第49話:ただいまの重さ ―許すより先に、待っていた―
玄関ホールには、ベルローズが静かに立っていた。
蒼く結晶化した左角の根元には、ルシアンから贈られたあの青い花飾りが、そっと留められている。
その深紅の瞳は、いつも通り美しく澄んでいた。
けれどその奥には、夜通し娘の気配を追い、眠れなかった者だけが持つ、微かな疲労の影が滲んでいる。
セレスティアは母の顔を見た瞬間、胸の奥にずっと溜め込んでいたものが、一気に込み上げてくるのを感じた。
「お母様……」
「お帰りなさい、セレスティア」
ベルローズは、ただそれだけを口にした。
激しい叱責も、細かい詰問もなかった。
ただ、無事に帰ってきた愛娘を迎える、いつもの、冷ややかだけれど温かい声だった。
セレスティアは堪えきれず、母のもとへ一歩ずつ歩み寄り、深く頭を下げる。
「ごめんなさい。何も言わずに出ていって……。それから、森で……、危ないところを助けてくれて、ありがとう」
ベルローズは、娘を真っすぐに見つめた。
セレスティアが何を指しているのか、今更聞き返す必要はない。
あの決定的な一瞬に森を染めた、紅と蒼の魔力を、あの子は確かに全身で感じ取ったのだ。
ベルローズはそっと細い手を伸ばし、セレスティアの風で乱れた髪を、指先で優しく整える。
「怪我がなくて、本当によかったわ」
その一言に、セレスティアは耳を伏せ、目元がじわりと熱くなる。
自分が許されたのか、まだ分からない。
けれど、髪を撫でる母の指先は、いつもと同じように優しかった。
「……お父様は?」
セレスティアが恐る恐る尋ねると、ベルローズの視線がわずかに、陽の差し込む中庭の方へと向いた。
実のところ、ルシアンはセレスティアがこの城門をくぐるより遥か前から、その帰還を誰よりも早く察知していた。
彼は遠くから娘の姿を確認し、怪我がないことも、その足取りがしっかりしていることも、己の嗅覚と気配の感知で十分に確かめていた。
だが、セレスティアが城内へ入り、顔を上げた時には、彼の姿はもうそこにはなかった。
何も言わず、誰とも目を合わせないまま、中庭の奥へと去ってしまったのだ。
セレスティアの耳が、再び不安げにしゅんと垂れる。
「……怒ってるんだよね。私、あんな勝手なことしたから」
ベルローズは一瞬だけ目を伏せ、それから首を横に振った。
「怒っているのではないわ。あの人は、感情の出し方が……、とても不器用なだけよ」
セレスティアは、弾かれたように顔を上げ、母を見上げた。
ベルローズは、娘の視線を受け止めながら続ける。
「ルシアンと、ちゃんと話してあげて。ずっと、あなたのことを心配していたから」
ベルローズの声は、どこまでも穏やかだった。
その言葉には、長い時間を共に隣で過ごしてきた者だけが知る、絶対的な確信がある。
「今もきっと、あなたが無事に帰ってきてくれて、とても嬉しいはずよ。ただ……、それをうまく言葉にできないだけなの」
その言葉に、セレスティアの胸が小さく痛む。
父が無言で去ったのは、自分を拒絶したからではないという。
そう思うと、恐ろしさよりも申し訳なさが勝った。
セレスティアは小さく頷き、父のいる中庭へと、一人で向かった。
中庭には、透き通った光が、冷たい石畳へ斜めに差し込んでいた。
薔薇の蔓が絡まる向こう側。
訓練場として使われている一角で、ルシアンは一人、木人を相手にしていた。
尖った耳は低く伏せられ、濃藍色の尾は苛立たしげに、大きく左右に揺れている。
訓練とは思えないほどの鋭さで、氷を纏った鋭い爪が空を切り、木人の頑丈な腕や肩へと正確に叩き込まれていく。
割れた鋭い木片が足元に激しく散り、彼の周囲の空気には、薄く蒼い魔力の残滓が陽炎のように漂っていた。
一見すれば、周囲を拒絶するような、激しい怒りを見せているようにも思える。
だが、セレスティアには、それが単純な怒りではないことが、今なら少しだけ理解できた。
彼は自分の中で処理しきれない行き場のない感情を、ただ激しい身体の動きへ逃がし、鎮めようとしているのだ。
「お父様……」
セレスティアが細い声で呼ぶと、ルシアンの動きがぴたりと止まった。
彼はすぐには振り返らない。
ただ、尖った大きな耳だけが、微かにこちらへと向けられた。
セレスティアは外套の下で両手を強く握りしめ、ここから逃げ出したい気持ちを必死に押し殺す。
「心配かけて、勝手に出ていって、本当にごめんなさい。……怒ってるよね」
ルシアンはしばらくの間、黙ったまま背中を向けていた。
沈黙が長くなればなるほど、セレスティアの胸は苦しく、押し潰されそうになる。
だがやがて、彼は喉の奥から重い息を吐き出した。
両手に宿していた蒼い魔力をかき消しながら、ゆっくりと腕を地面へ下ろす。
「……怒ってはいねぇよ」
低い声だった。
いつも通りぶっきらぼうで、どこか不機嫌そうですらある。
けれど、その声の底にある確かな温度を、セレスティアの耳は聞き取った。
ルシアンはようやく大きな身体を巡らせ、ゆっくりと彼女の方へ歩いてくる。
その影が近づくにつれ、セレスティアは思わず身を縮めた。
けれど次の瞬間、視界が陰ると同時に、大きな手が彼女の頭へ乱暴に置かれた。
冷たい魔力の残り香を感じる、ひやりとした父の手のひら。
ぐしゃぐしゃと髪をかき回すその仕草は雑で、少しだけ痛い。
だが、その手からは、確かで狂おしいほどの、安堵の熱が伝わってきた。
「けどな、心配はしたぞ」
短い言葉が、朝の静かな中庭へと静かに落ちる。
セレスティアの蒼い瞳に、堪えていた涙がじわりと滲み出した。
「……ごめんなさい」
「次は、勝手に飛び出したりしねぇで、まずちゃんと話せ」
その言葉は、親としての静かな叱責であり、同時に、娘への切実な願いでもあった。
ルシアンは娘の頭をもう一度だけ雑に撫でると、きまり悪そうに視線を逸らす。
「無事に帰ってきたなら、それでいい」
それだけを言い残して、彼は再び背を向け、割れた木片を片付けるように動き始めた。
セレスティアはその場に立ち尽くし、今さっきまで父の手があった自分の頭へと、そっと自身の小さな手を重ねた。
(許してくれたんだ……)
ようやく、自分が我が家へと帰ってきたのだという強い実感が、胸の奥底へ深く落ちていく。
ルシアンにとっては、許すも許さないも、最初からなかったのかもしれない。
ただ無事に帰ってきた。
それだけで、彼の中ではもう十分だったのだ。
中庭の影では、ベルローズがその様子を見守っていた。
後ろではピピが腕を組みながら、呆れたように息を吐き、アマンダはすべてを見届けて、穏やかに微笑んでいる。
セレスティアは、中庭に漂う薔薇の香りを、深く胸へと満たした。
外の世界には、時間の流れる速度の違いや、いつか訪れる別れの恐怖があった。
大切な人を、自分一人では守りきれないかもしれないという、大きな不安もある。
けれど自分には、この暗くも温かい、絶対に変わらない帰る場所がある。
どれほど間違えても、どれほど迷っても、叱られても。
いつでも戻ってこられる、絶対的なドラクロワの灯りがある。
その事実が彼女の胸の奥底に、永い時間を歩むための、決して消えない光となって灯るのだった。




