第45話:帰る場所の灯り ―ひとりで歩いても、ひとりじゃない―
ルシアンはセレスティアの気配を五感で追いながら、喉の奥から低く、重い息を吐き出した。
自分の中の野生の獣は、今すぐにでもその強靭な四肢で湿った大地を蹴り、漆黒の森を疾風のごとく駆け抜けろと、激しく命じている。
娘の小さな身体を優しく咥えて、あらゆる外敵から隔離された安全な我が家へと、今すぐ引きずり戻せと。
剥き出しの本能が、脳裏で叫んでいる。
けれど、父としての確かな理性が、その強烈な衝動を、必死に石畳へと縛り付けていた。
娘が生まれて初めて抱えた、人間に流れる時間との差という名の、鋭い痛み。
それは幻獣の鋭い牙をもってしても、噛み砕けないだろう。
彼の放つ傲慢な蒼炎で、すべてを塵に焼き払えるものでもない。
彼女自身が自分の足で歩き、迷い、傷つきながらも、誰かの営む灯りの近くまで歩いていくこと。
そうすることでしか、触れることのできない種類の問いだ。
しばらくして。
静まり返った中庭へ、漆黒の外套を、その華奢な肩に掛けたベルローズが、音もなく姿を現した。
蒼く結晶化した、左側の角の根元。
祭りの日にルシアンから贈られた、あの小さな青い花飾りが、淡い月光を受けている。
黒檀の硬質な輝きと磨かれた蒼石は、彼女の長い黒髪の闇に沈みつつも、その存在を確かに主張していた。
彼女は中庭の冷え切った石畳を、掬ったドレスの裾を微かに揺らして歩んでくる。
そして、ルシアンのすぐ傍へと、躊躇いなく腰を下ろした。
「……なんだよ」
ルシアンは一瞬だけ、そのサファイアの瞳を横へと動かして、彼女を見た。
だが、すぐにまた、娘の歩んでいる森の方へと鋭い視線を戻す。
ベルローズはその無骨な横顔を眺め、小さく、優しく息を吐き出した。
「……あなたを、慰めに来たのだけれど」
彼女は、夜の静寂に溶け込むような低い声で言った。
「私も、あの静まり返った部屋でじっとしているのが……、どうしようもなく、落ち着かなかっただけかもしれないわね」
ルシアンは何も答えない。
ただ、地を払うように置かれた長い尾の先だけが、彼女の言葉を肯定するように動いた。
ベルローズはその重い沈黙を、心地よく許した。
そして彼の蒼い毛並みへと、そっと自身の白い手を沈める。
夜露をたっぷりと吸った外側の毛は、ひやりと冷たかった。
だがその奥には、幻獣としての、驚くほど高く確かな体温が脈打っている。
指を深く通すたび、その密やかな熱が手のひらを通じて、彼女の身体へと移る。
それが彼女の胸の奥底に巣食っていた、冷たい不安の塊を少しずつ、優しく溶かしていく。
ベルローズは、ルシアンの柔らかな毛並みを何度も撫でながら、セレスティアのことを深く考えていた。
自分の娘は、あの境界線の外の世界を知ってしまった。
人間の持つ素朴な温かさを知った。
そして同時に、人間の時間が、自分たち長命種とは全く違う恐ろしい速度で進み、いつかは呆気なく消え去っていくことに気づき始めている。
その痛みは、少女時代のベルローズが知っていた凍りつくような孤独とは、少しだけ毛色が違っていた。
自分は、王都の人間たちに都合よく利用され、異形として忌避され。
拒まれることで、孤独の深淵を知った。
けれど、セレスティアが今感じているのは、他者からの拒絶への恐怖とは違う。
自分が愛した相手が、大切に想う存在が。
いつか自分を置いて、季節の移り変わりのように、遠くへ変わっていってしまうことへの恐怖なのだ。
どちらの痛みが軽いわけでも、浅いわけでもない。
だが、少なくともあの子には、かつての自分とは決定的な違いがあった。
あの子には、どれほど迷い、どれほど傷つこうとも、いつでも自分を待ってくれている、帰る場所がある。
他者に傷つけられ、悩み疲れ果てた時に、いつでも戻ってこられる絶対的な安全圏が、ここに存在する。
果てしない孤独の中に生きてきたベルローズ自身には、長い間持つことのできなかったもの。
何よりも尊い、頑丈な盾だった。
彼女は無意識のうちに、自らの左側の角へと、細い指を伸ばした。
隣にいるルシアンとの魔力の共鳴を経て、夜明けの空のように青く澄んだ、美しい結晶を宿している。
そこへ触れるたび、彼女は深く思い知らされる。
自分がもう、この広大な世界にたった一人ではないのだと。
孤独な魔女だった自分の傍らには、いつだって、この不器用で誇り高い獣が、牙を剥いて立っていてくれる。
自分たちの間に生まれたセレスティアは、母である彼女の精密な魔力制御と、父である彼の獣じみた鋭い直感のすべてを受け継いだ子だ。
これから先、外の世界で傷つかないわけがない。
人間との違いに、迷わないわけもない。
だが、ただそれだけで呆気なく壊れてしまうほど、彼らの血は脆い子を育んではいないはずだった。
ルシアンがふと、大きな耳を鋭く森の奥へと向けた。
はるか彼方の人間たちの村の方角から、夜風に乗って、ほんの微かな変化が流れてきたのだろう。
セレスティアが、無事にあの小さな薬師小屋へと辿り着き、人間の営む温かな灯りの中へと、優しく迎え入れられた気配。
さらに、彼女の星の魔力の乱れが、エマの差し出したスープの温もりと安堵によって、静かに収束していく感覚。
それを肌で感じ取ったルシアンの、それまで頑なに張っていた巨躯の緊張が、ほんのわずかに、氷が解けるように緩んだ。
ベルローズはその微細な変化を、誰よりも早く、隣で感じ取る。
彼女は毛並みを撫でる手を止めないまま、愛おしそうに微笑んだ。
「大丈夫よ、ルシアン」
その声は、夜の庭園の深い闇へと溶け込んでいくほど、柔らかく、確信に満ちていた。
「あの子は、……私と、あなたの子だもの」
ルシアンはゆっくりと大きな首を巡らせ、ベルローズの白い顔を見つめた。
そのサファイアブルーの瞳には、まだ親としての消え去らない心配が、濁って残っている。
だがそこには同時に、彼女の言葉に対する深い信頼の色も、確かに宿っていた。
ベルローズはその強い瞳を、正面からしっかりと受け止める。
あの子はこれからも、人間たちの営みの中で何度も傷つくだろう。
人間の時間の短さに、これから何度も戸惑い、涙を流すだろう。
けれどそのたびに、自分が帰るべきこの城を、自分を待つ家族を思い出せるなら。
あの子は必ず、また前を向いて歩き出せる。
孤独を知ることと、孤独の闇に呑まれてしまうことは、全く違う。
セレスティアにはまだその違いを、この永い時間の中でゆっくりと学ぶための、十分な猶予があった。
庭園を、冷たい夜風が優しく吹き抜ける。
夜露に濡れた薔薇の花弁が風に煽られ、静かに揺れた。
遠く離れた村では、大切な娘が、人間の友人の家の温かな灯りに包まれている。
静まり返った城の内部では、ピピが何度目かの工具整理をようやく諦めて、浅い眠りについていた。
アマンダは温室の黒土へ、少女の無事を祈るように魔力を巡らせている。
そしてこの暗い中庭には、夜に溶けるような幻獣と、その美しい毛並みにそっと手を埋める魔女が、寄り添いながら、同じ森の方角を見つめている。
ルシアンはなおも森の奥を睨みつけていたが、その尾はもう、不安げには揺れていなかった。
ベルローズはそんな幻獣の毛並みを撫でながら、薔薇の茂みの向こうへ視線を向ける。
あの子はきっと、帰ってくる。
傷ついても、迷っても、自分で選んだ道を歩きながら。
夜の庭園には、誰も言葉にしない確かな安堵だけが満ちていた。




