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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第7章:幻獣の故郷

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第52話:星屑の守護 ―旅立つ背に、祈りを―

 北への遠征の準備が、本格的に進み始めてからというもの。

 ドラクロワ城の中には、静かな緊張が満ちていた。


 ピピは旅に必要な道具類を、几帳面に確認し続けている。

 北方の厳しい寒気にも耐えられるよう、外套の金属性の留め具を、細かく叩いて修繕していた。


 アマンダは、乾燥した保存食用の薬草を、一枚ずつ選別している。

 寒冷地でも身体を芯から温める効能の強い根菜類も、薄暗い地下貯蔵庫から探し出していた。

 そしてそれらを、湿気を避けるために編まれた頑丈な籠へと、丁寧に詰め込んでいく。


 ルシアンは、普段よりさらに頻繁に、森の外縁へと姿を見せるようになっていた。

 彼はこれから向かう北の霊峰の空気を、まだ遠いはずの風の中から、少しでも早く感じ取ろうとしているようにも見えた。

 あるいは旅へ出る前に、このドラクロワ城周辺の安全を改めて、入念に確かめているようにも。


 そんな慌ただしさの中。

 ベルローズは城の奥にある静まり返った小さな裁縫部屋で、長い時間を過ごしていた。


 壁に据えられた魔導灯の、淡い橙色の光が、静かに揺れている。

 古い木製机の上へ大切に広げられているのは、あの芽吹き祭りの日に手に入れた、美しい藍色の布地だった。


 夜の水面を思わせる、どこまでも深い青。

 光を受ける角度によって、微かに蒼い光沢を帯びて見える。

 その布地は不思議なほど、ルシアンの濃藍色の毛並みを連想させる色合いをしていた。


 ベルローズは細い指先で、布地をそっと撫でる。

 滑らかな織り目の奥。

 職人の丁寧な仕事だけでなく、あの賑やかだった祭りの日の少し浮き足立った空気までもが、閉じ込められているような気がした。


 セレスティアがエマと肩を並べて、無邪気に笑い合っていた姿。

 人々の祈りを乗せた灯籠が、暗い川面へいくつも流れていった夜。

 そして、世界の広さとその境界線を知った娘の、切なげな瞳。


 ベルローズは静かに、細い針を持ち上げる。

 銀糸にも似た、淡いベルローズ自身の魔力が、その先端へごく細く、煙のように絡みついた。

 彼女が手掛けていたのは、北の過酷な地へ向かう娘のために誂える、守護のドレスだった。


 刃や衝撃から身を守る、魔術的防護。

 周囲の魔力に同調して、セレスティア自身の流れを乱されぬための、精密な補助術式。

 万年雪の降る極寒の地でも、急激に体温を奪われにくくする、連続的な保温魔法。


 それら複数の複雑な術式を、ベルローズは一本の細い糸による刺繍の形へと落とし込んだ。

 一針一針、布の奥へと静かに縫い込んでいく。

 針先が柔らかな布を貫くたび、ベルローズの脳裏には、様々な古い記憶が淡く浮かび上がっては消えていった。


 自分の身体の内へと、まだ小さな命の気配を初めて感じた、遠い日のこと。

 魔女と幻獣の血、その両方を宿した子が、歪むことなく本当に無事に生まれてこられるのかと。

 夜ごと眠れぬまま、腹部へ手を当て続けていた不安な日々。


 生まれてきたばかりのセレスティアは、驚くほど小さかった。

 そして、壊れてしまいそうなほどに温かかった。


 ルシアンは抱き上げる力加減がまるで分からず、ぎこちなく腕の中の娘を見下ろしていた。

 あの誇り高い霊峰の幻獣が、小さな命を前にして狼狽えていた。

 微笑ましい姿を思い出し、ベルローズは目を伏せ、唇を綻ばせる。


 さらに針を進めれば、今度は幼い頃のセレスティアの姿が鮮明に浮かぶ。

 まだ足元もおぼつかない頃。

 ルシアンの大きな濃藍色の尾へしがみついては、楽しそうに笑っていた姿。


 ピピの書斎へ勝手に入り込み、整頓された書類を小さな手でくしゃくしゃと丸め、ピピが慌てていたこと。

 アマンダの温室で泥だらけになりながら、小さな種から芽が出たと、無邪気に喜んでいた日。


 どれほど時間が流れても。

 城の石壁には確かに、娘の笑い声と成長の軌跡が幾重にも積み重なっている。


 そして最近では、ルシアンとの厳しい訓練の最中、悔しそうに牙を食いしばっていた彼女の横顔も思い出される。

 祭りの日、外の世界へ向けて目を輝かせていた姿も。

 家出をしてしまった日の、今にも泣き出しそうだった顔も。


 どれもまだ未熟で、ひどく不器用で。

 それでも懸命に、自分の足で立とうとしていた。


 ベルローズは一度、針を止める。

 深紅の瞳が、机上の藍色の布をじっと見つめていた。


(あなたにしか見つけられないものを、見つけてきなさい)


 それは言葉にすることのない、母としての静かな願いだった。


 外の世界は残酷だ。

 それでも世界へ、手を伸ばしたいと思ってしまったのなら。

 自分の知らない景色を、自分の瞳で見たいと願ってしまったのなら。

 もう、親がその身体を檻に閉じ込めて止めることはできない。


 ならばせめて、その過酷な旅路が少しでも穏やかなものであるように。

 あの子が、歩む道で転びそうになった時。

 ほんの少しだけ、支えになれるように。

 ベルローズは再び、迷いなく針を動かした。


 藍色の布地の上へ、夜空にきらめく星を思わせる金銀の糸が、規則正しく広がっていく。

 夜空を巡る、星々の軌跡のように。

 北の霊峰に静かに降る、雪の結晶のように。

 強固な守護の術式は、美しい刺繍模様へと姿を変えて、深い青の布へと溶け込んでいった。


 静寂が、部屋を満たしている。

 どれほど時間が過ぎたのかも分からない頃。

 ベルローズはようやく、最後の糸を優しく結び終えた。


 完成したドレスは、魔力の瞬きを宿し、机の上へと広がっている。

 藍色の深い布地には、無数の星屑を散らしたような繊細な刺繍が、細やかに巡らされていた。

 決して豪奢すぎず、それでいてドラクロワ城の娘としての気品を失わない。

 美しく、落ち着いた仕上がりだった。


 ベルローズは小さく息を吐き、その布地へ白い指先を滑らせる。

 魔力の流れは安定している。

 術式の縫い込みも、布の耐久性を損なうことなく、均一に行き届いていた。


 旅先で、多少の衝撃や外部からの魔力干渉を受けても、簡単には壊れないだろう。

 ようやく出発に間に合ったのだという安堵が、遅れて胸の奥へ広がっていく。


 だが、ベルローズは席を立たず、しばらくの間考え込み、長い睫毛を伏せていた。

 彼女は俄かに、ドレスの裁断後に机の端に残しておいた、藍色の細長い端切れを、手元へと引き寄せる。

 ほんの細い布だが、捨てるにはあまりに惜しかった。


 ベルローズは、新たな刺繍糸を取り出した。

 今度は、深い蒼色だった。

 針先へ宿る魔力もまた、先ほどまで娘へ向けていたものとは、全く違う質感を帯びている。


 娘へ向けるような、すべてを包み込む柔らかな守護とは違う。

 もっと鋭く頑なで、静かな祈りに似た力。


 彼女は細い布を長く編み込みながら、その表面へ、蔓薔薇の模様を丁寧に刺繍していった。

 黒薔薇の鋭い茨を思わせる、入り組んだ曲線。

 その合間へ、蒼炎を模した極めて細い文様を、隠すようにして忍ばせる。


 ルシアンは、いつも自分の傷や痛みを軽く扱いすぎる。

 己が圧倒的な強者であることを当然のように受け入れ、戦いの中でその身体が壊れることを、これっぽっちも恐れない。


 だからこそ、ベルローズは知っていた。

「無茶はしないで、気をつけて」とどれほど言葉で伝えたところで、彼はまともに聞きはしないだろうということを。


 ならばせめて、自分の魔力を編み込んだこの細い紐が、彼の腕に巻かれている間だけでも。

 少しは加護になるように。

 ベルローズは薄暗い部屋の中で黙ったまま、針を進め続けた。


 裁縫部屋の窓の外では、初夏の涼しい夜風が、庭園の薔薇を静かに揺らしている。

 遠く、旅支度をすべて終えたピピが、最後に重い木製の工具箱を閉じる音が響いた。

 温室では、アマンダが夜露を避けるため、繊細な植物たちの頭上へ、一枚ずつ丁寧に布を掛け終えている気配がある。


 そしてきっと今頃、ルシアンは中庭の片隅か、あるいは静まり返った城門の近くで、冷たい風の匂いを嗅いでいるのだろう。

 ベルローズは完成しかけた細い腕紐を指先で持ち上げ、その藍色を橙色の灯りへそっと透かした。

 それはまるで、どこまでも広がる冷徹な夜空の一部を、美しく切り取ったような色をしていた。

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