第48話:その手を知って ―守られるだけの子ではなく―
「……お父様と、お母様が、助けてくれたんだ」
小さく呟いた声には、安堵と悔しさ、そして深い反省が混ざっていた。
自分で答えを探しに来たつもりだった。
けれど、帰る場所から伸びる見えない手に、自分はまだ支えられている。
セレスティアはその事実を、恥ではなく、今は痛いほどありがたいものとして受け止めた。
エマを守るために戦ったことで、自分がどれほど守られてきたのかを、初めて身体で知ったのだ。
◆
ドラクロワ城の中庭では、ルシアンが森の方角を見つめたまま、低く息を吐いていた。
その横でベルローズが、自らの角に残る淡い紅の魔力を、指先で静かに鎮めている。
二人とも、何事もなかったような表情を装っている。
それでもあたりの空気には、確かな緊張の残滓があった。
「……手は出さねぇつもりだったんだがな」
ルシアンは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、腕を組みなおした。
彼の指先には、わずかに蒼い魔力の残り香が漂っている。
ベルローズは彼をちらりと見つめた後、静かに目を伏せた。
「あれは、手を出したうちには入らないわ。転びかけた子の足元の石を、少しだけ退けただけよ」
その言い方に、ルシアンは横目で彼女を見た。
ベルローズの声はいつも通り冷静だったが、その指先は微かに震えている。
彼女は、セレスティアを信じていたからこそ、黙って飛び出したことを受け入れていた。
けれど、危険が娘へ向かった瞬間、母としての魔力が先に動いてしまったのだ。
そして、それはルシアンも同じだった。
彼は牙を剥く代わりに、遠くから蒼炎を走らせた。
ただそれだけで済ませたのは、セレスティアに最後まで自分で立たせるためだった。
「……あいつ、気づいたな」
ルシアンが低く呟く。
「ええ。きっと」
ベルローズは、森の方角へ視線を向ける。
その深紅の瞳には、心配と、わずかな誇りが混ざっている。
「今は、それでいいのよ。……守られていることを知った上で、自分の足で立つことを覚えればいい」
朝の中庭に、薔薇の香りが静かに漂う。
遠い森では、セレスティアが友人を支えながら、きっとこちらへ帰る道を選び始めている。
ルシアンは、セレスティアの小さく軽い足音を拾うように耳を立て、風に耳を澄ませた。
今すぐ迎えに行きたい衝動は、消えていない。
娘が帰ってくるのを待つと決めたその選択は、ルシアンにとっては戦うことよりも、ずっと難しいことだ。
けれど今朝のセレスティアは、自分たちの手助けがあったとはいえ、もうただ守られるだけの子ではなかった。
最後まで、恐怖を感じながらも戦い続け、大切な友人を守り切ってみせた。
ルシアンは森の奥を見つめ、尾を一度だけ、大きく揺らした。
◆
セレスティアは、エマを薬師小屋まで送り届けてから、ひとりドラクロワ城へ続く馴染み深い道を歩いていた。
背後では、彼女を励ますように、大きく手を振ってくれていた。
エマは何度も繰り返し、魔物から救って貰った礼を言い、「ちゃんと謝れば大丈夫だよ」と声をかけてくれた。
だが、その無邪気な声が、木々の向こうへ完全に消えていくにつれ。
セレスティアの胸の奥には、再び冷たい緊張が、静かに満ち始める。
帰りたい――。
けれど、どんな顔をしてあの重厚な城門をくぐればいいのか、わからない。
夜中に、誰にも何も告げずに城を抜け出し、エマの家に泊まり。
翌朝には森の外縁で、分不相応な魔物と遭遇した。
そして、結局は自分の力では足りず、父と母の見えない手に助けられてしまった。
自分の足で立ちたいと願いながら。
自分がどれほど絶対的に守られていたのかを、思い知らされた。
その事実に対する未熟な痛みとありがたさが、彼女の歩幅をひどく慎重なものにしている。
城門が見えた時、セレスティアは思わず足を止めた。
薔薇に覆われた古い石壁は、いつもと何も変わらず、そこに佇んでいる。
芽吹き祭りの日には、この城を出て外の世界へ歩いていくことが、自分を少しだけ大人にしてくれる気がした。
だが今は、間違えて、迷って、それでも元の場所へ戻ってくることにも、相応の勇気がいるのだと、初めて知った。
セレスティアは外套の裾をぎゅっと握りしめ、深く息を吸ってから、一歩ずつ城門へ近づいていく。
最初に姿を見せたのは、ピピだった。
彼はいつものように、皺ひとつない衣服を身につけていた。
けれど、いつもは整えられているはずの銀髪の一部が、わずかに乱れている。
右手には、修繕用の小さな金槌を握りしめたままだ。
彼は城門をくぐったセレスティアを見るなり、安堵と叱責の入り混じった、複雑な顔をした。
けれど結局、それをすべて喉の奥へ飲み込むようにして、深い息を吐き出す。
「……お帰りなさい、セレスティア様。まずは、どこかに怪我がないか確認してもいいですか」
その声は、いつもより少しだけ硬く、張り詰めていた。
セレスティアは素直に頷き、両手をそっと広げる。
ピピは手早く、彼女の外套や袖口を確認した。
森での不慣れな戦闘で付いた小さな泥汚れや、草の擦れた傷。
それらを見つけるたび、ピピは眉間に深い皺を寄せている。
彼女に深い傷がないと分かると、ピピの肩から目に見えて、強張った力が抜けていった。
「本当に……。もう少し、自分がどれほど心配される立場なのかを、自覚した方がいいですよ」
続いて、緑の豊かな温室の方から、アマンダが現れた。
彼女は手にした小さな薬草籠を、愛おしそうに胸元へ抱えている。
セレスティアの顔を見たアマンダは、いつもの柔らかな表情で、優しく微笑んだ。
「おかえりなさい。森が急に落ち着きましたね。セレスティア様も、いつもの呼吸が戻ったみたい」
責める言葉は、一つもなかった。
けれどその底なしの穏やかさが、かえってセレスティアの胸に鋭く沁みていく。
彼女は唇を強く噛み、二人の前で深く頭を下げる。
「ピピ、アマンダ。……心配かけて、本当にごめんなさい」
ピピはなおも何か言いたげに、口を開きかけた。
けれど、隣のアマンダが琥珀色の目を細めるのを見ると、結局「後でたっぷりお説教ですからね」とだけ言って、視線を逸らす。
その態度の奥にある本物の安堵を、セレスティアはしっかりと感じ取っていた。
それと同時に、精霊たち以上に謝りたい相手がいることを、静かに見つめ直していた。




