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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第6章:時の外側で

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第44話:見守る者たち ―追わないことも、愛だから―

 セレスティアが外套の裾を翻し、夜の森へとその身を躍らせた後。

 ドラクロワ城には、いつものと同じ静けさが戻っているはずだった。


 けれど、その夜の静寂はどこか薄い。

 触れればたちまち破れてしまいそうな、張り詰めた緊張を孕んでいた。


 いつもなら城のどこかで確かに聞こえる、セレスティアの弾むような軽い足音がない。

 無邪気に誰かの名を呼ぶ、愛らしい声も聞こえない。

 ただそれだけのことだ。

 だというのに、広大な古城は急に奥行きを失い、ひどく冷えた空洞のように感じられた。


 セレスティアは、道に迷ってはいない。

 禁忌の森の獰猛な魔物に、襲われているわけでもない。


 彼女がただ一つの目的を持って、あの薬師の少女の家へ向かっている。

 城にいる者たちは皆、それを正確に把握していた。

 だが、分かっているということと、心が落ち着くということは、全くの別問題だった。


 ピピは薄暗い工房で、木工道具の整頓をしていた。

 祭りで手に入れたばかりの新しい鑿(のみ)や、小振りの精巧な鉋(かんな)を、用途ごとに引き出しへ並べ直している。


 普段の彼であれば、道具の配置は寸分の狂いもない。

 棚の上へ置かれる順番ひとつ、刃の向きひとつにも、一切の揺らぎはないはずだった。

 緻密な配列こそが、彼の精神の安定だ。


「……またやっちゃった」


 だがこの夜に限って、彼は同じ鑿の刃を何度も磨いてしまった。

 すでに確認したはずの木箱の留め具を、手に取っては外している。

 手元に落ちるランプの灯りが、引き出しの角を、不自然に長く伸ばしていた。


 やがて彼は珍しく、小さく舌打ちをして、工具を乱暴に置いた。

 磨きすぎた鋼の刃が、冷たい光を放って、持ち主を見つめ返している。


「……まったく。セレスティア様も、本当に困ったものだよ」


 ピピは溜息をつき、独り言のように呟く。

 その声には叱責よりも、隠しきれない心配が色濃く滲み出ていた。


 彼はセレスティアがもう、ただ無知に守られるだけの幼い子供ではないことを、十分に理解している。

 森の歩き方も、気配の読み方も、過酷な自然の中で生き抜くための判断力も。

 彼女は確実に身につけ始めている。


 それでも、生まれた時からこの城で、その小さな成長をずっと見守ってきた。

 そんな少女が、独りで夜の森へ出ていったということ。

 それは、彼の頑なな内側にまで、無視できない亀裂を刻んでいた。

 引き出しの奥で、整然と並ぶはずの道具たちが、彼の動揺に呼応するように微かに震え、鈍い擦れ音を立てていた。


 温室ではアマンダが、夜露を含んだ苗たちの様子をじっと観察していた。

 植物たちは、夜の深い静けさの中で、土の湿り気を吸いながらゆっくりと呼吸をしている。

 祭りの日に買い求め、大切に植え替えたばかりの種の鉢も、温室の最奥でひっそりと眠りについていた。


 けれど、今夜のアマンダの周囲では、いくつかの青い蔓が、必要以上に不自然に伸びている。

 開きかけた花弁も、何かに怯えるように閉じる。

 温室全体が、不安定な揺らぎを見せていた。


 植物の葉が擦れ合う、小さく乾いた音が、湿度に満ちた空気の中を漂う。

 アマンダはそれを静かに眺め、柔らかな琥珀色の瞳を伏せる。


「森が少しだけ、ざわついていますね」


 誰に聞かせるでもなく、吐息のように呟く。


 セレスティアの胸の中で渦巻く、行き場のない感情。

 それは彼女が生まれ持つ、まだ幼くも強大な星の魔力を通して、禁忌の森の浅い層へと、微かな波紋を広げていた。

 植物たちは繊細な動揺を、敏感に感じ取っているのだ。


 アマンダはその歪みを、自らの魔力で強引に鎮めようとはしない。

 ただ、温室の湿った黒土へと、自身の細い指を深く沈める。

 地中に広がる無数の菌糸を通じて、少女が歩む夜の森の道を、遠くからそっと包み込むようにして、見守り続けていた。


 アマンダにとっても、セレスティアは尊き主の娘。

 長い時間を共に暮らしてきた、愛おしい小さな命そのものだった。

 心配ではないはずがない。


 けれど、大地に深く根を張る植物がある日、自らの意志で、陽の射す方へとその細い茎を伸ばすこと。

 それを他者が力ずくで止めることなど、決してできないのだと、彼女は知っている。

 湿った土の奥で、アマンダの魔力は、少女の足元を硬く支えるように広がっていった。


 そしてルシアンは、人の姿を脱ぎ捨てて、中庭へと出ていた。

 回廊から続く、冷え切った石段の下。

 夜露を纏って黒く濡れた薔薇が、不気味に揺れる庭の中央。

 圧倒的な質量を持った幻獣の影が、低く横たわっている。


 その蒼く美しい毛並みは、雲間から漏れる細い月光を受けて、夜の水面のように雄々しく波打っている。

 サファイアブルーの瞳は、夜の闇を鋭く射抜くように細められ、じっと森の奥深くの一点を見つめていた。


 彼は、セレスティアが今どこを歩いているのか、はっきりとわかっていた。

 彼女の不慣れな足取り、衣服の擦れるかすかな音。

 焦燥による呼吸の乱れも、村へ向かう正確な道筋も。

 すべては夜風に混じる、愛娘の特有の匂いとして、その鋭敏な嗅覚で捉えている。


 だがそれでも、あえて人間の姿を捨て、獣の身体を選んだ。

 人の姿のままでは、理性で自分を抑え込み、平静を保ってしまうだろう。

 今の彼はそれを取り払い、自身の嗅覚も聴覚も、そして魔力の感知能力をも、限界まで鋭く研ぎ澄ませていたかった。


 娘を追わないと決めた。

 無理に連れ戻すべきではないと、彼自身が、誰より理解していた。

 だからこそ、せめてその命の気配だけは、一瞬たりとも、世界のどこへ行こうとも手放したくはない。


 彼は大きな鼻先を天へと上げると目を閉じ、湿った夜気を深く、肺の奥まで吸い込んだ。

 夜の森の匂いは、ひどく複雑だった。


 冷えた土の匂い、若葉の青さ。

 薔薇の濃厚な甘み、夜行性の小動物たちの気配。

 そして遠くの村から微かに流れてくる、薪の燃える煙の匂い。


 その雑多な情報の濁流の中に、セレスティアの星の魔力が、ごく細い糸のように混じり合っている。

 外敵に対する怯えや、引き裂かれるような悲しみは感じ取れない。


 ただ、まだ明確な言葉になる前の、やり場のない寂しさ。

 そして、自分の目で何かを確かめたいという切実な衝動が、夜の空気の中で揺れていた。

 ルシアンはその気配を、自身の大きな身体の内に、じっと引き受ける。


 傷つき、追われ、肉親のぬくもりなど知らなかった。

 そんな自分に、父親という役割を与えたのは、あの小さかった娘だ。


 今、彼女が直面しているのは、いつか訪れる人間との時間の乖離。

 長命種ゆえの、孤独の始まり。

 それは彼自身がとうの昔に通り過ぎ、あるいは無意識に無視してきた、世界の冷徹な真理でもあった。


 ルシアンの背の毛並みが、夜風に煽られて激しく揺れる。

 彼はただ、自らの魔力を、森の気配の奥底へと密かに沈み込ませる。


 もし万が一、あの灯りの消えかけた村の周囲で、娘に害をなそうとする影がほんのわずかでも動けば。

 その瞬間にすべてを焼き尽くすための、静かで、苛烈な執念。


 ルシアンは尾を短く揺らし、娘の光の気配を、自身の意識の最深部で抱きしめる。

 どれほど遠くへ行こうと、お前の帰る場所はここに固く据え置かれている。

 獣の沈黙は、雄弁な誓いとなって、夜の底へと染み渡っていく。

 森を渡る風が、ルシアンの毛並みを優しく、撫でるように揺らした。

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