第31話:魔女の薬室 ―魔女は色々、ちゃんと見ている―
午後の陽光が、食堂を薄い膜のように包む中。
たっぷりとお茶とタルトを楽しんだエマが、ふいに尋ねた。
「ねぇセレスティア。私、セレスティアが言ってた温室もぜひ見てみたいな。いい?」
薬師の娘であるエマ。
彼女は、この城には一体どんな温室があるのか、どんな植物が育てられているのか。
それが気になって仕方なかったのだ。
セレスティアは彼女の好奇心を感じ取ると、弾けるように微笑み、手を差し出した。
「もちろんだよ。行こう?」
エマはセレスティアに連れられ、温室の奥へと足を踏み入れた。
そこで彼女が目にしたのは、薬草の山を前にして座るベルローズの姿だった。
傍らには当然のように、ルシアンが控えている。
だが、鋭敏な嗅覚を持つ彼にとって、この場所はあまりに落ち着かないようで、尾の動きだけが妙に忙しない。
ベルローズの、黒いレースの手袋に包まれた指先が、流れるような動作で薬草を手に取る。
茎の絶妙な色味を読み取り、鼻先へ寄せては、その奥に潜む微細な魔力の滲みを確かめる。
不要と判断された葉は、迷いのない所作で籠の外へと除けられていく。
その手つきは、冷徹なまでの正確さを宿していた。
エマはその光景を前にして、一目で理解した。
セレスティアの母は、命を薬に変えるための膨大な知識を持ち、一歩誤れば毒へと転じる、危うい境界を見極める。
深淵のような技術を身につけた人なのだ。
エマはしばらく言葉を失って、その作業を見つめていた。
それでもやがて、胸の鼓動を抑え、思い切って声をかけた。
「あの。……ベルローズさん。私にも、少しだけ教えてもらえませんか」
セレスティアは驚き、エマを見つめる。
だがルシアンまでもが、ぎょっとしたように目を見開いて耳を立てたので、セレスティアはぐっと笑いを噛み殺した。
ベルローズは指先を止め、その深紅の瞳をゆっくりと少女へ向けた。
静寂が温室を満たし、滴り落ちる水音だけが響く。
しばしの沈黙の後、ベルローズは珍しく、悪戯っぽく唇を緩めた。
「……構わないわよ。あなたがついてこられれば、だけれど」
その言葉に宿る重圧に、エマは一瞬だけ気圧された。
だが、彼女は真剣な眼差しで、深く頷いた。
父の手伝いとして薬草を乾かし、煎じ薬の灰汁を掬ってきた。
そんな彼女にとって、目の前の魔女が持つ知識は、恐ろしいほど高度だ。
けれど、同時に喉から手が出るほど渇望していたものだった。
「薬煎じるんなら、俺は行くぞ。鼻が曲がっちまうからな」
「わかったわ、少し待っていて」
ルシアンは、名残惜しそうに耳を伏せながらベルローズから離れ、温室の出入口へと向かっていく。
ベルローズはそんな彼を横目に、声を潜めて言った。
「……ごめんなさいね。娘よりも甘えん坊で困るわ」
「聞こえてんだよ。妙なこと吹き込んでんじゃねぇ」
扉からはみ出した尾だけが不機嫌そうに揺れ、今度こそルシアンは退室していった。
セレスティアは、これも父の耳には届くだろうと思いながらも、我慢しきれずにとうとう噴き出した。
一同は、温室に隣接した薬室へ、場所を移した。
厚い硝子越しに差し込む光は、穏やかに濾過されている。
空気には乾いた草と土、そして金属を思わせる冷たい匂いが、ほんの少し混じっていた。
ベルローズはまず、エマの前に、三種類のよく似た葉を差し出した。
「見た目で選ぶ癖を捨てなさい。薬草は姿よりも、香りと手触りと、生えていた場所の記憶を見るの」
どれも、外見は酷似している。
一つは解熱の妙薬、一つは微かな鎮静作用を持つ葉。
そして最後の一つは、量を誤れば、呼吸を鈍らせ死へと導く毒だった。
エマは緊張に指先を震わせながら葉を嗅ぎ、繊維の硬さを確かめる。
しかし、彼女が選んだ最初の一枚は、正解ではなかった。
ベルローズは、ただ淡々と事実だけを告げた。
「それを病人に煎じていたら、熱が下がる前に、呼吸が浅くなっていたわね」
その凍てつくような冷静さに、エマの背筋に戦慄が走った。
命を扱うということが、どれほど残酷な責任を伴うのかを、突きつけられた瞬間だった。
ベルローズは彼女を突き放さず、驚くほど平易な言葉で説明し始めた。
なぜ間違えたのか、どの香りの芯を拾うべきだったのか。
葉脈のわずかな色の差が、土のどのような成分を示しているのか。
彼女の指導は苛烈で、一切の甘さはない。
けれど、その厳しさはすべて、命を救うという一点において絶対に必要な、誠実さに支えられていた。
セレスティアは傍らでその様子を見守りながら、不思議な感慨に浸っていた。
自分に魔法を教える時の、厳しい師としての姿とも、家で穏やかに紅茶を楽しむ母としての姿とも違う。
今の彼女は、積み上げた知識と冷徹な経験によって、未熟な魂を導いている。
まさに魔女、そのものだった。
エマは何度も立ち止まり、顔をしかめ、指先に残る薬草の苦味に呻いた。
それでも彼女の瞳は、知識の探求に輝いている。
ベルローズはそれを見て、わずかに目を細めた。
エマは単なる好奇心だけで、ここにいるのではない。
この知識を村の誰かのために、守りたい命のために本気で欲しているのだと、彼女には伝わっていた。
やがて三人は、実習へと移った。
生成するのは、春先に出やすい喉の炎症を鎮めるための、穏やかな薬湯だ。
ベルローズは火加減の一つ、投入する順番、煮出しすぎてはならない繊細な香りの変化を、鋭い指示で伝えていく。
「今よ」
「混ぜすぎないで」
「そこで止めなさい」
短く飛ぶ言葉に、エマは必死に食らいついた。
完成した薬湯は、淡い琥珀色を湛え、苦味の奥に春の野のような柔らかな甘みを含んでいた。
ベルローズは杯を一口だけ含み、静かに告げた。
「悪くないわ。あなたの年齢と経験なら、上出来よ」
その言葉を受けた瞬間、エマの顔がぱっと、花が咲いたように明るくなった。
セレスティアはその横顔を見て、自分のことのように胸の奥が温かくなる。
母が、初めて出会った友人に尊敬されている。
そのことが、たまらなく誇らしい。
片付けの最中、エマはふと、薬草を束ねる手を止めた。
窓の外の夕景を眺めるようにして、彼女はぽつりと語り始めた。
「うちはね、お母さんが出て行っちゃったんだ」
努めて、明るく響かせようとする声の奥。
長い年月をかけて日常の一部となった、寂しさが滲んでいる。
「お父さん、その時はすっごく荒れちゃって大変だったの。薬の調合も失敗するし、夜中に外へ出て帰ってこないし。私も小さかったから、何が起きてるのかよく分からなくて……」
セレスティアは、言葉を失った。
ベルローズもまた、作業の手は止めないものの、その言葉を遮ることなく、静かに耳を傾けている。
エマは、少しだけ笑って続けた。
「でも、今は大丈夫。二人でなんとかやってるよ。だからってわけじゃないんだけど……。今日は、セレスティアのお母さんに教えてもらえて、とっても嬉しかったんだ」
その笑顔はあまりに健気で、眩しかった。
憐れみを乞うているのではない。
ただ、自分の欠落していた場所に、今日という日の温かな時間が触れたのだと。
素直に告白しているだけだ。
ベルローズは静かに、エマを見つめた。
その瞳にあるのは憐憫ではなく、もっと深い場所での共感だった。
母を失った子。
そして、母という役割を得て、誰かを包むことを学んだ魔女。
それらが、薬室に漂う陽だまりの中で重なった。
ベルローズはただ、完成したばかりの薬湯を小瓶へ移し、そっと彼女の前へ置いた。
「持って帰りなさい。あなたのお父様にも役立つでしょう」
「……ありがとう。大事に使います」
エマは目を丸くし、やがて宝物を受け取るようにして、嬉しそうに頷いた。
夕刻、ついに別れの時間が訪れた。
「また、知りたいことがあれば来なさい」
ベルローズは、いつもの静かな調子で告げた。
セレスティアは名残惜しそうに彼女の荷物を持ち、ピピは忘れ物がないか、何度も点検している。
アマンダは、乾燥させた希少な薬草を、小さな袋へ詰めて渡した。
ルシアンは少し離れた場所で、腕を組んで立っていたが、やがて短く言う。
「暗くなる前に行くぞ」
エマは驚いたが、彼が途中まで送るつもりなのだと悟り、小さく微笑んだ。
セレスティアも同行し、三人は夕闇の迫る、森の外縁へと向かった。
夕暮れの禁忌の森は、外から来た者には、どこか心細い沈黙が満ちている。
ルシアンは無言で先頭を歩き、行く手を阻む枝を払い、ぬかるみを避ける道を選んでいた。
遠くで獣の気配が動くたび、彼は鋭い視線をそちらへ向けるだけで、その脅威を退けていく。
エマはその大きな背中を見上げながら、改めて思った。
この人は、怖いほど強いけれど、それ以上にちゃんと、優しいのだと。
森の境界、外界へと続く道の入り口で、三人は立ち止まった。
エマは振り返り、セレスティアへ満面の笑みを向けた。
「……また、行ってもいい?」
「もちろん。待ってるね」
セレスティアは、迷いなく頷いた。
「次は、もっと早い時間に来い」
「はい!」
ぶっきらぼうに付け加えるルシアンに、エマは少し緊張しながらも、誇らしげに返事をした。
やがて、エマの小さな背中が、外界へと続く道の向こうへ消えていく。
セレスティアはその姿を、胸の奥に灯る暖かな寂しさと共に見送った。
城へと戻る道すがら、ルシアンが低く、独り言のように呟く。
「……悪いやつじゃねぇな」
セレスティアは父を見上げ、その一言だけで十分だというように、嬉しそうに笑った。
春の夕闇が、森を包み込む中。
ドラクロワ城へと戻る二人の足元には、外の世界と繋がったばかりの道が、確かに続いていた。




