第3話:温もりの匂い ―幻獣、気持ちいいとは言えない―
ルシアンは、今日も中庭で修復作業の荷運びを手伝わされていた。
幻獣としての膂力を持つ彼は、人間の職人が数人がかりで運ぶような石材を、軽々と担ぎ上げる。
彼の表情は、露骨に不機嫌だった。
尖った耳や自慢の尾には、細かな石粉が雪のように付着し、蒼い毛並みを白く汚している。
「……ちょっと待った。休憩、その前にブラッシング!」
補修道具を抱えて現れたピピが、逃げようとするルシアンの前に立ち塞がる。
彼はいつものように、懐から獣毛用のブラシを取り出した。
「面倒くせぇ。後でいいだろ」
「よくない。最近、廊下を歩くたびに君の毛が落ちてるんだからね。ベルローズ様の私室にまで毛を撒き散らしてる犯人が、何言ってるのさ」
「……うるせぇな」
ルシアンは、目を細めて言い淀む。
事実、彼は冬毛から夏毛への生え変わり時期なのか、抜け毛が増えていた。
立派な尾は毛量も多く、放置すれば毛玉になり、衛生的にもよろしくない。
ピピは強引にルシアンを捕獲しようと腕を伸ばすが、彼はひらりと身をかわす。
「おい! 観念しろ、止まれってば――」
「ピピ、今日は私がやるわ」
頭上から降ってきた凛とした声に、二人は動きを止めた。
回廊の階段を下りてきたベルローズが、静かに二人を見下ろしている。
ピピは目を丸くし、ルシアンも思わず耳をぴんと立てた。
「ベルローズ様が、ですか……? 直々に?」
「ええ。前から一度、ちゃんとやってみたかったの。……あなた、手入れを怠るには惜しい毛並みをしているものね」
ベルローズは白い手を差し出し、ピピからブラシを受け取った。
ルシアンは蒼い瞳を微かに揺らして、警戒するように耳を伏せ、身を固くする。
だが彼女の拒絶を許さない視線に射抜かれ、ふいと顔を背けた。
「勝手にしろ……」
「じゃ、お願いしまーす!」
ピピは笑みを隠さずに、これ幸いと、逃げるように去っていった。
二人は、陽当たりのよいテラスへと場所を移した。
開け放たれた窓からは、室内へと風が忍び込み、薄手のカーテンを優しく揺らしている。
ルシアンは長椅子に座らされ、ベルローズはその隣に腰を下ろした。
彼女のぎこちない手つきに、ルシアンの耳が伏せられ、尾がぱたぱたと無意識に動く。
「あまり暴れないでちょうだい。案外難しいわね……」
「はぁ。……手加減しろよ」
ベルローズは膝の上にルシアンの太い尾を載せ、慎重にブラシを入れていく。
指先に触れる毛並みは、驚くほど柔らかかった。
光を受けて、淡く蒼く透ける毛先。
指が沈み込むほどに厚みのある毛の下には、大型獣ならではの、力強く高い体温が脈打っている。
「本当に綺麗ね……。こうして改めて見ると、あなたって随分手触りがいいわ」
無意識に漏れた呟きに、ルシアンは前を向いたまま耳を伏せた。
彼女が満足するのなら。こうして、したいようにさせておくのも悪くない。
そう思える自分が、どこかむず痒い。
ブラシを通していくにつれ、白い石粉が落ち、本来の輝きが戻っていく。
手首を返すたびに、毛並みに閉じ込められていた香りがほどけた。
冷たく澄んだ香気に、陽だまりで温まった柔らかさが溶け込んでいる。
森の奥のような野性味の中に、どこか高貴さを感じさせる、彼の匂い。
ベルローズは次第に、その作業に没頭していった。
「いつもピピに任せていたのが、勿体なく思えるわね」
尾を一通り整えると、ベルローズはひとつ、満足げな息を吐いた。
そして、ふと思い出したかのように提案する。
「ルシアン、髪と耳も整えていいかしら?」
「……もういいって。……おい」
ベルローズの指先が、首筋から耳の付け根へと滑る。
彼女は決して、動物の扱いに慣れているわけではなかった。
だが、魔力を読み解く鋭敏な感覚が、無意識にルシアンの急所を突いていく。
耳の後ろの柔らかな窪み。尾の付け根の、疲れが溜まりやすい敏感な皮膚。
ルシアンは内心で舌を巻いた。
(……そこ、いいんだよな。こいつ……、わかってやがる)
次第に、ルシアンの身体から余分な力が抜けていく。
尾がぴくぴくと不規則に揺れ、耳がだらりと横に垂れた。
喉の奥で、獣特有の充足の音が鳴りそうになり、彼は慌てて息を止めた。
だが、ベルローズの細い指先が耳裏をゆっくりと掻いた瞬間。
ルシアンの喉奥から、低く震える吐息が漏れた。
抑えきれなかった低い唸りに、ベルローズの手が止まる。
「あら? ……今、喉が鳴ったかしら?」
「……鳴ってねぇ」
ルシアンは即座に否定した。それでも、膝の上の尾は隠しきれない機嫌の良さで、ぱたん、ぱたんと彼女の脚を叩いている。
ベルローズは、噴き出しそうになるのを堪えて唇を噛み、それから柔らかく笑った。
「案外、素直なのね」
「うるせぇんだよ」
口では毒づきながらも、ルシアンはそれ以上動こうとはしない。
テラスを流れる空気は、初夏の陽光を孕んで、どこまでも穏やかだった。
ブラッシングを続けるうちに、ルシアンの胸の内に、小さな違和感が芽生え始めた。
ベルローズから、自分の匂いがする。
それも、同じ屋根の下で過ごし、寝食を共にすることで移った、表面的な匂いではないように思う。
もっと深い場所、彼女の肌の隙間から染み出してくるような混濁。
獣としての本能が、彼女を縄張りと群れの一員、そして自分の番であると、強烈な認識として返してくる。
(……なんだ、この感じ)
彼女に近づくたび、自分の魔力が彼女の内側に根付いている感覚が強くなる。
蒼角を通じた魔力の循環だけでは説明がつかない、根源的な変化。
決して不快ではなく、むしろ、荒れ狂う本能を凪にするような、異様なまでの安らぎ。
それが逆に、ルシアンを警戒させた。
ルシアンは不意に、ベルローズの手首を掴んだ。
「どうしたの? ……痛かったかしら」
ブラシを止められたベルローズが、不思議そうに彼を見上げる。
ルシアンは何も言わず、彼女の左側に聳える蒼角へ、もう片方の手で触れた。
指先から伝わる共鳴は、以前よりもずっと深く、彼女の拍動と重なっている。
さらに顔を近づけると、彼女の吐息からも、自分の魔力の気配がした。
「……あんた、最近変な感じしねぇか」
鼻を動かしながら問うルシアンの声は、低く、探るように響いている。
ベルローズは視線を泳がせ、それからあの鼓動を思い出した。
しかし、彼女はまだその確信を言葉にすることを躊躇った。
「少しだけ。……けれど、大丈夫。嫌ではないのよ」
ルシアンは眉を顰め、彼女の手首を掴む力を緩めた。
釈然としない。
だが、彼女が穏やかに微笑んでいるのを見て、それ以上追及する言葉を飲み込んだ。
「おーい、終わった? って、うわ……、つやつやになってるじゃないか」
見計らったように、ピピが戻ってきた。
彼はルシアンの姿を見て、素直に感嘆の声を上げる。
ルシアンは鬱陶しそうに耳を伏せたが、なぜかその身体は、自然とベルローズの側へと引き寄せられていた。
「なに? なんでベルローズ様の横にぴったり寄ってるのさ。暑苦しい」
「放っとけ。……休憩は終わりだ、次の作業に行くぞ」
ルシアンは、それだけ言い捨てると立ち上がる。
彼は重厚な足取りで、ピピの後に続いた。
それでも、その尾は名残惜しそうに、ベルローズの指先にさらりと触れていく。
少し遅れて現れたアマンダが、テラスに残されたベルローズを見て、のんびりと笑う。
「仲良しですね、お二人とも。……森の木々たちも、最近のドラクロワ城は、お日さまみたいな匂いがするって、喜んでいますよ」
アマンダは琥珀色の瞳でベルローズを捉え、花壇の方へと向かっていった。
彼女だけは、この小さな変化の正体に、薄々気づいているのかもしれない。
◆
時は夕刻へと移り、修復途中の城壁が、夕陽を浴びて橙色に輝く。
ピピたちは夕食の準備へと去り、ベルローズは一人、手元に残されたブラシを静かに見つめていた。
その隙間にはまだ、数本の濃藍色の毛が絡みついている。
「何見てんだ?」
いつの間にか、ルシアンが戻ってきていた。
彼はテラスの手すりに背を預け、まだ何かを思案するような顔で、沈む夕陽を眺めている。
二人の間に、密やかな沈黙が流れた。
ベルローズの蒼角が、小さく脈動した。
それに呼応するように、ルシアンの魔力もまた、彼女の内側で静かに反応する。
視線を交わさずとも、互いの温度が、以前よりもずっと近い場所で響き合っているのがわかる。
「いえ。……楽しかった、と思って。明日もしていいかしら、あなたの手入れ」
ベルローズが静かに問う。
ルシアンは鼻を鳴らし、夕陽に目を細めたまま答えた。
「……好きにしろよ」
そう答えたルシアンの尾が、そっとベルローズの背に触れる。
言葉は森の風に乗って、二人だけの秘密のように、夜の帳へと溶けていった。




