第7話:眠れぬ夜に ―交わした約束―
冬の終わりを告げる夜は、湿り気を帯びた静寂に支配されていた。
天を突くドラクロワ城の尖塔は、月光を浴びて青白く輝き、深い影を落として森の境界に滲んでいる。
城内は、昼間の喧騒が嘘のように寝静まっている。
ピピは分厚い育児書や管理表の山に埋もれ、机に突っ伏したまま、深い眠りに落ちていた。
張り詰め続けていた、緊張の糸が切れたのだろう。
アマンダは温室の微かな灯りの中で、ベルローズの体調を整えるための薬草を、静かに選別している。
彼女の言葉を借りるなら、その時はそろそろ訪れるらしい。
だが、その静寂のただ中で、ベルローズだけは寝付けずにいた。
隣にはルシアンが横たわっているが、彼もまた、眠りに落ちてはいない。
蒼い瞳を闇に溶かして、じっと彼女を見つめている。
彼女は寝台から音もなく身を起こすと、薄手の羽織を肩にかけ、テラスへと足を踏み出した。
夜風は肌を刺すほどではないが、まだ少しだけ冷たい。
はっきりと重みを増した腹部は、歩くたびに、身体の重心が変わってしまったことを無言で告げてくる。
蒼角は、内側の命の脈動に呼応するように、結晶部分が淡く熱を帯びて明滅していた。
ベルローズは冷えた欄干へそっと寄りかかり、暗い森の向こうを見つめた。
眠れない理由は、明白だった。
恐ろしいのだ。
禁忌の森を焼き尽くしかけたほどの強大な魔力を持ち、死線を幾度も越えてきた『ドラクロワの魔女』。
彼女であっても、命を産み落とすことは未経験だ。
この未知の領域だけは、恐怖を拭い去れずにいた。
(もし、この子を失ってしまったら。……私が、いなくなってしまったら?)
最悪の想像が脳裏を掠めるたび、胸の奥を冷たい指先で掴まれるような感覚が走る。
自分がいなくなった後、ルシアンを、このようやく形になり始めた居場所に、独りにしてしまうのではないか。
彼女は腹部へそっと手を重ね、小さく震える息を吐き出した。
その吐息は月光に透けて、白く消えていく。
「置いてくな。……一人で凍えてんじゃねぇよ」
ルシアンはしばらく部屋の中から彼女を見つめていたが、不満げに尾を振りながら、意を決したように追ってきた。
蒼い瞳は、夜の闇の中でも鋭く光っている。
その視線には、かつての刺すような攻撃性はなかった。
代わりに、逃げ場のない不安が色濃く滲んでいる。
ベルローズは彼を振り返り、愛しさを含んだ笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、寂しかったの? 少し、考え事をしていただけよ」
「嘘つけ。呼吸も魔力も乱れてる。……騒がしくて仕方ねぇよ」
ルシアンは吐き捨てるように言いながら、テラスの欄干に背を預けた。
彼もまた、言葉ではなく本能で、彼女の異変を察知していた。
ベルローズの感情が揺れるたびに、脈動する蒼角。
その微細な震えが、共有された魔力を通じて、彼の神経へと直接響いてくるのだ。
ルシアンは手を伸ばし、彼女の腹部へそっと手のひらを当てた。
蒼角が呼応するように柔らかな光を返し、腹の奥でとん、と小さな反応が跳ねる。
ベルローズは目を細め、強張っていた頬を緩めた。
「……この子、あなたが触るとよく反応するのね。あなたのことが、わかるのかしら」
ルシアンの耳がぴくりと動く。
普段の彼なら、鼻を鳴らして得意げにする場面だったかもしれない。
だが今夜の彼は、暗い夜の森を睨むようにして、沈黙を守っていた。
ルシアンもまた、同じ淵に立っていた。
ベルローズを失うこと。ようやく手に入れた、この体温を失うこと。
その恐怖は、かつて王都の軍勢を相手にした時よりも、ずっと彼を追い詰めていた。
「怖いんだろ?」
不意に零れたルシアンの言葉に、ベルローズは息を呑んだ。
ルシアンは視線を逸らしたまま、低く続けた。
「俺もだ。……戦うのは別に怖くねぇ。死ぬってこと自体にも、慣れてるつもりだった。それでも、あんたを失うことだけは、どうしても考えられねぇんだよ」
その不器用な独白は、取り繕うことのできない真実だった。
ベルローズは唇を噛み締め、欄干を握る指に力を込める。
「……もし。ルシアン、あなたを独りに……」
「やめろ」
ルシアンは即座に遮った。
怒鳴るような強さではなく、けれど何よりも重い、底知れぬ否定の響き。
「俺は嫌だからな。……そんな勝手な終わり方、許さねぇ」
ベルローズは苦く笑い、自嘲気味に首を振った。
「もしもの話よ。この世に絶対なんてない。あなただってわかって……」
そう言いかけたベルローズの肩を、ルシアンの手が掴み、強引に引き寄せた。
剥き出しの熱い体温、衣類越しに伝わる力強い鼓動。
彼女を包むその抱擁には、大切なものを失うまいとする必死さが滲んでいた。
「安心しろ。……俺がいるだろ」
ベルローズは、彼の腕の中で目を見開いた。
「何があっても、一人で抱えさせねぇ。……勝手に全部背負って、どっか遠くへ行こうとすんな」
その言葉は、洗練された慰めとは程遠い。
けれど、震える彼女の魂を支えるには十分すぎるほど、真っ直ぐで力強かった。
ルシアンは、彼女の蒼角へそっと額を寄せた。
二人の魔力が穏やかに混ざり合い、循環し、ベルローズの呼吸が少しずつ静まっていく。
腹の奥の命も、父親の温もりに触れたからか、安心したように凪いでいった。
かと思えば、ベルローズの腹部に唐突な衝撃が伝わってくる。
「っ……何するの、痛いわよ」
「どうした?」
ルシアンは咄嗟に体を離し、目を見開いて、不安を隠せずに彼女を見る。
ベルローズは苦しげに、眉を寄せている。
何か、身体に異常があったのだろうか。
それとも、自分が強く抱き寄せすぎたせいか。
「……違うの。……強く、蹴られたのよ」
「ほら見ろ。……こいつも、しっかりしろって言ってんだよ」
ルシアンは、落ち着けと言わんばかりに彼女の丸い腹部を撫でると、心のなかで呼びかけた。
彼の手のひらに応えるように、ぼん、と衝撃が伝わってくる。
(おい、痛いってよ。……俺譲りの力で蹴るなよな)
ルシアンは蒼い瞳を細めて、腹部を名残惜し気に見つめた。
そしてベルローズを軽く抱き上げ、テラスの扉を肩で押し開ける。
ベルローズは驚きと呆れを隠せず、「自分で歩けるわ」と、彼を止めようかとも考えた。
だが、その流れるような動きに半ば感心し、ついされるがままになっていた。
ルシアンは彼女を寝台まで運び終えると、自分も隣へと潜り込み、体を寄せる。
「いいからもう寝ろ。朝まで、俺が見ててやるから」
ベルローズは、彼の胸へ静かに頬を預けた。
規則正しいルシアンの心音が、暗い夜の海で導く灯火のように、耳へと響く。
彼女はゆっくりと瞼を閉じ、消え入るような声で呟いた。
「ありがとう。……おやすみなさい、ルシアン」
静かで優しい闇夜が、二人とその間に眠る小さな命を、深く包み込んでいる。
暗い絶望の記憶を持つ、魔女と幻獣。
彼らが交わしたのは、互いの体温を頼りに、新しい一日の光を待つ約束だった。
春の嵐を孕んだ夜風が、城壁を静かに鳴らしていた。
新しい命が産声を上げるその時は、もう、すぐそこまで迫っている。




