第44話:見守る者たち ―追わないことも、愛だから―
セレスティアが外套の裾を翻し、夜の森へとその身を躍らせた後。
ドラクロワ城には、いつものと同じ静けさが戻っているはずだった。
けれど、その夜の静寂はどこか薄い。
触れればたちまち破れてしまいそうな、張り詰めた緊張を孕んでいた。
いつもなら城のどこかで確かに聞こえる、セレスティアの弾むような軽い足音がない。
無邪気に誰かの名を呼ぶ、愛らしい声も聞こえない。
ただそれだけのことだ。
だというのに、広大な古城は急に奥行きを失い、ひどく冷えた空洞のように感じられた。
セレスティアは、道に迷ってはいない。
禁忌の森の獰猛な魔物に、襲われているわけでもない。
彼女がただ一つの目的を持って、あの薬師の少女の家へ向かっている。
城にいる者たちは皆、それを正確に把握していた。
だが、分かっているということと、心が落ち着くということは、全くの別問題だった。
ピピは薄暗い工房で、木工道具の整頓をしていた。
祭りで手に入れたばかりの新しい鑿や、小振りの精巧な鉋を、用途ごとに引き出しへ並べ直している。
普段の彼であれば、道具の配置は寸分の狂いもない。
棚の上へ置かれる順番ひとつ、刃の向きひとつにも、一切の揺らぎはないはずだった。
緻密な配列こそが、彼の精神の安定だ。
「……またやっちゃった」
だがこの夜に限って、彼は同じ鑿の刃を何度も磨いてしまった。
すでに確認したはずの木箱の留め具を、手に取っては外している。
手元に落ちるランプの灯りが、引き出しの角を、不自然に長く伸ばしていた。
やがて彼は珍しく、小さく舌打ちをして、工具を乱暴に置いた。
磨きすぎた鋼の刃が、冷たい光を放って、持ち主を見つめ返している。
「……まったく。セレスティア様も、本当に困ったものだよ」
ピピは溜息をつき、独り言のように呟く。
その声には叱責よりも、隠しきれない心配が色濃く滲み出ていた。
彼はセレスティアがもう、ただ無知に守られるだけの幼い子供ではないことを、十分に理解している。
森の歩き方も、気配の読み方も、過酷な自然の中で生き抜くための判断力も。
彼女は確実に身につけ始めている。
それでも、生まれた時からこの城で、その小さな成長をずっと見守ってきた。
そんな少女が、独りで夜の森へ出ていったということ。
それは、彼の頑なな内側にまで、無視できない亀裂を刻んでいた。
引き出しの奥で、整然と並ぶはずの道具たちが、彼の動揺に呼応するように微かに震え、鈍い擦れ音を立てていた。
温室ではアマンダが、夜露を含んだ苗たちの様子をじっと観察していた。
植物たちは、夜の深い静けさの中で、土の湿り気を吸いながらゆっくりと呼吸をしている。
祭りの日に買い求め、大切に植え替えたばかりの種の鉢も、温室の最奥でひっそりと眠りについていた。
けれど、今夜のアマンダの周囲では、いくつかの青い蔓が、必要以上に不自然に伸びている。
開きかけた花弁も、何かに怯えるように閉じる。
温室全体が、不安定な揺らぎを見せていた。
植物の葉が擦れ合う、小さく乾いた音が、湿度に満ちた空気の中を漂う。
アマンダはそれを静かに眺め、柔らかな琥珀色の瞳を伏せる。
「森が少しだけ、ざわついていますね」
誰に聞かせるでもなく、吐息のように呟く。
セレスティアの胸の中で渦巻く、行き場のない感情。
それは彼女が生まれ持つ、まだ幼くも強大な星の魔力を通して、禁忌の森の浅い層へと、微かな波紋を広げていた。
植物たちは繊細な動揺を、敏感に感じ取っているのだ。
アマンダはその歪みを、自らの魔力で強引に鎮めようとはしない。
ただ、温室の湿った黒土へと、自身の細い指を深く沈める。
地中に広がる無数の菌糸を通じて、少女が歩む夜の森の道を、遠くからそっと包み込むようにして、見守り続けていた。
アマンダにとっても、セレスティアは尊き主の娘。
長い時間を共に暮らしてきた、愛おしい小さな命そのものだった。
心配ではないはずがない。
けれど、大地に深く根を張る植物がある日、自らの意志で、陽の射す方へとその細い茎を伸ばすこと。
それを他者が力ずくで止めることなど、決してできないのだと、彼女は知っている。
湿った土の奥で、アマンダの魔力は、少女の足元を硬く支えるように広がっていった。
そしてルシアンは、人の姿を脱ぎ捨てて、中庭へと出ていた。
回廊から続く、冷え切った石段の下。
夜露を纏って黒く濡れた薔薇が、不気味に揺れる庭の中央。
圧倒的な質量を持った幻獣の影が、低く横たわっている。
その蒼く美しい毛並みは、雲間から漏れる細い月光を受けて、夜の水面のように雄々しく波打っている。
サファイアブルーの瞳は、夜の闇を鋭く射抜くように細められ、じっと森の奥深くの一点を見つめていた。
彼は、セレスティアが今どこを歩いているのか、はっきりとわかっていた。
彼女の不慣れな足取り、衣服の擦れるかすかな音。
焦燥による呼吸の乱れも、村へ向かう正確な道筋も。
すべては夜風に混じる、愛娘の特有の匂いとして、その鋭敏な嗅覚で捉えている。
だがそれでも、あえて人間の姿を捨て、獣の身体を選んだ。
人の姿のままでは、理性で自分を抑え込み、平静を保ってしまうだろう。
今の彼はそれを取り払い、自身の嗅覚も聴覚も、そして魔力の感知能力をも、限界まで鋭く研ぎ澄ませていたかった。
娘を追わないと決めた。
無理に連れ戻すべきではないと、彼自身が、誰より理解していた。
だからこそ、せめてその命の気配だけは、一瞬たりとも、世界のどこへ行こうとも手放したくはない。
彼は大きな鼻先を天へと上げると目を閉じ、湿った夜気を深く、肺の奥まで吸い込んだ。
夜の森の匂いは、ひどく複雑だった。
冷えた土の匂い、若葉の青さ。
薔薇の濃厚な甘み、夜行性の小動物たちの気配。
そして遠くの村から微かに流れてくる、薪の燃える煙の匂い。
その雑多な情報の濁流の中に、セレスティアの星の魔力が、ごく細い糸のように混じり合っている。
外敵に対する怯えや、引き裂かれるような悲しみは感じ取れない。
ただ、まだ明確な言葉になる前の、やり場のない寂しさ。
そして、自分の目で何かを確かめたいという切実な衝動が、夜の空気の中で揺れていた。
ルシアンはその気配を、自身の大きな身体の内に、じっと引き受ける。
傷つき、追われ、肉親のぬくもりなど知らなかった。
そんな自分に、父親という役割を与えたのは、あの小さかった娘だ。
今、彼女が直面しているのは、いつか訪れる人間との時間の乖離。
長命種ゆえの、孤独の始まり。
それは彼自身がとうの昔に通り過ぎ、あるいは無意識に無視してきた、世界の冷徹な真理でもあった。
ルシアンの背の毛並みが、夜風に煽られて激しく揺れる。
彼はただ、自らの魔力を、森の気配の奥底へと密かに沈み込ませる。
もし万が一、あの灯りの消えかけた村の周囲で、娘に害をなそうとする影がほんのわずかでも動けば。
その瞬間にすべてを焼き尽くすための、静かで、苛烈な執念。
ルシアンは尾を短く揺らし、娘の光の気配を、自身の意識の最深部で抱きしめる。
どれほど遠くへ行こうと、お前の帰る場所はここに固く据え置かれている。
獣の沈黙は、雄弁な誓いとなって、夜の底へと染み渡っていく。
森を渡る風が、ルシアンの毛並みを優しく、撫でるように揺らした。




