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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第7章:幻獣の故郷

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第51話:白き地への備え ―根を知る旅のはじまり―

「さらっと言うけどさ」


 当然、最初に現実的な問題へと切り込んだのはピピだった。


 彼は食器棚を離れて、大広間の中央へと戻ってくる。

 そして、広大な長机の端で腕を組んだ。

 精巧に切りそろえられた銀髪を不機嫌そうに揺らし、深く眉を寄せている。


「北方霊峰って、簡単に遠足気分で行けるような場所じゃないだろ。万年雪が積もる、文字通りの極寒地帯だよ?」


 ピピは細い指を一本ずつ折りながら続ける。


「食料の選定に防寒具の調達、野営の準備に、念のための回復薬。全部一から確認し直してリスト化しないと、話になんないよ」


 ピピはすでに、頭の中で必要物資を猛烈な速度で列挙しているらしい。

 指先が長机の乾いた木肌の上で、規則正しい、焦燥を含んだリズムを刻み始めていた。


 その口調は極めて辛辣で、不満げで。

 ルシアンのあまりにも突飛な提案に対する、明確な抗議の色が濃い。


 だが、大広間にいる誰もが知っていた。

 彼は決して、この旅そのものに反対しているわけではない。

 ピピが、どこへ行くにしても、出発前の準備を執拗なまでに重ねる理由。

 それは、恐怖や不安を徹底的に潰しておきたいからだ。


 自分の確かな技術と計算で、管理できる形へと変えるため。

 彼なりの、極めて不器用で真っ直ぐな、愛情表現そのものだった。


 セレスティアとルシアンがどれほど過酷な環境に置かれようとも。

 自分の用意した道具で、その身を守れるように。

 彼の頑なな矜持は、その一点に集約されていた。


「道だって尋常じゃなく険しいし、あの地域特有の凶暴な魔物だって……、まぁ、それは君が隣にいるなら大丈夫だろうけど、でもさ」


 ルシアンの圧倒的な実力は、ピピも痛いほど承知している。

 過去にその背中に守られたことも、その強大すぎる力を目の前で見せつけられたことも、数え切れないほどある。


 それでも、彼の精霊としての、そして城の管理責任者としてのプライドが邪魔をする。

 「二人のことが心配だよ」とは、口が裂けても言えなかった。

 ピピはやがて大きく息を吐き、灰色の瞳を澄ませてルシアンを見つめた。


「明日すぐ行くぞ! とか言わないでよ。……絶対時間をかけて、しっかり準備をしてから。それだけは約束してよ」


「……わかってる」


 アマンダは、そんなピピの余裕のない様子を眺め、穏やかに微笑んだ。

 そして、手元にある温かい薬草茶の入ったカップを、両手でそっと包み込んだまま、深い夜の静寂に溶け込むような声で言った。


「自らの根を知ることは、決して悪いことではありません。次に伸ばすべき枝の向きが、変わることがありますから」


 その温かな言葉に、セレスティアは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 自分の根、自分が生まれ育った土。

 人間の友人と出会い、あまりにも残酷な時間の流れの違いに直面して、立ちすくんだ今だからこそ。

 悠久の時を生き続ける、精霊としてのアマンダの言葉は、不思議な重みと説得力を持って彼女の心に響いた。


 自分が幻獣の血を引いているという事実から、ただ無知なままに目を背けて生きることはしたくない。

 冷たい土の記憶を知ることは、決して恐ろしいことばかりではないのだと、アマンダの琥珀色の瞳が告げていた。


 ベルローズはしばらくの間、深い沈黙を保っていた。

 彼女の深紅の瞳はじっと、正面の柱の影に佇むルシアンを見つめている。


 彼がいつも通り、平静を装っていることも。

 その頑なな態度の下で、自身の内奥に封印してきたはずの古い記憶の檻が、重苦しく軋みを上げていることも。

 彼の半身も同然であるベルローズには、すべて手に取るように分かっていた。


 だからこそ、安易に「行ってらっしゃい」とは、決して口にしない。

 ルシアンの忌まわしい過去に、真っ向から踏み込むこと。

 それは多感なセレスティアにとっても、そして彼自身にとっても、決して生易しい旅にはならないからだ。


「ルシアン」


 ベルローズがその名を呼ぶと、大広間の空気が張り詰める。


「本当に、いいのね」


 ルシアンは彼女を、視線を一切逃がさずに、真っ直ぐに見つめ返した。

 ベルローズには、そのサファイアブルーの瞳の奥に、親としての迷いや、かつての一族に対する、消えない痛みが見てとれる。

 だが、己の呪われた過去から卑屈に逃げようとする影は、彼のどこにも見当たらなかった。


「よくはねぇよ。必要なら行く。それだけだ」


 あまりにも、不器用な答えだった。

 それを聞いて、ベルローズはほんの少しだけ、美しい目元を和らげた。


「それなら、私は準備を手伝うわ。あなたたちが無事に行って、そして必ず、この場所へ帰ってこられるように」


 その言葉に、ルシアンは驚いたように言葉を失い、黙り込んだ。

 やがて、ばつが悪そうにふいと視線を森の方角へと逸らした彼は、低く「好きにしろ」とだけ呟いた。

 その立派な尾の先が、小さく揺れている。

 言葉には出さずとも、ベルローズの深い理解と信頼が、彼の頑なな心を確かに救っていた。


 その夜、セレスティアは西塔の自室の窓辺に一人で立ち、まだ見ぬ遥か北の夜空を想像していた。

 森の境界線を越え、さらに険しく連なる山々の先。

 そこには、父が生まれ、一族から異形として拒まれ、それでも確かにこの世に命を受けた、白く冷たい霊峰がある。


 絶え間ない吹雪に閉ざされた剥き出しの尾根、蒼く鋭く凍てつく氷壁。

 夜空の星々に最も近い、高い岩肌。

 そして、父の一族が残した、傷跡のような記憶の数々。


 想像するだけで、恐ろしくもある。

 けれど同時に、どうしようもなく強く惹かれる、不思議な場所。


 そこへ行くことは、単なる物珍しい外の世界への旅ではないだろう。

 自分が何者なのかを、宿命を背負って生きる意味をもう少しだけ深く知る。

 そのための、厳かな道になると、彼女は予感していた。


 背後からは、古い城の内部に満ちる、いつもの愛おしい家族の気配が微かに伝わってくる。

 ベルローズの放つ静謐で冷たい魔力の残滓。

 ルシアンの低く重い、けれど何よりも大きな安心を与えてくれる、圧倒的な存在感。


 ピピが慌ただしく荷造りを始め、金属製の道具同士が微かに擦れ合う、鈍い音が響いている。

 温室の方では、アマンダが夜露を浴びる繊細な苗たちへ、優しく語りかけている。

 柔らかな歌のような声が、風に乗って聞こえてきた。


 このドラクロワ城が、唯一無二の帰る場所であること。

 それは、これから先どんなに永い時間が流れようとも変わりはしない。


 だからこそどんなに遠くへでも、どんなに過酷な場所へでも、恐れずに歩いていける。

 いつでも自分を待ってくれる、温かい帰る場所があるから。

 安心して、未開の冷たい地へと旅立つことができる。


 セレスティアは窓硝子に薄く映る、自身の蒼い瞳をじっと見つめ、胸の奥まで深く、冷たい夜気を吸い込んだ。

 初夏の夜風の中。

 本来ならあるはずのない、ひやりとした、鋭く冷たい匂いが、ほんの微かに混じった気がした。


(雪の匂い――?)


 まだ遠く、けれど確かに自分の血の奥深くへと繋がっている。

 北の霊峰の、厳かな気配だった。

 彼女はゆっくりと目を閉じ、間もなく始まる、父と行く静かな旅路へと思いを馳せるのだった。


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