第41話:祭りの残り香 ―持ち帰ったもの、芽吹くもの―
窓から差し込むわずかな光と、白み始めた空の気配。
それらが石造りの寝室に、柔らかな陰影を描き出している。
ベルローズは、意識の境界を揺蕩う微睡みの中から、瞼を持ち上げた。
隣には、大型の獣が丸まっているかのような、圧倒的な熱量があった。
ルシアンは荒々しい警戒心をどこかへ置き忘れ、深く安らかな眠りに落ちている。
横たわる彼の胸板は、規則正しい呼吸に合わせて、ゆっくりと上下している。
夢の中で獲物でも追っているのか。
時折、長い睫毛が微かに震えていた。
ベルローズは音を立てぬよう、上体を少しだけ起こした。
ふと視線を横へ向けると、枕元に置かれた、あの不格好な木彫りの狼が目に入る。
どこか不機嫌そうに、への字に結ばれた口元。
その造形は、今隣で無防備に眠っている男の本質を、驚くほど正確に写し取っているように思えた。
「……ふふ」
抑えたつもりだったが、小さな吐息のような笑いが零れてしまう。
その時、ルシアンが寝返りを打ち、微かな衣擦れの音と共に、ベルローズの方へと身体を寄せた。
彼は寝ぼけたまま、彼女の香りを求めて、肩口に顔を埋めるようにして擦り寄ってくる。
その仕草は、強大な幻獣であることを忘れさせるほどに甘やかで、一途な献身に満ちていた。
「……本当に、お行儀が悪いわね」
呆れたような呟きを口にしながらも、ベルローズの細い指先は、自然と彼の濃藍色の髪へと伸びていく。
彼女はしなやかなその毛並みを、愛しそうに梳き上げる。
ルシアンは心地よさそうに喉の奥を鳴らし、さらに深く彼女の体温へと潜り込んでいった。
窓の外に、春の朝靄が低く立ち込めていた。
禁忌の森には、春を迎えた若葉の青い匂いが、いっそう深く満ち始めている。
冷え切っていた冬の空気はすでに後退し、朝露を抱えた草葉は陽光を受けて、柔らかな輝きを返す。
ドラクロワ城を囲む薔薇の庭にも、以前より確かな生命の気配が宿り始めている。
祭りという一夜限りの熱狂は、すでに去っているはずだった。
だがその余韻は不思議なほど、城で暮らす者たちの日常へと染み込んでいた。
朝の温室ではアマンダが、祭りで手に入れた花の種を、小さな陶器鉢へ一つずつ丁寧に植え込んでいる。
湿った黒土を細い指で優しく撫でるたび、彼女の周囲には、淡い光にも似た魔力が滲む。
アマンダは、まだ眠ったままの種子へ、穏やかな命の気配を送り込んでいく。
「この子は乾いた土が好き。こっちは夜露をたくさん吸うので、北庭園の方が落ち着くかもしれませんね」
独り言のように呟きながら、アマンダは小さな命たちと対話するようにして、作業を続けていた。
祭りで見た外の畑の風景や、人間たちが土を耕し、花を育てていた様子。
それは、自然そのものを愛する彼女にとっても、新鮮な刺激だった。
彼女の琥珀色の瞳は、新しく芽吹くであろう命への期待に満ちて、揺れている。
一方ピピは、祭りで購入した新しい木工道具を並べ、城の回廊の一部を補修していた。
石壁へと手を触れ、城そのものの機嫌を伺う。
古い石造りのドラクロワ城は頑丈ではあるが、長い年月を経た建築物特有の、歪みや軋みを抱えている。
ピピは新しい鉋の刃先を光へ翳し、わずかな角度や重さの違いを確かめると、満足そうに頷いた。
「やっぱりこの地方の鍛冶職人は優秀だね。これなら、あの歪んだ扉も綺麗に直せそう」
祭りの賑わいそのものより、彼にとっては職人たちの技術や道具類を直接見られたことの方が、よほど有意義だったらしい。
銀髪を揺らしながら、慣れた手つきで木材を削るその表情は、真剣そのものだ。
彼がこうして機嫌よく修繕作業に没頭していること自体、あの外出が、決して嫌なものではなかった証であった。
セレスティアはというと、自室の机いっぱいへ祭りで持ち帰った小さな品々を並べていた。
素焼きの小鳥笛、色鮮やかな風車。花模様の刺繍が施された、小さな布袋。
エマと半分こにした、焼き菓子の包み紙。
水辺へ流した灯籠に似せて作られた、小さな花細工。
そして、屋台で買ってもらった蜜菓子の、最後の欠片まで。
彼女にとってはどれも、大切な宝物だった。
「ねぇお母様、これ見て。エマがね、この模様は『春告げ鳥』っていう鳥を表してるんだって、教えてくれたの」
セレスティアは、机の上に置かれた小さな木彫りの器を、嬉しそうに掲げる。
ベルローズは娘の隣へ歩み寄り、その素朴な細工へ視線を落とした。
愛らしい小鳥と草花が、温かみのある表情で彫り込まれている。
「そうなの。素敵な名前ね」
「そうでしょう? かわいいよね」
セレスティアの世界は長い間、禁忌の森とドラクロワ城だけで完結していた。
だが今、娘の言葉の端々には、外の空気に触れた者だけが持つ、新しい色彩への憧れが宿り始めている。
「それからね。秋のお祭りもあるんだって、エマが言ってた。あと、川の向こうには、別の町もあるらしいの」
「そう……」
セレスティアが無邪気に続けるたび、ベルローズの胸には、静かな感慨が広がっていく。
娘の世界が広がっていくことは、母として紛れもなく幸福だった。
けれど同時に、それはこの城だけでは留めておけない存在へ、少しずつ成長しているということでもある。
その感情を何と呼べばいいのか、ベルローズ自身、まだうまく整理できずにいる。
深紅の瞳が、今はただ、机の上の小さな宝物を慈しむように見つめていた。
その日の午後、ベルローズは中庭に面したテラスで、魔導書を捲っていた。
淡い陽光が、黒いドレスの裾を照らしている。
彼女の蒼く結晶化した角の根元には、ルシアンから贈られた青い花飾りが留められていた。
豪奢ではない、小さな花々を模した、慎ましい意匠。
けれど、その蒼は彼女の黒髪と不思議なほどによく馴染む。
角の冷たい美しさを、より際立たせていた。
通りかかったアマンダが、それを見て柔らかく微笑んだ。
「ベルローズ様。やっぱりその色、とても綺麗ですね。春先の朝露みたいです」
その言葉に、ベルローズはほんの少しだけ、睫毛を伏せた。
「……そうね」
言葉とは裏腹に、彼女の指先は無意識のうちに、その飾りに触れていた。
自分の角を飾ることなど、考えもしなかった。
銀細工や真珠で強引に覆い隠され、そこに宿る魔力も生命も、否定されていた日々。
けれど今の自分はこうして、愛する者から贈られた色を、角の傍へ纏っている。
ルシアンが「似合っている」と言い切ったその色が、過去を静かに塗り替えていく。
それが彼女の胸の奥へ、不思議な温度を残していた。
夕刻、ルシアンは城門近くで、いつものように森の気配を確認していた。
祭りを経たことで、セレスティアは以前より明確に「外へ行きたい」という欲求を持ち始めている。
それを喜ばしく思う自分と、危険な場所へ近づけたくない本能が、彼の中で複雑にせめぎ合っていた。
遠くから、セレスティアの笑い声が聞こえる。
振り返れば、彼女はピピやアマンダと共に、祭りで買った品を見せ合いながら歩いていた。
陽光の下で笑うその姿は、閉ざされた城の中へ、春そのものが入り込んだようだ。
ルシアンは無意識のうちに耳を伏せ、小さく息を吐く。
娘が幸せそうなのは、自分も嬉しい。
外の世界に怯えるだけではなく、好奇心を抱けるようになったことも。
本当は、誇らしい。
だがその反面、彼女が自分の手の届かない場所へと、離れていくような。
いつか自分が守ることのできない、もっと遠くへ行ってしまうのではないかという不安が、胸の奥で静かに燻っていた。
彼はサファイアブルーの瞳を細め、城へ向かう娘の背中を、守護者としての静かな視線で追い続けた。
夜、静まり返った西塔で。
セレスティアは寝台へ横になりながら、祭りの日に見た灯籠の話を繰り返していた。
「ねぇお母様。またみんなで行きたいね。今度はもっとゆっくり見たい。あの焼き菓子も、まだ食べてない種類がたくさんあったし」
ベルローズは娘の髪を優しく撫でながら、小さく微笑む。
「ええ、そうね」
窓の外では、春の夜風が薔薇の蕾を揺らしていた。
その柔らかな音を聞きながら、ベルローズは静かに瞳を閉じる。
娘は、外の世界を、人々の温かさを知った。
そして、自分のままで歩いていける場所があることを知った。
その事実は幸福だった。幸福だからこそ。
いつか訪れるかもしれない変化への微かな予感が、夜の静寂の中で、小さな影のように胸を掠める。
だが今はまだ、それを言葉にする必要はない。
ベルローズは、穏やかな寝息を立て始めたセレスティアを見つめながら、そっと額へ口づけを落とした。




