第34話:森の外へ ―自分たちのままで―
「いいでしょう」
ベルローズの言葉に、ルシアンが耳を鋭く動かし、何か言おうと口を開きかけた。
だが、彼女はそれを視線で制す。
それからセレスティアの顔を見つめ、その言葉が一時の好奇心から出たものではないことを確かめるように、しばらく沈黙する。
やがて彼女は、ふたたび口を開いた。
「ただし、条件があるわ」
ベルローズは細い指を折りながら、セレスティアに告げた。
魔力を不用意に使わないこと。
もし好奇心や恐怖の視線を向けられても、すぐに怒ったり傷ついたりせず、まずは相手をよく見ること。
そして、もし少しでも嫌だと感じたら、すぐに帰ってきていいこと。
これは世界を広げるための旅であって、何かに耐えるための試練ではないのだから。
「お母様、ありがとう……」
セレスティアの胸が、熱いもので満たされた。
外へ行くことは、強さを証明することではない。
自分が心地よいと思える場所を、自分の目で見極めるための選択なのだ。
「……わかった。だったら、俺も行く」
ルシアンが不機嫌そうに、断固とした口調で告げた。
苛立たしげに尾を激しく揺らし、眉間には、深い皺が刻まれている。
彼の全身が、不本意であると告げていた。
「人間の群れにお前を放り込んで、何かあってからじゃ遅ぇからな」
ルシアンの低い声に、ピピが呆れたように肩をすくめる。
「それ、君が一番目立つって自覚ある? 耳と尾を隠さないなら、なおさらだよ」
「知るか。俺は俺のやり方で守る。文句があるなら行かねぇぞ」
ルシアンは、そう吐き捨てた。
だが、尾がほんの少しだけ持ち上がり、ゆっくりと左右に揺れている。
本心では、セレスティアの願いを叶えてやりたいという親心が勝っていることが、如実に見てとれた。
「それなら、私も同行しましょう」
ベルローズがふっと、微かな、雪解けのような微笑を浮かべた。
「一人だけ置いていかれるのは、退屈だもの。それに、ルシアンが暴走しないよう、見張る者も必要でしょう?」
「誰が暴走するって?」
「あら、図星かしら」
軽やかな、信頼の滲むやり取りに、大広間の緊張は緩やかに解けていった。
「じゃあ、管理係として僕も行くしかないね。アマンダはどうせ、止めたって行くんだろ?」
「はい、楽しみです」
ピピが腕を組みながら確認すると、アマンダは、静かに微笑んで返した。
セレスティアはそっと母のドレスの袖を掴み、小声で問いかける。
外出の許可が出たからといって、不安が消えてなくなったわけではなかった。
「……あのね。もし、帰りたくなったら、お母様に言っていい?」
「もちろん。私にでも、ルシアンにでも。誰に言ってもいいわ」
静かな声でそう返すベルローズの深紅の瞳は、慈しみの色に満ちている。
彼女はセレスティアの手を受け止め、落ち着かせるようにそっと撫でた。
ピピはセレスティアのために、派手すぎず気品のある、深い紺色の外套を選び出した。
裏地には防寒と、守護の魔法が組み込まれている品だ。
手早く準備を進めるピピに、アマンダが声をかける。
「花の種を見つけたら、少しだけ買ってもいいでしょうか?」
「少しだけ?」
「……籠に入るだけ」
「それ、かなり買う気だろ?」
ピピは呆れたようにアマンダを見つめたが、適当な大きさの編み籠を用意してやろうとしている。
アマンダはのんびりと、町で見つけたい花の種を書き出していた。
ベルローズは鏡の前で、一部が蒼く結晶化した、漆黒の角に指を触れた。
王都にいた頃なら、彼女は迷わずこれを覆い隠していた。
醜いもの、あってはならないものとして。
けれど今、彼女はその角を剥き出しのまま、誇りを持って臨むことを決めていた。
それは過去に対する、静かなる決別でもあった。
セレスティアもまた、母の姿を見て、耳や尾を隠さないと決めた。
自分が何者であるかを偽ってまで、人間の中に受け入れられたいわけではない。
自分たちのまま、春の光の中に立ちたい。
そしてそれは、ルシアンもまた同様だ。
耳も尾も隠すことなく、ただ人混みに備えて襟を立て、警戒を深める程度でかまわない。
彼の態度は、いつもどおり素っ気なかった。
祭りの前夜。
西塔の窓辺に立ち、セレスティアは遠い森の向こうを見つめていた。
まだ夜は深いというのに、風に乗って、微かな気配が届くような気がした。
焚き火の煙や、それに混ざる香草の気配。
そして、焼き菓子の甘い香り。
明日、自分たちは揃って森の外へ出る。
背後には、ピピが用意してくれた外套と、小さな鞄が置かれている。
不安はあるけれど、それを上回る期待が、少女の胸を純粋な輝きで満たしていた。
止まっていた時間が再び動き出し、彼女たちの世界がまた一つ、未知の色彩へと広がろうとしている。
◆
祭り当日の朝。
窓を開ければ、森の奥から若葉の青い匂いと、湿った土の香気が流れ込んでくる。
その香りには、普段の森には存在しない気配が混ざっていた。
遠く人の集う場所から風に乗って届く、薪の煙。
そして、幾千もの体温が攪拌された、特有の熱だった。
セレスティアは、ピピが用意してくれた深い紺色の外套に袖を通すと、鏡の前に立ち、フードを被らずに自分の姿を見つめた。
そこにはぴんと立った獣の耳と、外套の裾から覗く、漆黒に蒼が混ざり込んだ美しい尾がある。
隠そうと思うなら、帽子を深く被って身体を丸め、外套の下へ尾を押し込めば、誤魔化せるだろう。
けれど自分を偽ることなく、この姿のまま外の世界へ出たいのだ。
大広間に集まった家族たちも、それぞれの装いでその時を待っていた。
アマンダは花の種を持ち帰るための小さな籠を抱えて、楽しげに微笑んでいる。
ピピは道中の安全確認と、荷物の最終点検に余念がない。
ベルローズは、黒を基調とした、品のある外出着を纏っている。
剥き出しの角は朝の光を受けて、静かに冷たい光を放っていた。
ルシアンもセレスティア同様、耳も尾も、隠す素振りすら見せない。
いつもの調子で腕を組み、ベルローズに寄り添うようにして立っている。
自らの耳や尾よりも、彼女の角が気にかかるようだった。
城門を出る直前、セレスティアは一度だけ足を止め、振り返って城を見上げた。
今日、自分たちは隠れるためでも、誰かと戦うためでもなく、ただ人々の祝祭の中へ歩いていく。
その事実だけで、彼女の胸の奥は、疼くような震えを止められなかった。
森を抜ける道中は、いつもよりずっと長く感じられた。
家族に囲まれている安心感はある。
それでも、初めて訪れる町という未知の概念を前に、セレスティアの耳の奥は、緊張で微かに鳴っていた。
ルシアンは何も言わずに先頭を歩き、鼻先で風向きを読み、周囲の気配を常に探り続けている。
だが、その歩幅はいつもより明らかに小さい。
ベルローズとセレスティア、そしてピピやアマンダの速度に合わせ、無意識のうちに、己の歩みを調整している。
「いい? 町に着いたらまずは集合場所の確認。買い物をしたいなら、必ず僕かベルローズ様に一言かけること。それからルシアン、不用意に周囲を睨まない。わかった?」
「睨んでねぇだろうが」
ピピが淡々と注意事項を並べると、ルシアンは前を向いたまま、短く返す。
「外の土の匂いは、森の中よりも少しだけ軽いですね」
アマンダは道端に芽吹いた名もなき草へ目を細め、独り言のように呟いた。
そうした家族の何気ないやり取りを聞いているうちに、セレスティアの強張っていた肩の力も、少しずつほどけていく。
けれど森の出口が近づくと、彼女は再び息を呑んだ。
木々の隙間から人々の声が、さざ波のような重なりとなって流れてくる。
境界線を越え、世界は急激に色と音を増していく。
視界が開けた先に広がっていたのは、原色の奔流だった。




