第50話:北へ向かう理由 ―知らない父を知る旅―
セレスティアが、夜の森を越えて帰ってきてから数日。
ドラクロワ城の日常は少しずつ、以前の穏やかな静けさを取り戻し始めていた。
庭には初夏の光が柔らかく降り注ぎ、薔薇の繊細な花弁を、薄紅色の陽光で縁取っている。
温室の最奥では、アマンダが祭りの日に植えた種が、湿った黒土の隙間から細く青白い芽を覗かせていた。
「よし、これで完璧」
ピピは先日まで乱れていた工具棚を、いつもの寸分違わぬ秩序へ、刃の向き一つまで完璧に戻し終えたところだ。
石の精霊としての絶対的な平穏が、ようやくそこに戻っていた。
セレスティアもまた、以前より少しだけ素直に、家族の傍へ身を寄せるようになっていた。
城の外へ出る時は、どんなに短い時間であっても、必ず行き先を告げるようになった。
帰ってくると、ピピやアマンダに採ってきた薬草の成果を見せたり、その日の森の様子を報告する。
「お母様。ここ、これで合ってる? ちょっとよくわからなくて」
「……そうね。この記述はすこし複雑なの」
ベルローズと共に、薄暗い図書室で古びた魔導書を読み解いては、母の指導を真っ直ぐに受けている。
彼女はずっと慎重に、己の魔力の状態を確かめるようになった。
ルシアンはそのすべての変化を、大広間の壁際や影の中から、ただ黙って見つめている。
娘が大人しくなったからといって、彼は決して安心できなかった。
セレスティアが、外の世界で知ってしまった痛みを、その胸の奥底でまだ誰にも言わずに抱え続けていること。
彼はそれを、獣の鋭い直感で正確に感じ取っているからだ。
その日の夕刻。
ドラクロワ城は、昼の熱を吸い尽くした、薄紫色の薄明に包まれようとしていた。
ルシアンは中庭の端、冷え切った石壁にその大きな背を預けまま、森の向こう、さらに遥か北の空をじっと見つめていた。
初夏へと移ろう禁忌の森は、湿った若葉と薔薇の、濃厚な香りに満ちているはずだ。
だというのに彼の鼻先には、本来そこにあるはずのない、凍てつく雪の匂いが微かに触れたような気がした。
北方の霊峰。
古の幻獣たちが厳かに棲んでいた、白く冷たい聖域。
そこは彼にとって、生まれた場所であり、同時に、一族から異形として忌まれた場所であり。
二度と、戻ることのなかった場所でもあった。
本来の獣の器では制御しきれないほど、あまりにも強大な魔力を抱えて生まれたルシアン。
その力を抑え込むための生存本能から、彼は幼くして人の姿へ変じるようになってしまった。
一族の者たちは彼を同胞としては見なさず、異質な呪われた器として、冷酷に扱った。
長であった父の視線すら、鋭く冷たかった。
母が、その身体を庇ってくれることもなかった。
郷愁などという生ぬるい感情は、一切ない。
懐かしいなどという、滑らかな言葉で覆えるほど、綺麗な記憶もありはしない。
それでも、あの冷え切った場所は確かに自分の根であり、血の始まりだった。
セレスティアは外の人間と出会い、流れる時間の決定的な違いに傷ついた。
大切な友を守りきれないかもしれないという、現実の恐怖を知った。
自分がまだ、親の見えない手に支えられている、未熟な存在だということも。
(なら、次にあいつに必要なのは――)
人間の短い時間を見つめることだけではない。
自分の中に永遠のように流れる、幻獣の血の冷たさを知ることだ。
ルシアンはそう考えていた。
娘には、森の外の温かな灯りだけでなく、北の冷たい剥き出しの雪も見せておくべきだ。
自分がどこから来て、何を失ったのか。
なぜ今こうして、このドラクロワ城で父として立っているのか。
それを言葉で整えて語るなど、彼にはあまりにも不可能に近い。
だが、あの景色なら見せられる。
あの肺まで凍るような、風の匂いなら嗅がせられる。
雪の非情な冷たさなら、彼女自身の足で踏ませることができるはずだ。
夕食後。
大広間の大きな長机には、いつもの面々が集まっていた。
ベルローズは温かな紅茶の入った白磁の器を前に、静かに座っている。
セレスティアは魔導書の写しを脇へ置いて、小さな羽根ペンで、懸命に羊皮紙に何かを書き込んでいる。
ピピは食器の配置を指先で微妙に調整し、どこか満足そうにその光を確かめる。
アマンダは、琥珀色の薬草茶から立ち上る、白い湯気を眺めていた。
ルシアンはしばらくの間、大広間の柱の影で腕を組んだまま黙っていた。
だがやがて重い腰を上げ、壁際から身を離して、低く口を開いた。
「セレスティア。俺と北に行くぞ」
あまりにも唐突な一言に、セレスティアの羽根ペンの筆先が、紙の上でぴたりと止まった。
インクの黒い雫が、羊皮紙へ小さく滲みを作る。
ピピは食器を棚へ戻す手を止め、アマンダもゆっくりと顔を上げる。
ベルローズは目を細め、ルシアンの無骨な横顔を見つめていた。
「北、っていうと……?」
セレスティアが耳を動かし、戸惑うように尋ねる。
「俺が産まれた霊峰だ」
その言葉が大広間の冷えた石の床へ落ちた瞬間。
空間の密度がわずかに重くなった気がした。
セレスティアは小さく息を呑み、父を見上げる。
その名は幼い頃から何度か、古い物語の端々として聞いたことがあった。
父が生まれ、古の幻獣たちが棲んでいた場所。
そして、王立魔導院の手によって壊されたとされる、遠い雪の聖域。
そこは彼女にとって、実体のない古い記憶の中にしか、存在しない場所だった。
けれど今、ルシアンはそれを、まるで明日の森の巡回先を告げるような、いつもの不愛想さで口にしている。
「お父様の、生まれた場所……?」
セレスティアが小さく呟くと、ルシアンはサファイアブルーの瞳を逸らした。
「別に懐かしみに行くわけじゃねぇぞ。綺麗なもんは何も残ってねぇからな」
言葉の響きは、どこまでも硬い。
だがその硬さの奥に、普段なら決して表に出さない過去の重みがある。
それを、セレスティアの耳は敏感に感じ取った。
ベルローズは静かに茶器をテーブルへと置き、深紅の瞳でルシアンを見つめた。
「……あなたが、自分からそこへ戻ると言うなんてね」
ルシアンは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「戻るってほどのもんじゃねぇ。あそこはもう、俺の帰る場所じゃない」
それは拒絶の色のない、明確な断言だった。
ベルローズには分かっていた。
ルシアンは己の過去を懐かしんでいるのではない。
自分が長い間背を向け、封印してきたはずの古い場所。
それを娘のために、もう一度だけ引きずり出そうとしているのだと。
「セレスティアに、見せておいた方がいいと思っただけだ」
ルシアンは長机に歩み寄り、低い声を重ねる。
「人間の村だけ見て、あーだこーだ考え込むくらいなら、自分の血の片側も見とけ。俺がどこから来たのか。お前がその身体に、何を継いでるのか」
「……お父様」
「まあ、見たからって、都合のいい答えが出るわけじゃねぇがな」
セレスティアは、すぐには返事が出来なかった。
胸の奥底に、冷たい不安と、抑えきれない淡い期待が同時に灯っていく。
父の故郷を見てみたい。
けれど、その場所が父にとって決して優しい記憶ばかりではないことも、その強張った横顔を見ていれば痛いほど分かった。
自分がそこへ足を踏み入れることで、父の古い傷へ無理に触れてしまうのではないかという恐れもあった。
だが同時に、そこは自分という存在の源流でもあるのだ。
自分の中に流れる蒼き幻獣の血が、どんなに過酷な雪と風の中で生まれたのか。
それを知りたいという思いが、彼女の胸の奥で膨らんでいった。
「……私、行きたい」
セレスティアは、膝に置いた手を握りしめ、はっきりと答えた。
ルシアンの尖った耳が、わずかに動く。
彼はそれ以上何も言わなかったが、広間に満ちた重い沈黙の中には、確かな肯定が宿っていた。




