第47話:遠く、それでも傍に ―見えない手に支えられて―
セレスティアはエマの数歩後ろに立ったまま、森の奥から流れてきた濁った魔力の匂いを、確かに感じ取っていた。
若葉の青い香り、湿った苔の匂い、朝の小川が運ぶ冷たい水気。
その全てに紛れ込むようにして、異質な気配が木々の奥から、じわじわと滲み出してくる。
普段なら鳥の声や小動物の気配で満ちているはずの森は、不自然なほど静まり返っていた。
「……エマ、動かないで」
セレスティアは反射的にエマの腕を掴み、低い声で告げた。
エマは戸惑いながら振り返るが、その表情に、まだ恐怖はない。
彼女には、森が急に息を殺したことも、空気の底に混ざる歪な魔力の濁りもわからない。
ただ、セレスティアの掴む手の強さと、その蒼い瞳に宿る異様な緊張。
エマは尋常ではない気配を感じ取って、小さく息を呑んだ。
セレスティアはエマを背後へ下がらせ、必死に自らの呼吸を整えた。
昨日まで自分は、友人がいつか老いていくことを、遠い未来の時間を恐れていた。
けれど今、目の前にある恐怖はもっと単純で、もっと差し迫っている。
(エマが今ここで、傷つくかもしれない)
自分の後ろにいる、戦う術を持たない友人を、守らなければならない。
その理解が胸へ落ちたとき。
セレスティアの中で、ここ数日の迷いや寂しさは、一時的に心の奥底へ押し込まれた。
彼女の尾が緊張を帯びて揺れ、耳が森の奥へ鋭く向けられる。
木々の隙間から姿を現したのは、森の深層に棲むはずの魔物だった。
鹿に似た細長い四肢を持ちながら、その背には黒い棘のような結晶がいくつも突き出ている。
頭部には獣とも鳥ともつかない、歪な骨の仮面を被ったような輪郭があった。
口元からは濁った魔力が霧のように漏れ、踏みしめた場所の若草が、瞬く間に黒ずんでいく。
本来なら、人の住む村の近くまで出てくるはずのない異形だ。
セレスティアはそれを見て、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
訓練で、似た気配を想定したことはある。
父を追い、母に魔力の制御を叩き込まれ、ピピの石人形を相手に立ち回ったこともある。
だが、背後にエマがいるだけで。
空間の重さも、流れる時間の速度も、全てが違っていた。
最初の一撃を避けること自体はできた。
魔物が地面を蹴るより早く、セレスティアは風の流れを読み、エマを庇うように横へ跳ぶ。
星の魔力が彼女の足元から淡く広がり、周囲の草木に宿る力を結び直して、足場を安定させる。
魔物の爪が空を裂き、湿った土を深く抉った。
エマが息を呑む気配が、背後で震える。
「下がって! あの大きな根の向こうへ!」
セレスティアは、振り返らず告げる。
声は彼女が想定したよりも、ずっと落ち着いていた。
それでも、エマが自分の指示通りに動いてくれるまでの数秒が、永遠のように長く感じられた。
セレスティアの魔法は、父や母のように相手を圧倒し、ねじ伏せるのにはあまり向いていない。
彼女の力は、乱れた流れを整え、誰かの力を結び、支えることに特化している。
それゆえ彼女は、森の根と蔓へ魔力を通し、魔物の足取りを鈍らせようとした。
黒く濁った魔力に侵された地面へ、星の光を流す。
周囲の植物が息を吹き返すように、青白く輝いた。
蔓が魔物の脚へ絡みつき、苔むした地面がわずかに沈む。
魔物の動きが鈍った隙に、セレスティアは鋭く息を吸い、光の糸を放った。
攻撃というより、相手の歪んだ魔力の結び目を断ち切るための一撃だった。
魔物の肩に当たった光が、黒い霧を散らし、異形が苦しげに身を捩る。
だが、魔物が自分ではなく、根の陰に隠れたエマの方へ意識を向けた一瞬。
セレスティアは、判断を誤った。
異形は長い脚をしならせ、エマを庇うために前へ出たセレスティアへと跳んだ。
(……しまった)
セレスティアの胸が凍る。
この一撃は、避けられない。
戦えない誰かを背負うということは、自分の動きだけで戦場を測れないということなのだと、遅れて理解が襲ってくる。
「エマ、伏せて!」
セレスティアは叫び、全身の魔力を絞るように放った。
足元から星の光が広がり、空気の流れが歪む。
けれど、間に合わない。
魔物の爪が、セレスティアに向けて振り下ろされる。
その瞬間、森の奥で何かが変わった。
セレスティアの魔力とは違う。
もっと深く、もっと冷たく。
そしてあまりにも馴染み深い、懐かしい気配。
地面から、黒薔薇の棘のような影が一瞬だけ伸び、魔物の前脚を絡め取る。
同時に、蒼い火の気配が風のように走り、魔物の爪先を凍てつく炎で弾いた。
ほとんど音すら立てず、ただ、ほんの一瞬だけ。
紅と蒼の魔力が、森の空気を鮮やかに染めた。
セレスティアは息を呑んだ。
二人がそこに見えたわけではない。どこにも姿はない。
だが、肌に触れる魔力の質が、それが誰のものであるかを正確に告げていた。
あの紅は、薔薇の香りを帯びた、冷たく精密な魔女の力。
そしてあの蒼は、霊峰の夜と蒼炎を宿した、荒々しくも確かな守護の熱。
二つの力は、セレスティアの戦いを奪うことなく、ただ致命的な一撃だけを逸らした。
まるで、遠い場所から伸びた手が、転びかけた子の背をほんの少し支えたように。
その支えを感じ取った瞬間、セレスティアの中で何かが定まった。
一人でここへ来て、誰にも頼らず、自分の揺らぎを確かめているつもりでいた。
本当は、ずっと見守られていたのだ。
追いかけてはこない、怒鳴って連れ戻しもしない。
それでも、見捨てられていたわけではなかった。
その事実が、胸の奥へ深く染み込む。
セレスティアは、ぐっと唇を噛んだ。
涙が零れそうになるのを堪えながら、もう一度魔物へ向き直る。
(……私は、一人じゃない)
今度は、決して攻めすぎない。
エマを背に置いたまま、セレスティアは自分の魔力を広げる。
倒すためではなく、守るために。
星の魔力が森の根、苔、若草、小川の湿り気へと薄く繋がっていく。
魔物の動きを縛り、エマの周囲に防護の光を重ね、歪んだ魔力の流れを断ち切る場所を探る。
ベルローズ譲りの精密な制御と、ルシアン譲りの野性的な察知。
それが、彼女の中で初めて実戦の形を取っていく。
魔物が再び跳ぶ。
セレスティアは耳で風の切れ目を拾い、尾で重心を変え、魔物の進路へ光の糸を張った。
異形の脚が絡め取られ、黒い霧が弾ける。
そこへ、彼女は残る魔力を一点へ集めた。
母に教わったように乱れを見極め、父に鍛えられた反応で踏み込む。
星の光が、魔物の胸元にある濁った魔力の核を、真っ直ぐに貫く。
異形は声にならない震えを漏らし、崩れるように膝を折った。
黒い霧と化した魔物は朝の光へ溶け、周囲の草がゆっくりと、本来の色を取り戻していった。
セレスティアはその場に立ち尽くし、荒くなった呼吸を必死に抑えた。
エマが根の影から、身体を小さく震わせながら出てくる。
怪我はない。
セレスティアは、全身から力が抜けそうになるのを堪え、震える手でエマの肩を確かめた。
「ごめん、エマ。怖かったよね」
エマは青ざめながらも、大きく首を横に振る。
「ううん、平気だよ。セレスティアが守ってくれたでしょ……?」
その純粋な言葉に、セレスティアの胸が痛む。
確かに守った。守ったけれど――。
自分一人では、絶対に守りきれなかった。
あの一瞬、父と母が遠くから助けてくれなければ、自分は倒れていたかもしれない。
エマも、傷ついていたかもしれない。
彼女は森の奥、ドラクロワ城のある方角へ、静かに顔を向けた。
朝の光の中に、紅と蒼の気配は、もう残っていない。
それでも二人が、ずっと自分を見ていてくれたことを、彼女は確かに感じていた。




