第5話:命を迎える城 ―精霊たち、大騒ぎ―
ベルローズは中庭に面したテラスに立ち、柔らかな陽光を浴びながら、指先でそっと蒼角に触れた。
こうして角に触れるのは、彼女に染み付いた癖だった。
前夜、ルシアンに秘めていた真実を打ち明けたことで、胸の奥を締め付けていた孤独な重圧は、春の雪解けのように和らいでいる。
それでもまだ、どこか現実感は朧気だった。
自分の内側で、自分ではない命が呼吸を始めている。
それがあまりに現実離れしていて、壊れやすい夢のように思えるのだ。
ふいに背後から、重厚な足音が近づいてくる。
今朝早くから見回りに出ていたルシアンが、森から帰ったところだった。
城へと戻ってすぐ、真っ先に彼女を探したのだろう。
「……おい、また外に出てんのかよ。冷えるだろ」
ルシアンは、以前よりも露骨に、彼女の傍を離れようとしない。
彼はベルローズの返事を待たず、風がほんの少しでも冷たいと察するや否や風上に立ち、彼女にふんわりと尾を巻きつける。
そして、テラスの床にある僅かな段差を検分するように見下ろすと、彼女をじっと見つめた。
「朝飯食ったのか?」
「……もう食べ終えたわ、大丈夫よ」
「ちゃんと量食えてんのかよ」
「今のところは」
ルシアンはわずかに安堵したような表情を見せたが、身体を離そうとはしない。
「ルシアン、まだ何も変わっていないのよ。病人のように扱わないでちょうだい」
ベルローズは呆れ半分に、唇を尖らせる。
だがルシアンは、蒼い瞳に真剣な光を宿し、短く返すだけだ。
「いや。変わってんだよ」
その声には、一切の迷いがなかった。
ルシアン自身、父親になるという概念を、まだ完全に整理できてはいない。
だが彼の獣としての本能は、もはや彼女を単なる番としてだけでなく、命を育む守るべき神域として、骨身に刻み込んでいた。
ベルローズは観念したように小さく息を吐き、視線を中庭へ向けた。
「……そろそろ、あの子たちにも話さないといけないわね。隠し通せることでもないし。何より、この騒がしい城で一人で抱えるのは、無理そうだもの」
「ああ。……どうせピピは遅かれ早かれ騒ぐだろうし、アマンダに隠し事はできねぇだろ」
二人は、修復作業の喧騒が渦巻く中庭へと、足を運んだ。
中庭では、ピピが大量の図面と石材に埋もれ、采配を振るっていた。
その傍らでは、アマンダが花壇を整え、土の機嫌を伺っている。
「あなたたち、いいかしら? 少し、話があるの」
「どうされました? ……まさかまた修復予算の追加? それとも屋根に穴が開いたのかな」
ベルローズが声をかけると、ピピはぶつぶつ独り言を漏らしながら振り返った。
しかしアマンダは、ベルローズの顔を見つめると琥珀色の瞳を細め、柔らかな笑みを湛えるだけだ。
四人は、中庭を渡る風が吹き抜ける、テラスの円卓へと移動した。
ベルローズは言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、それから静かに切り出した。
「……子供が、できたの。私と、ルシアンの」
一瞬、ドラクロワ城の時間が止まったように思えた。
ピピの手から、抱えていた図面がひらりと床へ落ちる。
「…………は?」
数秒の空白の後、ピピは城壁を震わせるようにして叫んだ。
「はぁあ!? な、なに、何て言ったの!? ルシアン、何してんだよ!!」
「……何って」
ルシアンが面倒そうに、耳を伏せて返す。
ピピは顔を赤らめると、自分の失言に気づいて目を逸らした。
「いや、僕が悪かった、言わなくていい。……違う、そうじゃなくて、だから! なんでそんな、重大なことをさらっと言うんだよ!」
「うるせぇな。俺はベルローズを俺のもんにしておきたいだけだ。普通だろ」
「……あなたたち、生々しい話はやめてくれる?」
ベルローズは二人の様子に、こめかみに手をやって俯いた。
完全に混乱し、頭を抱えて走り出しそうなピピ。
それとは対照的に、アマンダは穏やかなままだった。
「あら。やっぱり、そうでしたか」
彼女はベルローズの傍へ寄り、慈しむような手つきでその腹部へ手を添えた。
蒼角が共鳴し、サファイアの光が淡く瞬く。
「ふふ、本当! ちゃんと居ますね。小さいけれど、強い光が。お産のときは、私にお任せください」
アマンダの言葉が、場に漂っていた騒乱を真実へと変えた。
森と繋がり、生死を観測して生きる彼女のことだ。
愛する主に新たな命が宿っているという事実が、単純に嬉しくてたまらないのだろう。
ピピもようやく現実味を帯びてきたのか、ベルローズの腹部を盗み見ては目を逸らし、隣で腕を組むルシアンを見ては、再び頭を抱えた。
「え、いや。……本当に? 本当にこの城で、赤ん坊が産まれるの? ドラクロワの末裔が?」
「……そうよ」
ベルローズが、静かに頷く。
ピピは暫く呆然としていたが、一転して、弾かれたように立ち上がった。
そして、灰色の瞳に奇妙な闘志を燃やし始める。
「……だめだ。こんなそこかしこが壊れて、危ない城じゃだめなんだ!」
そこからのピピの変貌は、凄まじかった。
彼は猛然と城内を駆け回り、危険箇所の点検を始めた。
崩れかけた回廊には、即座に封鎖の魔力糸を張り、尖った瓦礫を消去する。
階段の勾配が急すぎると言っては、図面を引き直す。
かと思えばベルローズの寝室へと向かい、温度管理は万全かどうか確認する。
さらに彼は書庫へ突撃し、古い文献を撒き散らしながら、絶望の声を上げた。
「なんでこの城の蔵書は、禁術と破壊の理論ばかりなんだ! 育児書が一冊もない! 魔法薬の生成方法だとか、魔導実験の記録なんて、おむつの替え方の参考にもならないじゃないか!!」
書庫から飛んでくる呪詛に近い叫びに、ベルローズは思わず笑みを零した。
一方、アマンダもまた彼女なりの準備を始めていた。
「赤ちゃんには、柔らかくて、冷えない場所が必要ですね」
そう言いながら、アマンダは森から持ち帰った白い綿毛をほぐし、丁寧に並べている。
書庫から駆け足で戻ってきたピピがそれを見て、再び声をあげた。
「アマンダ、何やってんだよ! 変なことしようとしてるんじゃ……」
「……どうしたんです? これは水分をよく吸いますし、一度お湯に通して乾かしておけば安心です。私も、赤ちゃんをお迎えする支度を進めているだけですよ」
ピピは黙り込み、それから悔しそうに眉を寄せた。
「最初から、そう言ってよ……。また、森からおかしなもの持ち込んだのかと思った」
「心配性ですね、ピピは」
ルシアンはその喧騒を眺めながら、珍しく肩を揺らして小さく笑った。
ベルローズもまた、目尻を下げてその光景を瞳に焼き付ける。
夕暮れが迫り、ドラクロワ城の尖塔が黒く沈む頃には、城全体が奇妙な熱気に包まれていた。
ピピは大量の古文書を抱えて走り回っている。
アマンダは、安産に良いという伝承の花を森から持ち帰り、庭に植え替えた。
そしてルシアンは黙々と、彼女が歩くであろう場所の手すりを補強している。
ベルローズは、その慌ただしい光景を静かに見つめた。
孤独と絶望しかなかったこの城が、今はたった一つの命のために、歪に、懸命に動いている。
「……こんなふうに、誰かが命の訪れを待ってくれる日が来るなんて」
自らの半生を振り返りながら、ベルローズが小さく呟く。
遠くでは、まだピピが何事かを叫ぶ声と、アマンダののんびりした笑い声が交差している。
壊れかけた城、歪な家族、不完全な居場所。
けれど、そこには間違いなく、新しい命を迎えようとする、何よりも温かな灯火が灯り始めていた。




