第33話:芽吹きの誘い ―知らない世界を、見てみたい―
禁忌の森に、若葉の香りが色濃く漂い始めた頃。
エマは、ベルローズから教わった薬学の復習を兼ねて、セレスティアのもとを訪れていた。
ベルローズの許可を得て薬室へと入り、自作してきた薬液と、家のそばで摘んできた薬草の包みを広げる。
摘みたてで青臭く、瑞々しい薬草の香りが広がった。
セレスティアはその香りに鼻を動かしたあと、エマが作った薬液をしげしげと眺め、感嘆の声をあげた。
「すごいね、エマ。この間お母様に教わったばかりなのに。もう一人でこんなに、綺麗な色にできるなんて」
「丁寧に教えてもらえたお陰だよ。お父さんもびっくりしてた。ベルローズさんに教わったって言ったら、腰を抜かしそうになってたし。……っていうか、ちょっと抜けてたかも?」
エマは少し誇らしげに笑うと、机の上に広げていた薬草を束にしてまとめ始めた。
その軽口に、セレスティアも思わず笑みを零す。
エマは何気なく、窓の外に広がる深い森の先へと視線を向け、セレスティアに声をかけた。
「そういえばね、セレスティア。もうすぐ森の外の町で『芽吹き祭り』があるんだよ。私が住んでる集落から、ちょっと行ったところ」
「めぶき……、まつり?」
初めて聞く響きに、セレスティアが小首を傾げる。
獣の耳が、興味深そうにエマの方へと向けられた。
「うん。冬の終わりを祝って、これから始まる農作業とか森の恵みに感謝する、一番大きな、生活の祭なの」
屋台が出て、焼き菓子や蜂蜜酒、香草入りの肉串、春野菜のスープなどが並ぶこと。
たくさんの布や小さな工芸品などが売られ、夜には小さな灯りを水辺へ浮かべる習わしもあること。
特別な神を祀るわけではないが、皆で美味しいものを食べたり、歌ったり、踊ったりすること。
エマの語る祭りの情景は、セレスティアにとってお伽話よりも未知で、鮮やかなものだった。
「焼き菓子って、どんな味?」
「蜂蜜や木の実を使っててね、甘いんだよ。あと、焼きたては外がさくっとしてて。食べてみるのがいちばん早いんだけど」
「甘くて、さくさく……」
セレスティアの尾が、左右に大きく揺れる。
森の向こうに、自分たちと同じように春を喜び、誰かと笑い合う人々が無数に存在するという事実。
それが単なる知識ではなく、確かな熱を持った生活の一部として語られる。
セレスティアの胸の中で、小さな鼓動が速まった。
「屋台に、焼き菓子かぁ……。私、行ってみたいな」
思わず零れた、その一言。
セレスティアの耳が、わくわくとした期待で、細かく震える。
それに合わせて、尾も好奇心を隠し切れずに、ぱたぱたと足を叩いた。
「いいじゃない、来たらいいよ!」
エマは、手放しで喜んだ。
だが、セレスティアは口にした直後、自分が何を望んだのかを理解して、微かに息を呑んだ。
森の外縁でエマと会うのとも、エマをこうして城へ招くのとも、わけが違う。
人々の熱気が渦巻く町へ、自分たちの足で踏み込むということ。
自分と父が持つ、獣の耳や尾。母の頭上に聳える、誇らしい角。
精霊であり、姿かたちは人間に似ていても、どこか浮世離れした雰囲気を放つ、ピピやアマンダ。
人間が恐れ、忌避し、時に排除しようとする対象。
その自覚が、セレスティアの心に冷たい不安を投げかける。
楽しいはずの空想の隣に、拒絶されることへの怯えが、鎌首をもたげるようにして現れていた。
けれど、己の中に生まれた渇望を抑え込むことは、もうできそうにない。
「……私、相談してみるよ。お祭りに行ってみたい、って」
セレスティアがそう言うと、エマはぱっと顔を明るくした。
「うん! 絶対そのほうがいいよ。セレスティアが行きたいって思ったこと、伝えたほうがいいと思うな」
その言葉を胸にしまって、セレスティアは小さく笑った。
やがて薬学の復習を終え、エマを送る頃には、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
夕食の席についたセレスティアは、口を開きかけては閉じた。
エマに背中を押された言葉が、胸の奥で何度も形を変えている。
けれどなんとか勇気を振り絞って「祭りに参加したい」と切り出した直後。
大広間の食卓には、いつにも増して沈黙が流れていた。
「わざわざ人間の群れに混ざる必要が、どこにあんだ」
ルシアンの声は抑えられているが、その奥には抜き身の刃のような、鋭利な拒絶が含まれていた。
彼にとって人間とは、不確かで残酷な生き物だ。
祭りとなれば、普段より人の熱も浮つき、酔った者や、不用意に近づく者もいるだろう。
彼らの集う場所は、匂いも音も、不純な感情も、あまりに多すぎる。
大切な娘をそんな混沌の中に晒すなど、彼の本能が許さなかった。
「危なすぎる。……浮ついた連中に、お前を近づけたくねぇ」
「でもお父様。エマが言っていたの。みんなが春を喜ぶための、温かいお祭りなんだって」
「それは、あいつらにとっての話だろ。俺たちみたいなのが紛れ込めば、どうなるかわかったもんじゃねぇ」
ルシアンの言葉に、セレスティアは俯いた。
父の経験に裏付けされた、言い返せない重みが、そこにはあった。
すると、それまで黙っていたピピが、深い溜息をつきながら口を開いた。
「……ま、そうなるよね。でもルシアン、セレスティア様がこれだけ真剣なんだ。もし『行く』となった時の算段くらいは立てておかないと」
ピピは実務的な思考へ即座に切り替え、指を折って数え始めた。
町までの最短経路、混雑する時間を避けた帰着時刻。
目立たない外套の用意、それから万が一の時の集合場所。
「それと、もちろん多少の現金も必要だよね。無計画で突っ込むのは論外。準備は完璧にしないと」
ピピにとっての外界は、警戒すべき要素の集積地だ。
管理しきれない場所を嫌う彼らしい、潔癖なまでの準備だった。
「祭り……。森の花が、一斉に開く時期に似ていますね」
アマンダは穏やかに、琥珀色の瞳をセレスティアへ向けた。
「わたしは、町で売られる花の種や、外の畑で育つ薬草の苗を見てみたいです。きっと、ここの土とは違う歌を歌っているはずですから」
アマンダの言葉には、他者への恐怖よりも、生命の揺らぎに対する純粋な好奇心が溢れていた。
一同の議論を静かに聞いていたベルローズが、ゆったりと椅子に背を預けた。
かつて王都で過ごした日々の記憶が、冷えた硝子越しの景色のように、彼女の脳裏を掠める。
熱狂する民衆の視線。角を隠すための重苦しい飾り。
白いドレスの、締め付けられるような窒息感。
あの日々の人ごみは、自分を完成された道具として、見世物として展示するための舞台でしかなかった。
「……セレスティア」
有無を言わせぬ響きに、セレスティアが顔を上げた。
母の深紅の瞳が、こちらを見据えている。
「あなたは、ただ祭りを見たいの? それとも、人の中に立つ自分を確かめたいの?」
セレスティアは、言葉に詰まった。
胸の奥にある、もどかしいほどの衝動を辿る。
なぜ、これほどまでに町へ行きたいと思うのか。
エマの暮らす世界や、その外側を知りたいと願うのは本当だ。
けれど、それ以上に。
「……たぶん、どっちもかな」
自分が何者なのかを隠して生きていくだけではなく、外の人たちが何を喜び、どんな顔で明日を待っているのかを知りたい。
そして、その中に自分が立っているところを見てみたい。
その言葉はまだ幼く、危ういものだった。
それでも、その瞳に宿る光は、かつてのベルローズが抱くことのなかった意志を伴っている。
誰かに強いられた場所ではなく、自らの意志で一歩外へ踏み出そうとする、確かな勇気。
ベルローズはしばらく沈黙し、ルシアンの厳しい視線を受け止めた後、静かに唇を開いた。




