第46話:許される場所 ―帰る前に、守るもの―
夜更けを過ぎ、薬師小屋の二階にある小さな客間には、柔らかな空気が満ちていた。
低い天井を支える古い梁には、長年この家で焚き込まれてきた薪の煙の匂いが、深く染み込んでいる。
壁際へと寄せられた小さな木製寝台には、洗い立ての麻布特有の乾いた清々しい質感が残っている。
セレスティアは、借りた寝台の上へと横になったままだ。
彼女は訪れることのない眠りの中で、ただ天井の木目をじっと見つめ続けていた。
最初にこの小屋の扉へと駆け込んできた時。
自分の胸を占めていたのは、ひどい焦燥と混乱。
それから、何者かに突き動かされるような、説明のできない強い衝動だけだった。
人間たちの営む、あの小さな灯りの近くへと行きたかった。
エマのいる場所へ、一刻も早く辿り着きたかった。
それだけだった。
そのはずなのに、暖炉の確かな熱に包まれ、温かな根菜のスープを飲み干し。
エマと並んで、他愛のない世間話を交わしているうちに。
あれほど張り詰めていた負の感情は少しずつ、静まり返っていった。
そして、胸の奥が静かになった今。
自分がしでかしてしまったことの途方もない重大さを、ようやく理解し始めていた。
ドラクロワ城を、誰にも、何も告げずに飛び出してしまった。
しかも、よりにもよって、あれほど心配性で不器用な父と、冷徹でありながら自分を気遣ってくれる母を残したままで。
脳裏に浮かぶのは、自分が少しでも城の敷地から出ようとするたびに「遠くへ行くな」と不機嫌そうに眉を寄せていた、ルシアンの厳格な顔だった。
森の浅い場所へ薬草を採りに向かうだけでも、彼は必ず言葉少なに、けれど最後まで、娘の小さな背中をその瞳で見送る。
ベルローズもまた、普段は何も言わないようでいて、出がけの外套の留め具が少しでも甘ければ、その細い指先でそっと直してくれた。
風が冷え込めば「持っていきなさい」と、厚手の布を無造作に持たせてくれる。
ピピは、セレスティアに持たせる小さな道具袋の中身を、何度も何度もひっくり返して確認してくれる。
アマンダは帰り道で足元が滑りやすい日陰の場所を、慈しむような声で、事前に教えてくれていた。
彼らはずっと、自分という存在を、あの暗い城の中で大切に、大切に守り続けてくれる。
その確かな事実を思い返せば返すほど、セレスティアの耳は、情けないほどにしゅんと垂れ下がっていく。
彼女は寝台の上で小さく身体を丸め、使い込まれた毛布を、ぎゅっと胸元へ抱き寄せた。
「……私、なんてことしちゃったんだろ……」
ぽつりと零れ落ちた声は、夜の静かな部屋の空気の中へと、誰に届くこともなく小さく沈んでいった。
隣の簡素な寝台から、衣擦れの音が微かに聞こえた。
まだ起きていたらしいエマが、薄い毛布の中からそっと顔を覗かせる。
暖炉の残り火が小さく燃え、彼女の柔らかな栗色の髪へ、赤い光が淡く差し込んで陰影を作っていた。
「セレスティア?」
「……お父様も、お母様も、きっとすごく怒ってるよね。私、ちゃんと考えないで、飛び出してきちゃった」
喉の奥がじわりと熱くなり、言葉の最後が少しだけ震える。
今すぐあの懐かしい城へ戻りたいという、強い気持ち。
けれどまだ、胸の奥底に残っている、整理しきれない時間の流れへの寂しさ。
それらが奇妙に混ざり合い、セレスティア自身、自分の感情をどう扱えばいいのか分からなくなっていた。
エマはそんな彼女の横顔をしばらくの間、静かに見つめていたが、やがて温かく笑った。
「大丈夫だよ」
その言葉は、悩みを抱えるセレスティアに対して、驚くほど軽やかで、不思議な確信に満ちていた。
「セレスティアのお父さんとお母さんって、ちょっと厳しいけど……。でも絶対、セレスティアのこと、大好きだと思うな」
「……そう、かな」
「そうだよ。だってこの前だって、私が薬草採りに誘うだけで、お父さん、後ろからずっと怖い顔で気にしてたじゃない。お母さんだって、セレスティアが楽しそうに話してる時、ちょっとだけお顔が柔らかくなるもの」
エマは何気なく、いつもの調子でそう言った。
彼女はごく自然に、城に満ちていた家族の愛情の本質を見抜いている。
人間らしい、瑞々しい感覚だった。
「ちゃんと帰って、ごめんなさいって謝れば、絶対大丈夫! 許してくれるよ」
その真っ直ぐな言葉に、セレスティアの胸の奥で強張っていた冷たい塊が、ゆっくりとほどけていく。
自分がどんな過ちを犯しても、あの城に帰ってもいいのだと。
他者の口から改めて告げられることが、これほどまでに心を安らげるものだとは、思わなかった。
セレスティアは毛布へ顔を半分ほど埋めながら、小さく、何度も頷いた。
「……帰ったら、ちゃんと謝る。お父様にも、お母様にも。ピピやアマンダにも」
「うん、それがいいよ。じゃあ、もう寝よう? 明日は朝から薬草採りだよ」
エマは満足そうに微笑むと、再び毛布の奥へと潜り込んだ。
部屋に漂う、薬草の青い香りと、薪が燃え尽きた後の柔らかな灰の匂い。
人間たちの暮らしの素朴な熱が残る、小さな家の空気は、冷ややかで重厚なドラクロワ城とは、全く違う質感だ。
それでも今のセレスティアには、不思議と深い安心感を与えてくれていた。
やがてセレスティアも、ゆっくりと瞼を閉じる。
その意識が心地よい眠りへと沈み込んでいく寸前。
彼女の脳裏には、父と母の並び立つ姿が、鮮明に浮かんでいた。
翌朝、空はまだ淡い乳白色の靄を帯びていた。
周囲の森には、たっぷりと朝露を含んだ冷たい空気が、薄く漂っている。
セレスティアはエマと並んで、薬師小屋の裏手から続く、踏み固められた細い獣道を歩いていた。
昨夜の胸の内の混乱が、完全に消え去ったわけではない。
それでも彼女の胸の奥には、昨日までにはなかった静かな落ち着きが、少しずつ戻り始めていた。
城へ帰ろう。そして、自分の我が儘をちゃんと謝ろう。
そう、素直に思えるようになっていた。
朝の森は、まだ目覚めたばかりの静かな呼吸に満ちていた。
若葉から滴る青い香り、湿った苔の濃厚な匂い。
遠くの岩肌を小川が滑り落ちていく、澄んだ水音が、耳の奥へと心地よく響く。
エマは、小さな籠を片手に提げて歩いている。
彼女は今日摘む予定のいくつかの薬草について、楽しげに、歌うような調子で話していた。
「朝のほうがね、葉っぱの水気が多くて新鮮だから、薬にした時の香りも強く残るんだよ。だから、少し眠いけど、この時間の採取が一番いいの」
セレスティアは、隣を歩くエマの横顔を見つめ、小さく微笑んだ。
昨日まで彼女の胸を締め付けていた、いつか失われてしまう、脆い存在としてのエマではない。
今こうして目の前で懸命に生きて、笑いかけてくれる。
かけがえのない大切な友人として、彼女を真っ直ぐに見られるようになっていた。
その時だった。
不意にセレスティアの漆黒の耳が、ぴくりと鋭く、天を突くように跳ね上がる。
風向きが、急激に変わった。
森の奥深くから流れてきた冷たい空気の底に、濁って澱んだ魔力の匂いが混じっている。
同時に、それまで頭上の梢で賑やかに鳴き交わしていた小鳥たちの羽ばたきと声が、不自然なほどぴたりと途切れた。
セレスティアは本能的な恐怖に突き動かされ、その場に足を止めた。
蒼い瞳を細め、視線を森の深部へと鋭く向ける。
湿った木々が重なり合う影、そのさらに奥。
何かが、確実にいる。
本来この森の外縁部、人間の村の近くへと出てくるはずのないもの。
森の最深層、魔力の濃い場所にしか棲まないはずの、狂った魔力を帯びた、異形の存在の気配だった。
エマはまだ、周囲の異変に気づいていない。
足元の草花に目を向け、薬草の話を無邪気に続けながら、数歩先をのんびりと歩いている。
セレスティアの背筋を、氷水を流し込まれたかのような冷たい緊張が、激しく走り抜けていった。




