第43話:揺らぐ心と夜への跳躍 ―永遠じゃないから、会いたくて―
一見すれば、ドラクロワ城の重厚な石壁の内側で流れる日常は、何一つとして変わっていないように見えた。
アマンダは温室で、新しく小さな双葉を覗かせた苗へと、穏やかな魔力を注ぎ続けている。
ピピは細かな塵を払いながら、回廊の修繕箇所を指先で細かく点検し、完璧な水平を確かめていた。
ルシアンは城門の近くの岩場に腰掛け、耳を微かに動かして、森の広大な気配を読み、不穏な外敵が近づいていないかを見定めている。
そしてベルローズもまた、いつものように魔導書を捲っては、乾燥させた薬草の葉を、一枚ずつ選別していた。
けれどセレスティアだけは、そのあまりにも穏やかな日常の輪郭へ、以前とは違う奇妙な感覚を覚え始めていた。
城の中では、時間の流れがあまりにも静かで、あまりにも停滞している。
母も父も、彼女の最も古い記憶の中とほとんど変わらない、完成された姿のまま。
同じ深い声で自分を呼び、同じ力強い体温で、傍にいてくれる。
ピピもアマンダも、いくつもの過酷な季節を越えてなお、微塵の衰えも見せない。
当然のように、変わらぬ姿でそこに佇んでいる。
だが森の外は、違った。
村に住む老人たちは、会うたびに少しずつ、ゆっくりと背を丸めていく。
エマの父親の髪にも、以前より白髪の分量が増えているように思う。
エマはまだ、自分と同じ、瑞々しい少女のままだ。
だがそれでも彼女はいつか大人になり、やがて老いて、形を変えていく側の命なのだ。
その残酷で、逃れられない事実を知ってしまってからというもの。
セレスティアの胸の奥には、誰にも説明しようのない、冷たいざわめきが居座り続けていた。
ある日の午後。
セレスティアは薬師小屋で、エマと共に摘んできた薬草を選別しながら、何気ない村の近況を聞いていた。
エマは木製の乾燥棚へ手際よく薬草を並べつつ、楽しそうに話を続けている。
「そういえばね、近くに住んでるおばあちゃんのお客さん、最近前よりもずっと耳が遠くなっちゃったみたいなの。何回か大きな声で呼ばないと、気づいてくれなくて」
ありふれた日常の、ささやかな世間話に過ぎない。
けれどセレスティアは、指先を凍りつかせた。
何気ない少女の言葉の中に、時間という名の目に見えない濁流を、はっきり感じ取ってしまったのだ。
帰り道、一人で森を歩く彼女の足取りは、どこか上の空だった。
頭上の枝葉を揺らす風の匂いも、足元で沈み込む、湿った土の質感も。
昨日までと何も変わらない。
それなのに、自分だけが急に見知らぬ場所へ放り込まれてしまったような、強い孤独感があった。
(エマがこのまま大きくなっていったら……、私は、どうなるんだろう)
エマが大人になり、美しい女性になっても。
彼女にいつか愛する人ができ、子供が生まれ、その子供がさらに大きく成長していっても。
自分だけが変わらずに、こうして森を歩き続けるのだろうか。
その想像は、まだ霧のように、輪郭すら曖昧だ。
それでも、彼女の胸の奥へ深く刺さって離れなかった。
その夜、セレスティアは眠る気にもなれぬまま、寝台に横たわっていた。
幾度も寝返りを打ち、やがて諦めたように上体を起こして、西塔の広い窓辺へと近づく。
深い森に阻まれて見えるはずもないのに、彼方にある人間たちの村の灯りが、揺れているように思えた。
頼りない橙色の灯りの中には、人間たちの短くも温かく、絶え間なく変わり続ける時間が流れている。
家族で食卓を囲み、誰かのために薬を煎じ。
誰かが愛らしく笑い、そして誰かが静かに老いていく。
限りがあるからこそ、その終わりへ向かう一瞬一瞬が、まるで燃え尽きる直前の火花のように、強く輝く時間。
セレスティアは、胸の奥がどうしようもなく締め付けられ、息が苦しくなるのを感じていた。
ドラクロワ城へ戻れば、いつでも絶対の安心がある。
不器用な父も、凛とした母も、自分を命懸けで愛し、守ってくれる。
ピピもアマンダも、いつだって自分に優しい。
だからこそ、余計に。
誰にもこの、胸を掻きむしるような得体の知れない感情を、ぶつけたくはなかった。
両親や精霊たちは、きっとこの痛みを理解してしまう。
理解した上で、彼らはセレスティアを拒まず、そのすべてを受け止めてしまうだろう。
そのあまりにも絶対的で変化のない優しさが、今のセレスティアには、少しだけ苦しかった。
やがて彼女は、ほとんど衝動に突き動かされるようにして、窓辺から立ち上がった。
壁に掛けられていた厚手の外套を羽織り、音を立てぬよう、慎重に部屋の木製の扉を開ける。
誰にも見つからないように、闇に紛れて城を抜け出すつもりだった。
けれど、このドラクロワ城で育った彼女自身が、誰よりも理解していた。
この静まり返った古い城で。
あの鋭敏な幻獣である父が、娘の微かな気配の移動に、気づかないはずがないと。
夜の禁忌の森は、昼間よりもずっと深く、静かだ。
湿った草葉が歩くたびに足元で微かに揺れている。
雲の隙間から覗く細い月光が、巨大な木々の間へと、銀色の細い線を幾本も落とす。
本当はどこへ行きたいのか、自分でもはっきりとは分かっていない。
それでもセレスティアは迷うことなく、エマの住む村へと続く、見慣れた細い獣道を辿っていた。
一方その頃、ドラクロワ城の窓辺では、ルシアンが腕を組んだまま、静かに森の奥深くを見つめていた。
その鋭いサファイアブルーの瞳は、すでに夜の闇を見通している。
娘が森の中で辿っている足取りと道筋を、寸分の狂いもなく捉えていた。
追おうと思えば、幻獣の足をもってすれば一瞬だった。
森を疾風のごとく駆ければ、彼女が村の境界へと辿り着くよりも遥か早くに追いつき、連れ戻すなど容易なことだ。
だが、彼はその身体を微動だにさせなかった。
背後の闇から、ピピが静かに声をかける。
「……追わなくていいの? ルシアン」
ルシアンは腕を組んだまま、鼻から低く、重苦しい息を吐き出した。
「追って無理やり連れ戻したところで、何の意味もねぇだろ」
その声は相変わらず不機嫌そうだった。
それでもその奥底には、どこか自嘲気味で、苦い諦念が滲んでいた。
娘はもう、ただ城の奥に閉じ込めて、外の脅威から無条件に守っていればいいだけの、無知な子供ではないのだ。
外の世界を知り、人間という存在を知り。
そして、自分たち長命種との間に横たわる、決定的な流れる時間の差に気づき始めている。
それならば、彼女自身が自分で悩み、自分の足で歩き、自分で答えを探さなければならない領域だ。
「まあ、あのセレスティア様が、この森で迷子になる心配はないだろうけどね」
ピピは小さく肩を竦め、それ以上は何も言わずに、闇へと下がった。
ベルローズもまた、微動だにせず黒い森を静かに見つめていた。
彼女も、娘を止めようとはしなかった。
止められなかったのではなく、今ここで親の権威を使って止めるべきではないと、理解していた。
外の世界へ自ら手を伸ばした時点で、セレスティアはもう自分の足で立ち、孤独という名の痛みを知っていくしかない。
ベルローズはそっと、その深紅の瞳を閉じて俯いた。
やがてセレスティアは、息を切らせながら、森の境界へと辿り着いた。
すっかり夜も更け始めた、ひっそりとした薬師小屋の窓からは、柔らかな橙色の灯りが漏れ出ていた。
微かに漂ってくる、根菜をじっくりと煮込んだ料理の、温かい匂い。
乾燥棚から溢れる、薬草の少し青臭くも落ち着く香気。
そして、暖炉の奥で薪が静かに燃える、確かな熱。
そのすべてがセレスティアの胸の奥を、不思議なほどに落ち着かせていく。
意を決して、木製の古びた扉を小さく叩く。
中から驚いたような足音が聞こえ、すぐにエマが、勢いよく飛び出してきた。
「セレスティア!? ……どうしたの、こんな時間に。一人で来たの?」
エマの丸い瞳に見つめられ、セレスティアは言葉に詰まった。
自分でも、なぜこんな夜中に城を抜け出してここまで走ってきたのか、その明確な理由を説明できなかったからだ。
ただ、理屈ではなく、会いたかった。
この人間たちの営む、小さな灯りの近くにいたかった。
いつか変わっていってしまう、有限な命の持つ確かな時間を、少しだけでいいから肌で確かめたかった。
「う、うん……。ごめんね、急に」
エマはそんな彼女の、今にも泣き出しそうな、困惑に満ちた表情を不思議そうに見つめていた。
そして、深く追及する代わりに、ぱっと明るく笑った。
「ちょうどね、お父さんと一緒に、スープを温め直していたところだったの。入って入って!」
その、いつもと変わらない、無邪気な声を耳にした瞬間。
セレスティアの胸の奥に硬く張り詰めていた、冷たいものが、音を立ててほどけていくのが分かった。
暖かな灯りの満ちる部屋の中へと、優しく招き入れられながら。
彼女はスープから立ち上る湯気の向こう側で、ぼんやりと思い至っていた。
この時間は、永遠ではない。
いつかは終わり、失われてしまうものだ。
だからこそ、これほどまでに、狂おしいほど温かいのかもしれない、と。




