第36話:灯りの下の隣人 ―甘い香りと、ご近所さん―
祭りの熱気が、最も濃密な質量を伴って、町を包み始めた。
軒先に吊るされた無数の小さな灯籠にも、火が入り始める。
昼の明瞭な色彩と、夜の深い藍色が、境界を失って曖昧に溶け合っていく。
そんな喧騒の中で。
不意に、波立つ人混みを突き抜けるような声が弾けた。
「セレスティア!」
「エマ……!」
人波の向こう側で、栗色の髪を揺らして懸命に手を振り、駆け寄ってくる少女。
その姿を見つけた瞬間、セレスティアの耳が、嬉しそうに直立した。
エマは軽やかな足取りで彼女の前までやってくると、祭りの熱気に頬を上気させたまま、満面の笑みを浮かべた。
「本当に来てくれたんだね! もしかしたら、人混みは苦手かなって思ってたから、会えて嬉しいよ」
「うん。最初は、音とか匂いとかに、ちょっとびっくりしたけど……。でも、すごいね。こんなにたくさんの人が、同じ場所で笑ってるなんて」
セレスティアは周囲を見回しながら、溜まった緊張を逃がすように、小さく息を吐いた。
ドラクロワ城の、石に染み込んだような静けさとは、正反対の世界。
絶えず誰かの声が重なり、灯火が揺れ、熱が淀みなく流れ続けている。
エマの後ろから、薬師である彼女の父親が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼はまずセレスティアへ穏やかに会釈し、それから少しの緊張を隠しきれない様子で、ドラクロワの面々へ視線を向けた。
夕闇へと差し掛かる、祭りの灯籠の下で見る彼らは、現実離れした、静謐で気高い一族に見えた。
ベルローズの結晶化した角は、灯火を受けて冷たく青白く輝く。
ルシアンの耳や尾は、言わずもがな。
蒼い瞳は、群衆のざわめきの中でも、森の覇者たる鋭さで、周囲を観察している。
ピピの羽根は淡い光を反射して煌めき、アマンダの纏う空気には、春の湿った土を思わせる、柔らかな匂いがあった。
異質ではある。
しかし、娘が怯えもせず彼らを慕う理由を、彼は今、薬師としての直感で理解し始めていた。
「……先日は、娘へ貴重な教えを、ありがとうございました」
彼はベルローズへ向けて、静かに、深く頭を下げた。
その声には、魔女への畏れが確かに混ざっていた。
けれどもそれ以上に、一人の薬師としての誠実な敬意が宿っている。
「エマが持ち帰った薬湯ですが。あれのおかげで、長く喉を患っていた客の咳が、驚くほど軽くなりまして」
ベルローズは、長い睫毛を伏せた。
自分の知識が、誰かの生活の中で、具体的な安らぎとして役立ったという報告。
それはかつて浴びせられた、己の魔力の利用価値を測るためだけの、空虚で下卑た称賛とは、まるで違う響きを持っていた。
「いえ……。お役に立てたのなら、良かった。……けれど、一番頑張ったのはあなたの娘さんよ」
返答は静かで、淡々としていた。
けれど、その声音の末尾には、夜風に混じる微かな柔らかさが滲んでいる。
一方でエマは、そんな大人たちの間に流れる機微をよそに、すでにセレスティアの細い手首を引いていた。
「ねぇねぇ、あそこの焼き菓子の屋台に行こう! 今の時間、焼きたてが次々出てくるの」
人波を縫うようにして進んだ先には、抗いがたい甘い香りを漂わせる屋台が並んでいた。
薄く伸ばした生地にたっぷりと蜂蜜を塗り、熱い鉄板で香ばしく焼き上げた菓子。
刻んだ木の実を練り込んだ、丸い焼き団子。
果実をどろりと煮詰めた、濃い赤色のジャムを挟んだ、小さな包み菓子。
焼けた小麦の香りと、加熱された蜜の香りが混ざり合い、空腹でなくとも自然と足が止まってしまう。
「これ、おすすめなんだ。外側がちょっと焦げてるくらいが、一番おいしいんだよ」
エマは慣れた手つきで紙包みを受け取ると、セレスティアの手のひらへ乗せた。
手渡された生地はまだ驚くほど温かく、指先から手のひらへと、じんわりと温もりが移ってくる。
セレスティアは恐る恐る一口齧り、思わず目を丸くした。
ドラクロワ城で供される菓子とは、まるで違うものだった。
城の菓子は繊細で、ピピが丁寧に調節した甘みが舌の上でほどける。
対してこれは、粉の香ばしさや焼き目の苦味が前面に出ており、木の実の粒感も荒削りだ。
けれど、その素朴さの奥には、人の手で焼かれた確かな熱や、この祭りの空気そのものが染み込んでいる。
「……おいしいね。すごく、賑やかな味がする」
セレスティアがぽつりと零すと、エマは我が事のように、嬉しそうに笑った。
少し離れた場所では、ルシアンが腕を組んだまま、二人を見守っていた。
周囲への警戒は、一刻も解いていない。
鼻を微かに動かし、殺意や悪意が混ざっていないかを確認し続けている。
だが、セレスティアが目を輝かせて菓子を頬張る様子を見ているその眼差しは、彼自身が思っているよりもずっと、穏やかな色を湛えていた。
そんな彼に、屋台の男が、焼きたての包みを差し出してきた。
「嬢ちゃんにこれも食わせてやりな。今日の蜜は特別に出来がいいんだ」
ルシアンは反射的に眉を寄せ、鋭い視線を男に向け、いらねぇ、と言いかけた。
だが、セレスティアの視線がその紙包みへ、無垢な憧憬を持って吸い寄せられていることに気づく。
「金はいらねぇよ。前に林道の魔物を払ってもらった礼さ。あんたが片付けてくれなかったら、うちは今頃、荷車ごと食われてた」
屋台の男は気さくに笑う。
数秒の沈黙ののち彼は、溜息をつき、面倒そうに包みを受け取った。
ルシアンは、まるで自分の弱みでも握られたかのように、居心地悪そうな顔をして視線を逸らした。
「……次からは、普通に売れよ」
それだけ吐き捨てると、彼は受け取った菓子を、無言でセレスティアへ差し出した。
セレスティアは弾むようにそれを受け取り、「ありがとう、お父様」と笑みを向ける。
セレスティアは続いて、屋台の男へと向き直った。
「おじさんも、ありがとう!」
その瞬間だけ、ルシアンの濃藍の尾が、感情を隠しきれずにわずかに揺れた。
祭りの灯りがさらに濃く、闇を鮮やかに縁取り始めた頃。
ベルローズは、人波から少し離れた古びた出店の前で、一人の老婆に呼び止められた。
「その、見事な角。もしかして、ドラクロワのお嬢様かい」
掠れているが、温かみのある声だった。
「……ええ」
ベルローズが視線を向けると、そこには深い皺を刻んだ老婆が、杖を手に立っている。
彼女はベルローズの顔を、まるで遠い過去の幻影を辿るように見つめ、目を細めた。
「若い頃、酷い吹雪で夫が死にかけた時があってね。あの時薬を届けてくださったのが、ドラクロワの奥方様だったんだよ」
ベルローズは、静かに息を呑んだ。
それは、彼女がまだこの世に生を受ける前。
ドラクロワの魔女と呼ばれるより、ずっと前の、遠い過去の話。
まだ両親が生きていて、一族がこの地の守護者として、確かに人々の中にあった頃の記憶。
「旦那様も、冬になる前には森の獣を追ってくださってねぇ。おかげで、村の子供たちは飢えずに冬を越せた」
老婆は、懐かしそうに笑う。
その瞳の中にあるのは、長い年月をこの地で生き抜いてきた者だけが抱く、深い感謝と敬意の残り香だった。
伝承への恐怖や、魔女への憎悪は、どこにもない。
「……そう。……教えてくださって、ありがとう」
ベルローズの胸の奥が、ゆっくりと、強く締め付けられていく。
失われた家族と、血に染まった記憶。
二度と戻らない、黄金の日々。
けれどその痕跡は、彼女が背を向けていたはずの外界で、これほどまでに優しく、誰かの人生の一部として息づいていた。
「奥様はとても綺麗な人だったよ。今のあなたにそっくりだ」
その言葉を聞いたベルローズの、深紅の瞳が見開かれ、揺らいだ。
胸の奥で、氷が溶けるような懐かしさと、取り戻せないものへの寂しさが溶け合う。
少し離れた場所から、鈴を転がしたようなセレスティアの笑い声が聞こえてきた。
焼き菓子の包みを抱えてはしゃぐ娘。
不機嫌そうな顔をしながらも、その側を絶対に離れないルシアン。
希少な種袋を、嬉しそうに抱えるアマンダ。
買い込んだ荷物を整理しながら、やれやれと首を振るピピ。
失ったものは、もう戻らない。
けれど今の彼女の隣には、新しく築き上げた、不器用で歪な、愛おしい家族がいる。
ベルローズは静かに振り返り、その光景を慈しむように見つめた。
辺りの灯籠は夜の入り口で柔らかく揺れ、人々の笑い声は尽きることなく響いている。
夜風が、新緑と蜂蜜の香りを運んでくる。
孤独だった魔女は、その喧騒と温もりの中で実感していた。
自分たちもまた、この世界の営みを支える隣人なのだと。




