第51話:白き地への備え ―根を知る旅のはじまり―
「さらっと言うけどさ」
当然、最初に現実的な問題へと切り込んだのはピピだった。
彼は食器棚を離れて、大広間の中央へと戻ってくる。
そして、広大な長机の端で腕を組んだ。
精巧に切りそろえられた銀髪を不機嫌そうに揺らし、深く眉を寄せている。
「北方霊峰って、簡単に遠足気分で行けるような場所じゃないだろ。万年雪が積もる、文字通りの極寒地帯だよ?」
ピピは細い指を一本ずつ折りながら続ける。
「食料の選定に防寒具の調達、野営の準備に、念のための回復薬。全部一から確認し直してリスト化しないと、話になんないよ」
ピピはすでに、頭の中で必要物資を猛烈な速度で列挙しているらしい。
指先が長机の乾いた木肌の上で、規則正しい、焦燥を含んだリズムを刻み始めていた。
その口調は極めて辛辣で、不満げで。
ルシアンのあまりにも突飛な提案に対する、明確な抗議の色が濃い。
だが、大広間にいる誰もが知っていた。
彼は決して、この旅そのものに反対しているわけではない。
ピピが、どこへ行くにしても、出発前の準備を執拗なまでに重ねる理由。
それは、恐怖や不安を徹底的に潰しておきたいからだ。
自分の確かな技術と計算で、管理できる形へと変えるため。
彼なりの、極めて不器用で真っ直ぐな、愛情表現そのものだった。
セレスティアとルシアンがどれほど過酷な環境に置かれようとも。
自分の用意した道具で、その身を守れるように。
彼の頑なな矜持は、その一点に集約されていた。
「道だって尋常じゃなく険しいし、あの地域特有の凶暴な魔物だって……、まぁ、それは君が隣にいるなら大丈夫だろうけど、でもさ」
ルシアンの圧倒的な実力は、ピピも痛いほど承知している。
過去にその背中に守られたことも、その強大すぎる力を目の前で見せつけられたことも、数え切れないほどある。
それでも、彼の精霊としての、そして城の管理責任者としてのプライドが邪魔をする。
「二人のことが心配だよ」とは、口が裂けても言えなかった。
ピピはやがて大きく息を吐き、灰色の瞳を澄ませてルシアンを見つめた。
「明日すぐ行くぞ! とか言わないでよ。……絶対時間をかけて、しっかり準備をしてから。それだけは約束してよ」
「……わかってる」
アマンダは、そんなピピの余裕のない様子を眺め、穏やかに微笑んだ。
そして、手元にある温かい薬草茶の入ったカップを、両手でそっと包み込んだまま、深い夜の静寂に溶け込むような声で言った。
「自らの根を知ることは、決して悪いことではありません。次に伸ばすべき枝の向きが、変わることがありますから」
その温かな言葉に、セレスティアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
自分の根、自分が生まれ育った土。
人間の友人と出会い、あまりにも残酷な時間の流れの違いに直面して、立ちすくんだ今だからこそ。
悠久の時を生き続ける、精霊としてのアマンダの言葉は、不思議な重みと説得力を持って彼女の心に響いた。
自分が幻獣の血を引いているという事実から、ただ無知なままに目を背けて生きることはしたくない。
冷たい土の記憶を知ることは、決して恐ろしいことばかりではないのだと、アマンダの琥珀色の瞳が告げていた。
ベルローズはしばらくの間、深い沈黙を保っていた。
彼女の深紅の瞳はじっと、正面の柱の影に佇むルシアンを見つめている。
彼がいつも通り、平静を装っていることも。
その頑なな態度の下で、自身の内奥に封印してきたはずの古い記憶の檻が、重苦しく軋みを上げていることも。
彼の半身も同然であるベルローズには、すべて手に取るように分かっていた。
だからこそ、安易に「行ってらっしゃい」とは、決して口にしない。
ルシアンの忌まわしい過去に、真っ向から踏み込むこと。
それは多感なセレスティアにとっても、そして彼自身にとっても、決して生易しい旅にはならないからだ。
「ルシアン」
ベルローズがその名を呼ぶと、大広間の空気が張り詰める。
「本当に、いいのね」
ルシアンは彼女を、視線を一切逃がさずに、真っ直ぐに見つめ返した。
ベルローズには、そのサファイアブルーの瞳の奥に、親としての迷いや、かつての一族に対する、消えない痛みが見てとれる。
だが、己の呪われた過去から卑屈に逃げようとする影は、彼のどこにも見当たらなかった。
「よくはねぇよ。必要なら行く。それだけだ」
あまりにも、不器用な答えだった。
それを聞いて、ベルローズはほんの少しだけ、美しい目元を和らげた。
「それなら、私は準備を手伝うわ。あなたたちが無事に行って、そして必ず、この場所へ帰ってこられるように」
その言葉に、ルシアンは驚いたように言葉を失い、黙り込んだ。
やがて、ばつが悪そうにふいと視線を森の方角へと逸らした彼は、低く「好きにしろ」とだけ呟いた。
その立派な尾の先が、小さく揺れている。
言葉には出さずとも、ベルローズの深い理解と信頼が、彼の頑なな心を確かに救っていた。
その夜、セレスティアは西塔の自室の窓辺に一人で立ち、まだ見ぬ遥か北の夜空を想像していた。
森の境界線を越え、さらに険しく連なる山々の先。
そこには、父が生まれ、一族から異形として拒まれ、それでも確かにこの世に命を受けた、白く冷たい霊峰がある。
絶え間ない吹雪に閉ざされた剥き出しの尾根、蒼く鋭く凍てつく氷壁。
夜空の星々に最も近い、高い岩肌。
そして、父の一族が残した、傷跡のような記憶の数々。
想像するだけで、恐ろしくもある。
けれど同時に、どうしようもなく強く惹かれる、不思議な場所。
そこへ行くことは、単なる物珍しい外の世界への旅ではないだろう。
自分が何者なのかを、宿命を背負って生きる意味をもう少しだけ深く知る。
そのための、厳かな道になると、彼女は予感していた。
背後からは、古い城の内部に満ちる、いつもの愛おしい家族の気配が微かに伝わってくる。
ベルローズの放つ静謐で冷たい魔力の残滓。
ルシアンの低く重い、けれど何よりも大きな安心を与えてくれる、圧倒的な存在感。
ピピが慌ただしく荷造りを始め、金属製の道具同士が微かに擦れ合う、鈍い音が響いている。
温室の方では、アマンダが夜露を浴びる繊細な苗たちへ、優しく語りかけている。
柔らかな歌のような声が、風に乗って聞こえてきた。
このドラクロワ城が、唯一無二の帰る場所であること。
それは、これから先どんなに永い時間が流れようとも変わりはしない。
だからこそどんなに遠くへでも、どんなに過酷な場所へでも、恐れずに歩いていける。
いつでも自分を待ってくれる、温かい帰る場所があるから。
安心して、未開の冷たい地へと旅立つことができる。
セレスティアは窓硝子に薄く映る、自身の蒼い瞳をじっと見つめ、胸の奥まで深く、冷たい夜気を吸い込んだ。
初夏の夜風の中。
本来ならあるはずのない、ひやりとした、鋭く冷たい匂いが、ほんの微かに混じった気がした。
(雪の匂い――?)
まだ遠く、けれど確かに自分の血の奥深くへと繋がっている。
北の霊峰の、厳かな気配だった。
彼女はゆっくりと目を閉じ、間もなく始まる、父と行く静かな旅路へと思いを馳せるのだった。




