第6話:慈しみの揺籠 ―はじめてのお返事―
禁忌の森は、本格的な実りの季節を迎えていた。
湿り気を帯びた土の匂いと、落ち葉の香りが混ざり合い、秋の深まりを告げている。
中庭には、アマンダによって植え替えられた蒼い花々が根付き、柔らかな風にその花弁を揺らしていた。
その穏やかな景色とは裏腹に、城内にはどこか浮き足立ったような、落ち着かない空気が漂っている。
その中心にあるのは、他でもない。
ベルローズの腹部に宿った、小さな命の火だ。
朝、ベルローズはテラスに置かれた椅子に身を預け、湯気の立つ茶器を傾けている。
ローズヒップの微かな酸味が混じり合ったハーブティーの香りが、鼻腔をくすぐる。
これまでの彼女が愛した、高貴な紅茶の芳香とはまた異なる、穏やかな香りが漂っていた。
(……味気ないけれど。不思議と、身体がこれを求めている気がする)
ピピが血眼になって調べ上げ、アマンダが庭や温室から厳選して持ってきたそれらを、彼女は拒まずに受け入れていた。
ベルローズ自身、身体の微細な変化を無視できなくなっている。
彼女は以前よりも、深い眠りに誘われることが増えた。魔力の流れも、やけに不安定だ。
感情がほんの少し揺れるだけで、右側の蒼角が呼応するように、どくんと熱を帯びる。
柔らかい風が吹くテラスへ、足音も荒く、ルシアンが姿を現した。
彼は踏み込むなり、まずは風向きを確認するように鼻を動かしている。
次にベルローズの肩へ、手に持っていた厚手の上着を掛けた。
「……寒くねぇか」
「冷えていないわよ。今日は陽射しが温かいわ」
「床、滑ってねぇか。まだ石粉が残ってる場所がある」
「問題ないわ。ピピが昨日、念入りに磨いていたもの。……ルシアン? 大丈夫だから、少し落ち着きなさい」
短いやり取りを重ねながらも、ルシアンは彼女の傍から離れようとしない。
ベルローズが椅子から立ち上がろうと身を浮かせれば、即座に手が差し出される。
数段の階段を降りるだけでも、彼は獲物を狙うような鋭さで周囲を警戒し、眉を顰めた。
(なんでこんなに落ち着かねぇんだ……)
今のルシアンを突き動かしているのは、理屈ではなく、剥き出しの本能だ。
彼は無意識のうちにベルローズへ触れ、その手を彼女の腹部へそっと添える。
ルシアンは、己の内側で暴れる見えない衝動に、戸惑いの色を隠せないでいた。
ベルローズの気配が少しでも遠ざかれば、喉の奥で獣のような唸りが漏れてしまう。
城内の僅かな異音にも、耳を尖らせている。
夜中であっても、彼女の呼吸が一段階深くなるだけで飛び起き、匂いの微細な変化だけで彼女の体調を察知する。
孤独に彷徨っていた幻獣は、今や巣穴を守る雄の獣としての本能に、完全に支配されていた。
その頃、ピピは別の方向で暴走の極致にいた。
彼の書斎に置かれた机は、もはや図面を広げる余地もないほどに埋め尽くされている。
「何が……、身体によくて、何がいけないのか……、ちゃんと調べなきゃ……」
書庫には見当たらなかったので、近隣の村や交易拠点から必死で搔き集めてきた、山積みの育児書。
古い薬草辞典、食事の献立。それから、城内の危険な箇所の一覧や、温度管理表。
ピピの灰色の瞳の下には、濃い隈が刻まれていた。
ベルローズが中庭へ出ようと回廊を歩けば、少し足取りが重くなった瞬間に、ルシアンとピピが左右から同時に反応する。
「座れ。無理すんな」
「ベルローズ様、水を持ってきます! それとも毛布? クッションですか?」
椅子を引く、水を用意する、毛布を掛ける。
二人の過剰なまでの狼狽ぶりに、ベルローズは呆れ果て、溜息をつくしかなかった。
「……落ち着いてください、全ては自然の節理ですから」
アマンダが茶の用意を整えながら、琥珀色の瞳を穏やかに細めて告げる。
「それが怖いんだよ。相手は魔女と幻獣なんだぞ? ……前例がないんだから」
ピピは灰色の瞳を細め、気遣わしげにベルローズを見つめた。
アマンダは不思議そうに首を傾げ、それから何かを思い出したように表情を和らげた。
「ところでピピ? ベルローズ様のお食事やお飲み物、しっかり気を配っていますか?」
「当たり前だろ。ちゃんと調べて、まとめてる」
ピピは胸を張り、自らまとめた薬草一覧や、毎日の栄養管理表をアマンダに突きつけた。
「お茶の時間だけじゃない。食事の管理だって完璧だよ。文句ある?」
「へぇ。偉いですねぇ、ピピは」
「ふん、当然だよ」
そんな騒動を背に、ベルローズはルシアンを伴って中庭を歩いた。
ルシアンは当然のように彼女の斜め後ろを歩き、周囲を威嚇するかの如く、耳を動かしている。
「そんなに睨まなくても大丈夫、敵はいないわよ。ルシアン」
「わかってる……」
口ではそう返しつつも、ルシアンの視線は執拗に彼女の足元や周囲を巡っていた。
石畳の僅かなひび割れ、崩れかけた段差、鋭利な石片。
以前なら一瞥もくれなかった、些細なものたち。
それらは今の彼には全て、彼女を傷つける毒牙に見えているようだった。
ふいに、ベルローズの身体が小さく揺れた。
「……あら」
蒼角が、サファイア色の光を淡く放ち、細かく脈動する。
ルシアンが、雷に打たれたような速さで振り返った。
「どうした。どこか痛いのか」
「いいえ、そうではないわ。今……」
ベルローズは確かめるように、自らの腹部へ両手を当てる。
彼女の腹の奥底で、何かが跳ねた。
それは魚が水面を掠めるような、ほんの微かな、頼りない震え。
だが、確かに内側から返ってきた、意思のある反応だった。
ルシアンが、目を見開く。
「……動いたのか?」
ベルローズは彼を見つめ、静かに頷いた。
そこへ、騒ぎを敏感に察知したピピが、転がるように飛び込んできた。
「なに、魔力暴走? それとも体調不良!?」
「……この子が、動いたみたいなの」
「え、本当に? ちょっと待って、僕も確認したいです……!」
ピピが慌てて駆け寄り、アマンダも静かに微笑みながら後を追う。
ルシアンは、手のひらをそっとベルローズの腹部へと添えた。
獣の鋭敏な感覚に応えるように返ってきた、小さくも力強い震えを、彼は拾い上げる。
ルシアンの強張っていた耳が、ゆっくりと下げられた。
言葉が、声にならない吐息となって零れ落ちる。
ただの魔力の混ざり合いではない。ここに、自分たちの未来が、意思を持って息づいている。
その事実が、彼の魂を根底から揺さぶっていた。
「……ちゃんと、生きてんだな」
掠れた声が、静かな昼下がりの空気に溶けていく。
ベルローズは、そんなルシアンの顔を見上げ、自らの蒼角へそっと触れた。
角は優しく明滅し、彼女の愛しさと驚きを映し出すように、淡い輝きを繰り返している。
「僕にはまだ、動きはわからないみたいです……。でも、蒼角の波形が確かに変わってます。ちゃんと反応してるんだ……」
「元気な子ですね。皆で待っていますよ」
ピピは一瞬だけ残念そうな表情を見せたが、これまでの毒舌を忘れたように、柔らかく微笑んだ。
アマンダは風の中で、穏やかに目を細めている。
禁忌の森を渡る風が、新しい命の予感に満ちた四人を、優しく包み込んでいく。
小さくも尊い鼓動と共に、この城に新しい歴史が刻まれようとしている。
蒼い花々が揺れるたび、小さな命の気配が、確かに世界へ根を張っていくようだった。




