第42話:指切りと、時の足音 ―君の明日と、私の明日―
セレスティアはエマと並んで、禁忌の森の外縁に近い、薬草の群生地を歩いていた。
森は芽吹き祭りの頃よりも、さらに深い緑を帯びている。
雪解けの水は、細い流れとなって木々の根元を潤し、地面には柔らかな苔と若草が、幾重にも広がっていく。
朝の光はまだ薄く、枝葉の隙間から零れる陽射しは、湿った土の上へ淡いまだら模様を落としていた。
以前ならこの辺りの道も、どこか見知らぬ外界の入口のように感じられた。
それが今では、湿った土の沈み具合や、木の根の張り出し方、風が運ぶ草の匂いを読みながら、自然に足を進められるようになっていた。
今日二人が探しているのは、村に住む年老いた男の腰痛を和らげるための薬草だった。
エマによれば、その老人は若い頃から、森近くで薪を割り続けてきた人だという。
冬の湿気が残る時期になると腰が痛んで、朝起き上がるのにも苦労するのだそうだ。
セレスティアは最初、その話をどこか不思議なものとして聞いていた。
怪我をしたのなら治せばいい、魔力の乱れなら整えればいい。
そう考えかけて、すぐにそれだけではないのだと気づく。
人間の身体は、長く使われた道具のように少しずつ軋み、痛み、衰えていく。
古い城壁に、小さな亀裂が増えていくように。
命もまた、病や傷だけではなく、時間そのものによって変わっていくのだ。
「このあたりに生えるはずなんだけどなぁ。父さんが言うには、少し湿った斜面の、木漏れ日が当たりすぎないところがいいんだって」
エマは籠を腕に掛け、慣れた手つきで草をかき分けていく。
セレスティアもその横にしゃがみ込み、葉の形と香り、茎の柔らかさを慎重に確かめた。
ベルローズから教わった薬草の見分け方が、こうして実際の森の中で役に立つことが不思議に嬉しい。
やがて彼女は、苔むした根元の陰に、細く青みがかった葉を見つける。
葉裏には淡い銀の産毛があり、指先で触れると、冷たい水に似た香りがふっと立った。
「これじゃないかな。葉の裏に銀色の毛があって、根元にちょっとだけ苦い匂いがある。お母様が言ってた、冷えから来る痛みに使う草に似てる」
エマがぱっと顔を輝かせる。
「そう、それ! すごいね、セレスティア」
褒められたセレスティアは、少し照れたように耳を揺らす。
彼女は薬草を、必要な分だけ丁寧に摘み、根を傷めないよう土を戻した。
かつてはただ美しいもの、あるいは魔力と共鳴するものとして見ていた草花。
今では誰かの痛みを和らげるための、確かな手段として見えている。
その変化もまた、彼女が外の世界へ踏み出したことで得たものだった。
二人は小川の近くで、少し休むことにした。
水面には春の光が細く揺れ、川辺の草には、小さな白い花が点々と咲いている。
エマは腰を下ろすと、採った薬草を籠の中で整えながら、どこか楽しげに話し始めた。
「この草、おじいちゃんたちには人気なんだよ。腰とか膝が痛いって、みんな言うの。うちのお父さんも、最近たまに肩が重いって言うし。大人って大変だよね」
セレスティアは曖昧に頷いた。
大人になることと、老いること。
その二つは、人間にとって当たり前に繋がっているらしい。
だが彼女の周囲にいる大人たちは違った。
ベルローズもルシアンも、ピピもアマンダも、セレスティアの記憶の中でほとんど姿を変えていない。
彼らは疲れもするし、傷つきもするが、時間に押し流されて衰えていく存在ではなかった。
エマの語る『歳を取る』ということは、知識としては理解できても、まだ身体の奥までは染み込んでこない。
「私もさ、父さんみたいな薬師になりたいんだ。もっと薬草のこと覚えて、村の人たちが困った時に、ちゃんと役に立てるようになりたいの」
エマはそう言って、照れくさそうに笑う。
その横顔には、祭りの日に見せた無邪気さとは少し違う、未来へ向けた真剣な光が宿っている。
「きっとなれるよ。エマ、すごく丁寧だもの」
セレスティアが言うと、エマは嬉しそうに頬を緩める。
「じゃあ、私がおばあちゃんになっても、薬草摘みに付き合ってくれる?」
その言葉は、あまりにも軽やかに、春風に乗る綿毛のようにこぼれた。
エマにとっては、遠い未来まで友達でいたいという、ただそれだけの明るい約束だったのだろう。
だがセレスティアは、その瞬間、胸の奥へ冷たい水を一滴落とされたような感覚を覚えた。
おばあちゃんになる。
エマが。
目の前で笑っているこの少女が。
いつか白髪になり、皺を刻み、背を丸め、歩くたびに膝や腰を痛めるようになる。
その時、自分はどうしているのだろう。
きっと今とほとんど変わらない顔で、同じように森を歩いている。
エマだけが、季節を重ねるように変わっていく。
隣に並んでいたはずの時間が、いつか、静かにずれていく。
セレスティアは一瞬、返事が遅れた。
けれどエマはそれに気づかず、籠の中の薬草を整えながら、明るく続ける。
「その頃には、私、きっと腰を曲げながら『ああ、あそこの斜面にいい薬草があるんだけどねぇ』とか言ってると思うんだ。セレスティアは森を歩くの上手だから、代わりに摘んできてくれたら助かるなぁ」
冗談めいた調子だった。
だからセレスティアも、笑わなければならないと思った。
大切な友達が、自分との未来を楽しそうに想像してくれているのだから。
「もちろんだよ。当たり前でしょ?」
そう言って、セレスティアは笑った。
彼女が懸念していたよりも、声は自然に出た。
エマも満足そうに笑い、「約束ね」と言って小指を差し出す。
セレスティアはその指へ、自分の小指を絡める。
人間の約束の仕草は、温かく、軽く。
けれどどこか、ひどく儚いものに感じられた。
採取を終えた二人は、森の境界近くで別れる。
エマは籠いっぱいの薬草を抱え、「また来週ね」と、いつものように明るく手を振った。
セレスティアも、同じように手を振り返す。
だが彼女の胸の奥には、行き場のない寂しさが沈んでいた。
城へ戻る道すがら。
森の春は、相変わらず美しい。
だがセレスティアには、その全てがどこか遠く感じられた。
来年の春も、この森には同じ花が咲くのだろう。
けれど、その隣で笑うエマは、今と同じ少女ではいられない。
人間の命は、その巡りの中で少しずつ形を変え、やがて別の場所へ行ってしまう。
自分は、その変化の速度に追いつけないまま、同じような姿で立ち尽くすのだろうか。
ドラクロワ城へ戻ると、ピピが回廊の修繕をしており、アマンダは温室で種の様子を見ていた。
いつもと変わらぬ日常だった。
けれどその変わらなさこそが、今のセレスティアには少しだけ、胸へ痛かった。
大広間へ入ると、ルシアンがすぐに顔を上げた。
彼は何かを察したように、娘の尾の動きと耳の角度を見て、目を細める。
「……何かあったのか?」
セレスティアは反射的に首を横に振る。
「ううん。何もないよ。ただ、ちょっと疲れただけ」
嘘ではない。
けれど、彼女の心のすべてでもなかった。
ルシアンはなおも何か言いたげに彼女を見ていたが、それ以上無理に踏み込むことはしなかった。
代わりに彼は、短く「そうか」とだけ言い、娘の頭を大きな手で、一度だけ撫でる。
その手の温かさに、セレスティアは少しだけ泣きたくなった。
その夜、西塔の窓辺で、セレスティアは一人、外を見ていた。
森の向こうには、エマの暮らす村がある。
そこには、いつか年を取る友達がいる。
セレスティアは窓硝子へ映る自分の顔を見つめた。
十五歳の少女。
魔女と幻獣の血を引き、いずれ長い時間を生きるだろう存在。
「……おばあちゃんになっても、か」
小さく呟いた声は、夜の静けさに溶けていった。
エマとの約束は、嬉しかった。
けれど、その幸福の形を想像するほど、言い知れぬ寂しさが深くなっていく。
初めて外の世界へ手を伸ばしたからこそ。
その世界に流れる時間が、自分たちとは違う速さで進んでいることを知ってしまった。
絶望とは、まだ呼べない。
それでも、セレスティアの中へ初めて落ちた、永い時間を生きる者だけが背負う、寂しさの種だった。




