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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第1章:新たな鼓動

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第4話:夜の告白 ―幻獣の鼻はごまかせない―

 夕暮れの空が、どんよりとした薄墨色に染まっている。

 地平線の彼方で光の糸が走るたび、数拍遅れて、低く唸るような遠雷が響く。


 城内は、不気味なほど静まり返っていた。

 ピピは膨大な帳簿と、修復図面の山に埋もれ、虚脱したように椅子に沈み込んでいる。

 アマンダは、湿り気を帯びた風に誘われ、森へ夜露を観に行くと告げて姿を消した。


 夜の(とばり)が降りきったころ。

 ベルローズは、私室の長椅子に身を預けながら、膝の上の魔導書を見つめていた。

 

 もはや懐かしさすら感じる、ルシアンが初めて贈ってくれた(しおり)が、傍らに大切に置かれている。

 彼女の視線は文字の上を滑るばかりで、内容は一向に頭に入ってこない。


 蒼角が、外の雷鳴に呼応するように、一定の周期で淡く発光している。

 だが、その脈動はいつもより力強い。

 その源は角ではなく、もっと自身の中心に近い場所にあるように感じられた。


(……まだ、誰にも言うわけにはいかないのよ)


 自分の中に、異なる別の時間が流れ始めている。

 確信へ変えてしまえば、もう二度と、ただの魔女には戻れない気がしていた。

 ベルローズは震える指先で自らの腹部へ触れ、小さく、誰にも聞こえない溜息を吐き出した。


 夜が更けるにつれ、空気はさらに、重苦しさを増していく。

 ベルローズは窓辺へと歩み寄り、そっと空模様を窺った。


 遠くで再び、雷鳴が響く。

 稲光が城壁の傷跡を一瞬だけ白く浮き上がらせ、再び深い闇へと沈める。


「なぁ。……あんた、やっぱりおかしいぞ」


 無遠慮に開かれた扉から、ルシアンの低い声が響く。

 彼はいつものようにそこに立っていたが、今夜は軽口を叩いて、空気を濁そうとはしなかった。


「そうかしら。季節の変わり目は、誰だって少し落ち着かなくなるものではなくて?」


「誤魔化すんじゃねぇ」


 ルシアンが一歩、前へ踏み出した。

 蒼い瞳が、暗闇の中で獣特有の光を放つ。

 彼はベルローズの逃げ場を塞ぐように、真っ直ぐに見据えてくる。


 ルシアンの鼻腔は、彼女から漂う匂いを鋭敏に捉えていた。

 彼女自身の魔力の香りでも、自分の魔力の残り香でもない。


 もっと深い場所で、二人の本質が新しく混ざり合った匂い。

 近づくたび、彼自身の魔力が、彼女の奥深くで呼吸している感覚が強まる。

 獣としての本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。


 待つことは覚えた。彼女を信じてもいる。

 だが、彼女の変化を見過ごすことは、違う。

 ルシアンは苛立ちを隠そうともせず、ベルローズの蒼角へ手を伸ばした。


「最近、角もずっと反応してるだろ。……あんたの魔力の波じゃない。別のなにかがここで響いてる」


 逃げられない。ベルローズはそう悟り、視線を落とした。

 風の音と遠雷だけが、二人の間を通り過ぎていく。

 沈黙が永遠のように感じられた後、彼女はゆっくりと、自らの腹部へ両手を重ねた。


「……いるのよ」


「……」


「あなたと私が混ざって生まれた、小さな命が。……ここに」


 ルシアンの身体が、目に見えて固まった。

 けれど彼は驚きに叫ぶことも、取り乱すこともない。


 ただ、ずっと彼を苛んでいた正体不明の違和感に、たった今、決定的な名前が与えられた。

 守るべきものが、もうひとつ増えた。


 その事実が、ゆっくりと彼の骨身に染み渡っていく。

 尖った耳がぴくりと揺れ、足元の尾が、戸惑うように動く。


「……そうか。やっぱりな」


 掠れた声で、彼はそれだけを絞り出した。

 ベルローズはその静かな反応を見て、張り詰めていた肩の力が抜けるのを感じた。


「……気づいていたの?」


「言っただろ、最近変だって。……あんたの中からずっと、俺の匂いがしてたからな」


「そう。……本当に、鼻が利くこと」


 ルシアンは吸い寄せられるように彼女へ近づいた。

 大きな手を恐る恐る伸ばし、まだ平坦な彼女の腹部を覆う。

 その瞬間、ベルローズの蒼角とルシアンの手のひらを通じて、弾けるような共鳴が起きた。


「……本当に、いるんだな」


 信じられないものに触れるような、震える声。

 ベルローズは、静かに頷いた。

 けれど、彼女の瞳には喜びだけではなく、深い(かげ)が差していた。


「……怖いの」


「怖い?」


「私は……、この子を正しく愛せるのかしら」


 ぽつりと漏れたのは、彼女の魂の最深部に(よど)んでいた、冷たい恐怖だった。

 両親と過ごした、断片的な記憶。

 優しく髪を撫でられた手の温もり。抱き上げられた時の、高い視線。


 愛された記憶があるからこそ、それを失った時の引き裂かれるような孤独を、彼女は知っている。

 そして、基準から外れれば価値がないと断じられ、愛の代わりに管理を与えられた絶望も。


「私は、愛しすぎて、間違えて、この子までも壊してしまわないかが怖いのよ。……私に、命を育てる資格なんてあるのかしら」


 ルシアンは黙って、彼女の独白を聞いていた。

 彼とて同じだ。

 故郷である北方の霊峰の、過酷な群れ。

 そこでは、愛情などという言葉は無価値だった。


 あるのは生き残るための掟と、弱者を排除する冷たい論理だけ。

 不完全な人間の姿を混じらせる自分は、親兄弟からも、群れの連中からも敵意を向けられて生きてきた。

 守り、慈しむという行為の正解など、知るはずもない。


「……知らねぇよ。俺だって、まともな親なんてもんがどんな(つら)してるか、わからねぇ」


 ベルローズは、そっと目を伏せる。

 だが、ルシアンの言葉はそこで終わらなかった。


「けどな、いつも言ってるだろ。一人で抱えようとすんな」


 彼はそっと腕を回し、ベルローズの細い肩を抱き寄せた。

 その体温は、雷雨を予感させる冷たい風を遮るように熱い。


「間違えるのが怖いんなら、二人で一緒に間違えりゃいいだろ。……あんたを一人で母親になんてさせねぇよ。俺がずっと、隣に居てやる」


 不器用で、洗練とは程遠い言葉。

 けれど、それはどんな甘い愛の囁きよりも深く、ベルローズの心を震わせた。


「……こんな未来が来るなんて、思ってもみなかったの」


 彼女はルシアンの硬い胸に額を預け、静かに目を閉じた。

 ルシアンは彼女の蒼角を愛おしそうに撫で、その熱を自分の魔力で包み込んでいく。


「俺もだ。……死ぬまで誰かを呪って、一人で野垂れ死ぬもんだと思ってた」


 ベルローズの蒼角が、柔らかなサファイア色の光を放つ。

 それに呼応するように、小さく、確かな鼓動が伝わってきた。


 ルシアンは目を見開き、彼女の腹部に恐る恐る触れる。

 掌を通じて伝わるその小さな気配は、獣としての本能を、かつてないほどに研ぎ澄ませた。


 己を否定し続けた世界の中で、たった一つ。

 自分たちを肯定した結果として生まれた、新しい未来。

 ルシアンは彼女をさらに深く抱き寄せ、腹部を覆う手に慈しみを込める。


「……誰にも、触らせねぇ」


「過保護ね、気が早すぎるわ」


 低く、決意に満ちた声。

 ベルローズは、 呆れたように眉を下げながらも、微笑んで返す。


「アマンダが診ようとしても唸るつもり? ピピが触れたいと言ったらどうするの?」


「……それとこれとは話が別だろ」


 ルシアンはばつの悪そうな声を漏らし、尾を大きく揺らした。

 ベルローズは、彼の胸の中で小さく笑った。


 彼の態度に心から安心しきり、身を預けてしまう自分がいる。

 こうして彼に守られ、鼓動を聞いていると、不思議と怖くはない。

 この子も自分も、一人ではないのだと、素直に思える気がした。

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