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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第4章:境界の向こう

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第32話:帰ってきた薬師の娘 ―素敵なお母さんだったよ―

 セレスティアと別れ、森の外縁へと続く、細い道を歩く。

 今日一日、抱えきれないほど詰め込まれた光景や言葉。

 エマの胸には、それらがまだ、確かな熱を持ったまま渦巻いていた。


 薔薇が静かに、呼吸するように咲く古城。

 タルトが放っていた、幸福な甘い香り。

 命を選別する、魔女の薬室。


 ピピは何をするにもきちんとしていて、さりげなく気遣ってくれた。

 アマンダは温室の植物と同じくらい、穏やかな空気を纏っていた。


 厳格さの奥に、微かな慈しみを覗かせた、ベルローズの横顔。

 最後に見送ってくれた、あの無骨な背中で森の闇を払いのけるように歩いていた、ルシアンの姿。


 幼い頃から周囲の大人が語る噂や、古い伝承として聞いてきたもの。

 『禁忌の森の奥に棲む者たち』の、朧げな輪郭。

 今日の経験は、それらをあまりにも鮮やかで、温かい色で塗り替えてしまった。


 森の出口へ近づくにつれ、空気の質が少しずつ変わっていく。

 森特有の重たい匂いに混ざり、慣れ親しんだ、薬草を煎じる煙の香りが流れ始めた。


 やがて、小さな薬師小屋の窓から漏れる橙色の灯りが、木々の隙間に見えたとき。

 エマはどこか安堵したように、長く息を吐いた。

 帰ってきたのだと、身体が安らぎを覚えたのだろう。


 だが、今日見てきた世界の鮮烈さは、決してこの小さな家へ戻ったからといって、薄れてはくれなかった。

 むしろ、普段見慣れているはずの粗末な戸口や、薬草棚の風景。

 それさえ、未知の可能性を秘めた、新しいものとして見え始めていた。


「エマ!」


 戸口を開けた瞬間、奥で薬草を束ねていた父親が、勢いよく立ち上がった。

 彼の髪には白いものが混じり始めているが、その眼差しは今なお鋭い。

 森の側で生きる者特有の、研ぎ澄まされた警戒心を宿している。


 普段は穏やかで寡黙な男だが、一人娘の帰りが遅い日は別だった。

 彼はエマの姿を確認すると、目に見えて肩の力を抜きながらも、すぐに厳しい声を落とした。


「遅かったじゃないか。森の方は、今日は冷え込み始めるのが早かったというのに。何かあったのか?」


「ごめんなさい、お父さん。でもね、今日は本当にお話したいことがたくさんあるの!」


 エマは外套を脱ぐのももどかしい様子で、抱えていた鞄を木製の机へ置いた。

 その中から大切そうに、一つの小瓶を取り出す。

 夕暮れの灯りを受けたその薬液は、淡い琥珀色を湛え、静かに揺れている。


 父親はその瓶を目にした途端、親の顔から、薬師としての目つきへと切り替わった。

 彼は慎重に栓を抜き、立ち上がる香りを確かめる。


「……これは」


 薬草の配合が、あまりにも絶妙だった。

 刺激が強すぎず、それでいて有効成分の芯が、少しもぼやけていない。

 喉を鎮めるための、穏やかな薬湯。

 素材同士の魔力が衝突することなく、一つの調和へと結実している。


 熟練の薬師ですら、配合の誤差で崩してしまう均衡が、ほとんど完璧な形で整えられていた。

 父親は驚きを隠せず、まじまじとエマの顔を見た。


「これを、一体誰と作ったんだ。お前一人の手によるものではないだろう」


 エマは、待ってましたと言わんばかりに、瞳を輝かせる。


「お友達のお母さん。ベルローズさんっていう人なの」


 その瞬間、父親の動きが凍りついたように止まった。

 しばし遅れて、彼はようやく喉の奥から、掠れた声を絞り出す。


「……ベルローズ?」


「うん。ドラクロワ城っていうお城に住んでいるの。お父さん、知ってるよね?」


「あ、あのドラクロワの魔女に……、お前が、直接薬学を教わったというのか!」


 父親は頭を抱え、椅子に崩れるようにして座り込んだ。

 薬師としてこの近隣で生きる以上、ドラクロワの名を知らぬはずがない。


 禁忌の森の恐るべき均衡を、独りで支える魔女。

 かつて王都の魔導院すら迂闊に手を出せなかった、森の深淵そのもの。


 その知識量は伝説めいて語られる一方。

 近づいてはならない、関われば魂を毟り取られる存在として恐れられてきた。


 魔女の私的な薬室へ、自分の娘が招かれ、あまつさえ薬の煎じ方を教わって帰ってきたというのか。

 その現実は、彼の常識を大きく超えていた。

 だがエマは、そんな父の狼狽を、不思議そうに見つめている。


「えぇ? でも、とっても素敵なお母さんだったよ?」


「お前。あの方は生ける伝説なんだぞ」


「ちょっと厳しかったけど、すごく教え方がわかりやすかったの。なんで間違えたのか、どうやって見分ければいいのかを、ちゃんと私を子供扱いしないで教えてくれたんだもの」


 エマは今日の出来事を、堰を切ったように言葉に変えていった。

 ピピの洗練された給仕や身のこなし。

 アマンダがそっと手渡してくれた、丁寧に乾燥された薬草。


 大広間の大きなテーブルで食べた、甘酸っぱいタルト。

 そして、セレスティアが新しい友人を迎えて、どれほど嬉しそうに笑っていたか。


 父親は最初こそ、険しい表情で聞いていた。

 だが、次第にその表情は複雑な、どこか遠い目をするようなものへと変わっていった。


 エマの語るドラクロワ城は、どうやら語り継がれてきたような場所ではないらしい。

 そこにあるのは、どこか不器用で、けれど確かに互いを思い合っている、妙に生活感のある家族の姿だった。


「それにね、帰りもセレスティアのお父さんが送ってくれたから、安心して帰ってこられたんだよ」


「幻獣に……、送ってもらったのか!?」


 再び、父親が頭を抱えた。

 エマはきょとんとして、首を傾げる。


「うん。ルシアンさんが送ってくれたんだよ。……お父さん、そんなに変かな?」


「変、というか。森を侵す者を容赦なく屠る、古の牙なんじゃ……」


 魔女の半身も同然だという、蒼き幻獣。

 彼にとってそれは、伝承の中で語られる、災厄や神罰に近い存在だ。

 王都の重装兵器すら通じぬ、古き怪物。


 その背を、娘は『ちょっと無口で怖いけど、優しいお父さん』として見ている。

 その認識の決定的な差に、父親は軽い眩暈すら覚えていた。


 エマは小さく笑って、父の手をそっと握った。


「でも、お父さんだって言ってたでしょう? 森の奥に住んでいる人たちは、森を守ってくれているんだって」


 父親は言葉を失った。

 確かに、自分はそう教えてきた。

 禁忌の森は危険で、恐ろしい場所だが、悪意だけでは出来ていない。

 

 森で薬草を採り、その恩恵を受けて生きる者として、彼は肌身でそれを知っている。

 森が暴走せず、この土地が今なお豊かな実りを返してくれるのは、深淵に棲む者たちが、絶妙な均衡を保っているからだ。

 そう、半ば信仰のように感じてもいた。


 だがそれは、あくまで遠い天上、あるいは深淵の存在としての理解だった。

 まさか愛娘が、その中心へと無邪気に踏み込み、笑って帰ってくるなど。

 想像の範疇にすら入っていなかった。


 エマは机の上へ、持ち帰った小瓶や薬草を、大事そうに並べていく。

 ベルローズから教わった知識を、その指先が忘れないように。

 質感の一つ一つを確かめるようにして。


 そんな娘の横顔を見つめながら、父親はふと気づく。

 エマの瞳は、今朝家を出る時よりも、ずっと強く、深い輝きを宿していた。


 単なる森への憧れや、子供らしい好奇心には留まらない。

 命を救うための、真実の知識に触れた者の目だった。

 父親は長く息を吐き出し、古びた椅子へと深く腰掛けた。


「……次に行く時は、ちゃんと明るいうちに帰ってこい。お前の帰りが遅いと、私の心臓が保たないよ」


 その言葉に、エマの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、また行ってもいいの?」


 父親はしばらく黙り込み、やがて諦めたような苦笑を浮かべて、肩を落とした。


「……止めても、お前は行くだろうさ。魔女様に、これほど筋のいい薬を作らせるまで仕込まれたんだからな」


 エマは嬉しそうに、声を上げて笑った。

 小さな薬師小屋に灯る柔らかな光の中で、笑顔が温かく揺れている。

 禁忌の森と外界を繋ぐ、まだ細く頼りない灯火が今夜、その輝きを増した。

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