第40話:贈り物の答え合わせ ―魔女は案外、かわいいひと―
町を埋め尽くしていた、人々の熱や笑い声。
それらは今や、遠い夢の残響のように薄れていく。
重厚な城門をくぐった一行を包み込んだのは、石造りの古城特有の、しんと冷えた空気だった。
しかし不思議と、そのいつもの静けさが心地よい。
祭りで触れた灯火の揺らめきや、人々の温かな温度を胸に抱えたまま帰ってきたからこそ。
ドラクロワ城の底深い闇もまた、自分を優しく受け止めてくれる安らぎの器として感じられる。
薄暗い大広間へ戻ると、ピピはすぐさま燭台や魔導灯に火を入れ、祭りで手に入れた道具類の確認を始める。
アマンダは大切そうに抱えていた花の種を、湿気から守るため、重厚な木製の保管箱へ移し替えた。
ベルローズは外套を脱ぎ、夜色の長い黒髪を軽く指先で整えた。
どこか心地よい疲労を滲ませ、背もたれの高い椅子へと腰を下ろす。
ルシアンはそんな一同の様子を眺めながら、無意識のうちに、その尖った耳を小さく揺らしていた。
外の雑多な空気を、長時間吸い続けていたせいか。
城特有の古い石の匂いを感じたことで、ようやく本能的な警戒を解き始めたようだ。
その時、不意にセレスティアが、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえばお父様。あれ、お母様に渡さなくていいの?」
大広間の空気が、一瞬にして静まった。
ルシアンの耳がぴくりと強張り、蒼い瞳が細められる。
ベルローズは訝しげに、射すような深紅の視線を、彼へと向けた。
「……何の話かしら?」
ベルローズが静かに問い返すと、セレスティアは悪気のない純粋な瞳で、言葉を続けた。
「だってお父様、お母様に似合いそうな髪飾りを買ってたでしょ? ねぇ、早く渡して。私、お母様があの髪飾りをつけているところ、見てみたいな」
ルシアンは露骨に顔をしかめ、娘の熱心な視線から顔を背ける。
だが、愛娘によるあまりにも真っ直ぐな暴露を前にして。
今さら否定することも、誤魔化しきることもできないと悟ったらしい。
彼は不機嫌そうに、舌打ち混じりの重い息を吐き出す。
それから上着の内側へ大きな手を突っ込み、小さな紙包みを、乱暴な仕草で取り出した。
ぞんざいに差し出されたその包みを、ベルローズは微かに目を丸くして見つめた。
指先で、丁寧に包まれていた薄紙を開く。
中から現れたのは、深い青を湛えた小花の髪飾りだった。
夜露をたっぷりと吸ったような、磨かれた黒檀で出来た枝。
そこに、職人の手で細かく磨かれた蒼い石を組み合わせた繊細な細工で、小さな花弁が幾重にも重なり合っている。
豪奢でも派手でもない。
だが、その慎ましい美しさは、静まり返った夜気の中にひっそりと咲く花のように。
どこかベルローズという女性の、本質的な静けさを思わせた。
「あなたが、これを選んでくれたの……?」
ベルローズが問いかけると、ルシアンは視線を完全に逸らしたまま、低い声で返す。
「……他に誰がいるんだよ」
その返答は、あまりにも不器用だ。
けれど一切の嘘や、誤魔化しが含まれていなかった。
ベルローズは言葉を失い、やがて静かにその長い睫毛を伏せる。
その仕草の奥で、彼女の白い頬へ、ごく淡い朱色の熱が差していく。
長年彼女を見守ってきたピピとアマンダは、それを見逃さずに小さく微笑んだ。
「貸せ」
それだけ短く告げると、ルシアンは彼女の手から、髪飾りをひょいと取り上げた。
ベルローズが問いかけるより先に、ルシアンは彼女の左肩の後ろへ回る。
大きな手が、彼女の美しい黒髪へ触れる。
彼の指先が、驚くほど慎重に髪を掬い上げ、彼女の蒼く結晶化した角の根元へ、髪飾りをそっと留めていく。
夜色の黒髪の中へ咲いた青い小花は、結晶化した蒼の角と静かに呼応するように、冷たく神秘的な光を宿した。
それはまるで、永遠に溶けない氷の中で、ひっそりと咲く花のような。
この世のものとは思えない、幻想的な美しさを生み出していた。
ルシアンは半歩ほど身を離し、己の手で飾ったその姿を見つめた。
そのサファイアの瞳が、隠しきれない熱を帯びていた。
「……ほらな。よく似合ってる」
その言葉は短く、虚飾も飾り気もない。
だからこそベルローズの胸の奥底へ、深く落ちていく。
この不器用な幻獣が選んだそれは、ただ「彼女に似合うと思ったから」という理由だけで与えられたものだ。
誰かを飾り立てて支配するための打算など、欠片もない。
あるのは、あまりにも真っ直ぐで、剥き出しの愛情だけだった。
「……ありがとう、ルシアン」
ベルローズもまた、珍しく素直に、消え入るような声でそう返した。
その様子を見守っていたセレスティアが、嬉しそうにその耳を跳ねさせる。
「ほんとに似合ってる、素敵! やっぱり、お父様が選んだのが一番だね」
ルシアンは、何も返さない。
ただ満足そうに、ベルローズを見つめたままだ。
そんな微笑ましい光景を、ピピは腕を組んで、横目で眺めていた。
(ルシアンのやつ。あの色を選ぶなんて、わかりやすいんだよな、ほんとに……)
ルシアンは、ベルローズ本来の象徴である赤や紫の石ではなく、自身の瞳と同じ、己の魔力と同じ蒼の石を選んだ。
自分の色を、彼女の最も目立つ角の隣へ纏わせたい。
自分の番へ、消えない痕跡を残したい。
その獣特有の強い独占欲が、本人の自覚の有無にかかわらず、あまりにも鮮明に滲み出ている。
本人は無自覚を装うか、あるいは死んでも認める気がないのだろうが。
見ているこちらが、気恥ずかしくなるほどだった。
◆
その夜。
祭りの心地よい疲労もあり、ドラクロワ城はいつもよりずっと早い時間から、静かな眠りへと沈み始めていた。
城の最上階、ベルローズの私室。
窓から淡い月光が差し込み、黒い天蓋や、古い重厚な木製の調度品へ静かな陰影を落としている。
髪飾りは外され、大理石の鏡台の上に、大切に置かれている。
嵌めこまれた石が月光を吸い、青い光を宿していた。
ベルローズは既に、寝台の上で横になっていた。
夜の闇に紛れるようにして、当然の権利と言わんばかりにルシアンが入り込んでくる。
彼は何の遠慮もなく、寝台を軋ませて身体を沈めると、そのままベルローズの隣に収まろうとした。
だがその途中で、彼の鋭い視線が、枕元へそっと置かれていた小さな木彫りへと止まった。
「……なんだこれ」
そこにあったのは、露店でベルローズが買い求めた、少々不格好な狼の置物だった。
少し丸みを帯びた大きな耳、どことなく不機嫌そうな目元、いまひとつ締まりのない尾。
そして、埋め込まれた蒼い石の瞳。
不本意だが、何となく、自分に似ている気もする。
「これ、あんたが買ったのか?」
その真っ直ぐな問いに、ベルローズの細い肩がびくりと微かに揺れた。
「……違うわ。それはピピが、……その、どうしても欲しいと言うから。仕方がなく私が代わりに……」
ベルローズは歯切れ悪く言い訳を並べ、掛け布を口元まで引き上げて誤魔化そうとする。
月光に照らされた彼女の白い頬には、隠しきれないほどの鮮やかな朱が差していた。
ルシアンは目を丸くし、しばらくの間、無言でその愛らしい様子を見つめていた。
やがて彼は、胸の奥から込み上げるものを抑えきれずに、笑みを零す。
「……なんだよ。かわいいやつだな、あんた」
優しく呟くと、彼はその強靭な身体をベルローズへと寄せる。
そして、甘えるようにその鼻先を、彼女の白い首元へ深く押し付けた。
彼の気圧されるほどの体温と、狂おしいほどの愛着。
その心地よい重みに、ベルローズは小さく身を縒りながら、眉を寄せた。
「ちょっと、重い……、ルシアン。のしかからないでちょうだい」
「嫌だね」
蒼い瞳を細めて悪戯っぽく笑い、尾を大きく揺らしながら、ご機嫌そのものの様子で何度も擦り寄ってくるルシアン。
その姿にベルローズは、呆れたように大きな溜息を吐き出した。
それでも彼女の胸の奥には、不思議なほど穏やかで深い熱が、じわりと広がっていくのを自覚していた。
この世界で、ルシアンだけは。
自分の異形の角も、他者を拒絶する冷たい性格も。
血と傷にまみれた過去の全ても受け入れて、彼女の傍にいる。
ただ愛おしい、守るべきものとして、彼女を見つめ続けてくれる。
だからこそ、彼の口から零れ落ちる、あまりにも不器用な『かわいい』などという言葉。
それは王都のどんな甘美な賛辞よりも深く、彼女の魂の奥底へと残るのだ。
(私をそんなふうに形容できるのは……、世界中探しても、あなたくらいでしょうね)
ベルローズは、確かな喜びを噛み締める。
そして、己の首元に顔を埋めるルシアンの髪に、そっとその白い手を這わせた。
ルシアンの蒼い瞳は、闇の中でなおも輝きを増し、彼女を楽しげに射抜いていた。
ドレスの袖を弄び、寂しいと言えない顔も。必死に威厳を保とうとする声も。
素直に「お願い」ができない時も。彼を睨みつける、その強気な瞳でさえ。
ルシアンにとってベルローズは、いつだって、かわいい。




