縫部屋で、長い時間を過ごしていた。
壁に据えられた魔導灯の、淡い橙色の光が、静かに揺れている。
古い木製机の上へ大切に広げられているのは、あの芽吹き祭りの日に手に入れた、美しい藍色の布地だった。
夜の水面を思わせる、どこまでも深い青。
光を受ける角度によって、微かに蒼い光沢を帯びて見える。
その布地は不思議なほど、ルシアンの濃藍色の毛並みを連想させる色合いをしていた。
ベルローズは細い指先で、布地をそっと撫でる。
滑らかな織り目の奥。
職人の丁寧な仕事だけでなく、あの賑やかだった祭りの日の少し浮き足立った空気までもが、閉じ込められているような気がした。
セレスティアがエマと肩を並べて、無邪気に笑い合っていた姿。
人々の祈りを乗せた灯籠が、暗い川面へいくつも流れていった夜。
そして、世界の広さとその境界線を知った娘の、切なげな瞳。
ベルローズは静かに、細い針を持ち上げる。
銀糸にも似た、淡いベルローズ自身の魔力が、その先端へごく細く、煙のように絡みついた。
彼女が手掛けていたのは、北の過酷な地へ向かう娘のために誂える、守護のドレスだった。
刃や衝撃から身を守る、魔術的防護。
周囲の魔力に同調して、セレスティア自身の流れを乱されぬための、精密な補助術式。
万年雪の降る極寒の地でも、急激に体温を奪われにくくする、連続的な保温魔法。
それら複数の複雑な術式を、ベルローズは一本の細い糸による刺繍の形へと落とし込んだ。
一針一針、布の奥へと静かに縫い込んでいく。
針先が柔らかな布を貫くたび、ベルローズの脳裏には、様々な古い記憶が淡く浮かび上がっては消えていった。
自分の身体の内へと、まだ小さな命の気配を初めて感じた、遠い日のこと。
魔女と幻獣の血、その両方を宿した子が、歪むことなく本当に無事に生まれてこられるのかと。
夜ごと眠れぬまま、腹部へ手を当て続けていた不安な日々。
生まれてきたばかりのセレスティアは、驚くほど小さかった。
そして、壊れてしまいそうなほどに温かかった。
ルシアンは抱き上げる力加減がまるで分からず、ぎこちなく腕の中の娘を見下ろしていた。
あの誇り高い霊峰の幻獣が、小さな命を前にして狼狽えていた。
微笑ましい姿を思い出し、ベルローズは目を伏せ、唇を綻ばせる。
さらに針を進めれば、今度は幼い頃のセレスティアの姿が鮮明に浮かぶ。
まだ足元もおぼつかない頃。
ルシアンの大きな濃藍色の尾へしがみついては、楽しそうに笑っていた姿。
ピピの書斎へ勝手に入り込み、整頓された書類を小さな手でくしゃくしゃと丸め、ピピが慌てていたこと。
アマンダの温室で泥だらけになりながら、小さな種から芽が出たと、無邪気に喜んでいた日。
どれほど時間が流れても。
城の石壁には確かに、娘の笑い声と成長の軌跡が幾重にも積み重なっている。
そして最近では、ルシアンとの厳しい訓練の最中、悔しそうに牙を食いしばっていた彼女の横顔も思い出される。
祭りの日、外の世界へ向けて目を輝かせていた姿も。
家出をしてしまった日の、今にも泣き出しそうだった顔も。
どれもまだ未熟で、ひどく不器用で。
それでも懸命に、自分の足で立とうとしていた。
ベルローズは一度、針を止める。
深紅の瞳が、机上の藍色の布をじっと見つめていた。
(あなたにしか見つけられないものを、見つけてきなさい)
それは言葉にすることのない、母としての静かな願いだった。
外の世界は残酷だ。
それでも世界へ、手を伸ばしたいと思ってしまったのなら。
自分の知らない景色を、自分の瞳で見たいと願ってしまったのなら。
もう、親がその身体を檻に閉じ込めて止めることはできない。
ならばせめて、その過酷な旅路が少しでも穏やかなものであるように。
あの子が、歩む道で転びそうになった時。
ほんの少しだけ、支えになれるように。
ベルローズは再び、迷いなく針を動かした。
藍色の布地の上へ、夜空にきらめく星を思わせる金銀の糸が、規則正しく広がっていく。
夜空を巡る、星々の軌跡のように。
北の霊峰に静かに降る、雪の結晶のように。
強固な守護の術式は、美しい刺繍模様へと姿を変えて、深い青の布へと溶け込んでいった。
静寂が、部屋を満たしている。
どれほど時間が過ぎたのかも分からない頃。
ベルローズはようやく、最後の糸を優しく結び終えた。
完成したドレスは、魔力の瞬きを宿し、机の上へと広がっている。
藍色の深い布地には、無数の星屑を散らしたような繊細な刺繍が、細やかに巡らされていた。
決して豪奢すぎず、それでいてドラクロワ城の娘としての気品を失わない。
美しく、落ち着いた仕上がりだった。
ベルローズは小さく息を吐き、その布地へ白い指先を滑らせる。
魔力の流れは安定している。
術式の縫い込みも、布の耐久性を損なうことなく、均一に行き届いていた。
旅先で、多少の衝撃や外部からの魔力干渉を受けても、簡単には壊れないだろう。
ようやく出発に間に合ったのだという安堵が、遅れて胸の奥へ広がっていく。
だが、ベルローズは席を立たず、しばらくの間考え込み、長い睫毛を伏せていた。
彼女は俄かに、ドレスの裁断後に机の端に残しておいた、藍色の細長い端切れを、手元へと引き寄せる。
ほんの細い布だが、捨てるにはあまりに惜しかった。
ベルローズは、新たな刺繍糸を取り出した。
今度は、深い蒼色だった。
針先へ宿る魔力もまた、先ほどまで娘へ向けていたものとは、全く違う質感を帯びている。
娘へ向けるような、すべてを包み込む柔らかな守護とは違う。
もっと鋭く頑なで、静かな祈りに似た力。
彼女は細い布を長く編み込みながら、その表面へ、蔓薔薇の模様を丁寧に刺繍していった。
黒薔薇の鋭い茨を思わせる、入り組んだ曲線。
その合間へ、蒼炎を模した極めて細い文様を、隠すようにして忍ばせる。
ルシアンは、いつも自分の傷や痛みを軽く扱いすぎる。
己が圧倒的な強者であることを当然のように受け入れ、戦いの中でその身体が壊れることを、これっぽっちも恐れない。
だからこそ、ベルローズは知っていた。
「無茶はしないで、気をつけて」とどれほど言葉で伝えたところで、彼はまともに聞きはしないだろうということを。
ならばせめて、自分の魔力を編み込んだこの細い紐が、彼の腕に巻かれている間だけでも。
少しは加護になるように。
ベルローズは薄暗い部屋の中で黙ったまま、針を進め続けた。
裁縫部屋の窓の外では、初夏の涼しい夜風が、庭園の薔薇を静かに揺らしている。
遠く、旅支度をすべて終えたピピが、最後に重い木製の工具箱を閉じる音が響いた。
温室では、アマンダが夜露を避けるため、繊細な植物たちの頭上へ、一枚ずつ丁寧に布を掛け終えている気配がある。
そしてきっと今頃、ルシアンは中庭の片隅か、あるいは静まり返った城門の近くで、冷たい風の匂いを嗅いでいるのだろう。
ベルローズは完成しかけた細い腕紐を指先で持ち上げ、その藍色を橙色の灯りへそっと透かした。
それはまるで、どこまでも広がる冷徹な夜空の一部を、美しく切り取ったような色をしていた。




