第35話:人波の中へ ―屋台と人混み、はじめての街―
幾重にも張られた布の天幕が風に膨らみ、赤や黄、深緑や藍色の旗が、空を泳いでいる。
「あれ、何かな?」
セレスティアが指差した先では、色とりどりの細長い布が、何本も伸びていた。
風にひらひらと舞い、端には小さな木片や鈴が結ばれている。
布が風を受けるたび、軽やかな音が鳴った。
「このあたりの風習で、春風を呼ぶとされている、祭りの飾りだそうです」
ピピが、飾りをじっと観察しながら答えた。
どうやらこの日のために、芽吹き祭りの知識を叩き込んできたらしい。
彼の灰色の瞳も、好奇心に輝いている。
続いてセレスティアが目をやった先では、色とりどりの紙が張られた風車が飾られ、春風を受けて回っていた。
からからと乾いた、楽しげな音を立てている。
風車を手にした子供たちが、笑いながら駆けていく。
風を受ければ勢いよく回り、風が止まれば途端に動きを失う。
子供たちは何度も立ち止まっては風車を掲げ、また走り出す。
セレスティアは、そんな光景に目を奪われた。
「素敵だね。私、好きだな。……あれも売ってるのかな?」
ベルローズは、娘の横顔と風車を、交互に見つめた。
幾重にも重なった薄い紙が陽光を透かし、驚くほどに鮮やかだ。
ここから先にも、セレスティアが知らないものや興味を持つものが、きっといくつも待っているだろう。
「気に入ったのなら、後でひとつ買いましょうか」
そう声をかけると、セレスティアがぱっと振り向いた。
「いいの?」
「ええ。欲しいのでしょう? それなら、せっかく来たのだもの」
「うん……!」
穏やかに微笑む母に向かって、セレスティアは小さく頷いた。
小さな楽しみをひとつ胸に抱えて、セレスティアは周囲をきょろきょろと見まわしながら、さらに歩みを進めた。
炭火で焼かれる香草肉の、重たくて芳醇な脂の匂い。
蜂蜜をたっぷり塗った焼き菓子の、鼻腔をくすぐる甘い香り。
大鍋で煮込まれた春野菜の、柔らかな湯気。
それらに加えて、革細工の渋い匂いや、削りたての乾燥した木材の香り。
そして何より、圧倒的な数の中にある、人々の体温と笑い声。
ここには、今日という日を生きる者たちの生活が、厚い地層のように無数に積み重なっていた。
幼子の無邪気な笑い声や、商人の野太い呼び声。
陶器が触れ合う高い音に、遠くの広場で鳴らされる、素朴な弦楽器の旋律。
その全てが一度に押し寄せた情報の洪水に耐えきれず、セレスティアの敏感な耳は、思わず伏せられそうになった。
「……きついなら戻るか?」
不意に、すぐ隣にいたルシアンが、低く問いかけてきた。
彼は娘の様子を案じるように、わずかに身体を寄せて、外界からの盾になろうとしている。
セレスティアは一瞬瞳を閉じたが、すぐに顔を上げ、小さく首を横に振った。
「ううん、大丈夫だよ。ちょっと驚いただけだから」
ルシアンは黙って頷いたが、娘の傍を離れようとはしなかった。
町の入口に差しかかると、周囲の視線が一斉に彼らへと集まった。
ベルローズの峻烈な角。
ルシアンとセレスティアの、耳や尾。
ピピの背で静かに煌めく、結晶質の羽。
アマンダの、どこか浮世離れした柔らかな存在感。
その異質さは、どれほど外套を重ねても、隠しきれるものではなかった。
セレスティアは思わず、ルシアンの外套の端を掴もうとした。
けれど、その時。
不意に、拒絶でも恐怖でもない声が投げかけられる。
「おう、ピピじゃないか! 今日は家族総出でお出ましとは、珍しいこともあるもんだ」
声をかけてきたのは、以前から森の境界の交易拠点で、ピピと取引をしていた商人だった。
彼は荷台の横から大きく手を振り、隣にいた連れに「ほら、前に話したドラクロワの人たちだよ」と説明している。
「ルシアンさんも来たのかい。この前の魔物の素材、おかげで助かったよ。これ、お近づきの印だ」
別の屋台の主からも、屈託のない声が飛ぶ。
「……邪魔すんなよ」
ルシアンは、心底面倒そうに眉を寄せた。
それでも無視することはせず、低く返すにとどめている。
相手もその不器用な反応を承知しているらしく、「相変わらずだねぇ」と笑って受け流す。
ピピは商人たちへ礼儀正しく、それでいて対等に応じている。
アマンダは既に、色とりどりの花の苗や種を並べた店先へと、吸い寄せられていた。
周囲の人々は、最初こそ驚いたように、あるいは畏怖を持って彼らを眺めていた。
しかし、顔見知りの者たちが自然に言葉を交わしている様子を見て、その張り詰めた空気は、ゆっくりと霧散していく。
セレスティアはその変化を、ほとんど呆然と見つめていた。
少なくとも、この町の幾人かにとっての父やピピは、共にこの土地の恵みを分かち合う、偏屈だが義理堅い隣人なのだ。
祭りの中心へと進むにつれ、一行はそれぞれの関心に引かれていった。
アマンダは、見たこともない外の畑の薬草や、乾燥させた野草の束を手に取り、店主と穏やかに、土の性質について語り合っている。
ピピは木工細工の継ぎ目や、金具の鍛え具合を厳しい目で見つめ、城の修復に使えそうな精巧な道具を吟味していた。
ベルローズは、色鮮やかな染め布を扱う店先で足を止めた。
夜の影を染み込ませたような、濃紺や濃紫の布。
その滑らかな質感に、彼女はそっと指を滑らせる。
店主の老婆は、ベルローズの角を驚くふうもなく眺め、枯れ枝のような指で、布を広げて見せた。
「その色は、お客さんのような綺麗な髪によく似合うよ。特に、その角の蒼色と合わせたら、王都の貴婦人だって霞んじまうだろうね」
その言葉に、ベルローズはほんの一瞬だけ、言葉を失った。
けれども、角を覆えとも、化け物だとも言われない。
ただ似合う色を勧められ、ただ一人の客として、その美しさを認められた。
そのあまりにも簡素で真っ直ぐな事実が、彼女の中に沈殿していた冷たい記憶を、静かに揺らし、溶かしていく。
「……では、少し見せていただいても、いいかしら」
ベルローズは穏やかに返し、布の風合いを確かめる作業に戻った。
自分の家族それぞれが、思い思いに過ごす光景を見て、セレスティアの胸にじわりと温かなものが広がった。
人々は、自分たちを完全に理解し、手放しで歓迎しているわけではない。
不気味そうに距離を置く者もいれば、好奇の視線を向ける者もいる。
けれど、感謝の念を抱く者がいて、名前を知っている者がいて。
ただの客として、商品を勧めてくる者がいる。
迫害や恐怖、孤独だけが、人間という種族の全てではない。
この喧騒の中には、たしかに共生という灯火がともっていた。
陽光が傾き始め、町の喧騒がより一層の熱を帯びる頃。
セレスティアは少しだけ人波から離れ、高い石段の上から祭りの全景を見渡した。
「来てよかったね」
「……最後まで見てから決めろよ」
セレスティアが嬉しそうに零した声に、ルシアンが呆れた声で返す。
人間を、心から信じているわけではない。
けれど、娘がこの祭りを通して経験しているものを、真っすぐに受け止めるような声だった。
「うん、まだ見ていく。食べたいものもいっぱいあるんだ」
セレスティアは父を振り返り、輝くような笑みを見せた。
その笑顔の向こうで、祭りの灯りがひとつ、またひとつと灯っていく。
天幕の間には、夜を待たずに、小さな灯りが吊られ始めていた。
風に揺れる布と、尽きることのない人々の笑い声。
町全体が、春を寿ぐ巨大な生き物のように躍動している。
傍らでは、ルシアンがベルローズの買った布を抱えていた。
店主から勧められた美しい藍色や、濃紫の布を纏めた、大きな包みだ。
いつの間に持ち替えたのか、セレスティアにはわからなかった。
アマンダは種の袋を詰めた籠を、宝物のように大切に持ち、ピピは新たに手に入れた道具の具合を点検している。
ルシアンは、相変わらず不機嫌そうな顔で周囲を警戒している。
だが、その眼差しは想像したよりもずっと柔らかい。
セレスティアはそのすべてを、瞳に焼き付けるように見つめた。
外の世界は、ただ怖いだけの場所ではない。
完璧な安全ではなく、絶対的な優しさもないけれど。
それでも、自分たちが自分たちの姿のままで立っていられる場所は、思っていたよりもずっと広く、そして光に満ちている。




