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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第4章:境界の向こう

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第31話:魔女の薬室 ―魔女は色々、ちゃんと見ている―

 午後の陽光が、食堂を薄い膜のように包む中。

 たっぷりとお茶とタルトを楽しんだエマが、ふいに尋ねた。


「ねぇセレスティア。私、セレスティアが言ってた温室もぜひ見てみたいな。いい?」


 薬師の娘であるエマ。

 彼女は、この城には一体どんな温室があるのか、どんな植物が育てられているのか。

 それが気になって仕方なかったのだ。

 セレスティアは彼女の好奇心を感じ取ると、弾けるように微笑み、手を差し出した。


「もちろんだよ。行こう?」


 エマはセレスティアに連れられ、温室の奥へと足を踏み入れた。

 そこで彼女が目にしたのは、薬草の山を前にして座るベルローズの姿だった。


 傍らには当然のように、ルシアンが控えている。

 だが、鋭敏な嗅覚を持つ彼にとって、この場所はあまりに落ち着かないようで、尾の動きだけが妙に忙しない。


 ベルローズの、黒いレースの手袋に包まれた指先が、流れるような動作で薬草を手に取る。

 茎の絶妙な色味を読み取り、鼻先へ寄せては、その奥に潜む微細な魔力の滲みを確かめる。


 不要と判断された葉は、迷いのない所作で籠の外へと除けられていく。

 その手つきは、冷徹なまでの正確さを宿していた。


 エマはその光景を前にして、一目で理解した。

 セレスティアの母は、命を薬に変えるための膨大な知識を持ち、一歩誤れば毒へと転じる、危うい境界を見極める。

 深淵のような技術を身につけた人なのだ。


 エマはしばらく言葉を失って、その作業を見つめていた。

 それでもやがて、胸の鼓動を抑え、思い切って声をかけた。


「あの。……ベルローズさん。私にも、少しだけ教えてもらえませんか」


 セレスティアは驚き、エマを見つめる。

 だがルシアンまでもが、ぎょっとしたように目を見開いて耳を立てたので、セレスティアはぐっと笑いを噛み殺した。


 ベルローズは指先を止め、その深紅の瞳をゆっくりと少女へ向けた。

 静寂が温室を満たし、滴り落ちる水音だけが響く。

 しばしの沈黙の後、ベルローズは珍しく、悪戯っぽく唇を緩めた。


「……構わないわよ。あなたがついてこられれば、だけれど」


 その言葉に宿る重圧に、エマは一瞬だけ気圧された。

 だが、彼女は真剣な眼差しで、深く頷いた。


 父の手伝いとして薬草を乾かし、煎じ薬の灰汁を掬ってきた。

 そんな彼女にとって、目の前の魔女が持つ知識は、恐ろしいほど高度だ。

 けれど、同時に喉から手が出るほど渇望していたものだった。


「薬煎じるんなら、俺は行くぞ。鼻が曲がっちまうからな」


「わかったわ、少し待っていて」


 ルシアンは、名残惜しそうに耳を伏せながらベルローズから離れ、温室の出入口へと向かっていく。

 ベルローズはそんな彼を横目に、声を潜めて言った。


「……ごめんなさいね。娘よりも甘えん坊で困るわ」


「聞こえてんだよ。妙なこと吹き込んでんじゃねぇ」


 扉からはみ出した尾だけが不機嫌そうに揺れ、今度こそルシアンは退室していった。

 セレスティアは、これも父の耳には届くだろうと思いながらも、我慢しきれずにとうとう噴き出した。


 一同は、温室に隣接した薬室へ、場所を移した。

 厚い硝子越しに差し込む光は、穏やかに濾過されている。

 空気には乾いた草と土、そして金属を思わせる冷たい匂いが、ほんの少し混じっていた。


 ベルローズはまず、エマの前に、三種類のよく似た葉を差し出した。


「見た目で選ぶ癖を捨てなさい。薬草は姿よりも、香りと手触りと、生えていた場所の記憶を見るの」


 どれも、外見は酷似している。

 一つは解熱の妙薬、一つは微かな鎮静作用を持つ葉。

 そして最後の一つは、量を誤れば、呼吸を鈍らせ死へと導く毒だった。


 エマは緊張に指先を震わせながら葉を嗅ぎ、繊維の硬さを確かめる。

 しかし、彼女が選んだ最初の一枚は、正解ではなかった。

 ベルローズは、ただ淡々と事実だけを告げた。


「それを病人に煎じていたら、熱が下がる前に、呼吸が浅くなっていたわね」


 その凍てつくような冷静さに、エマの背筋に戦慄が走った。

 命を扱うということが、どれほど残酷な責任を伴うのかを、突きつけられた瞬間だった。

 ベルローズは彼女を突き放さず、驚くほど平易な言葉で説明し始めた。


 なぜ間違えたのか、どの香りの芯を拾うべきだったのか。

 葉脈のわずかな色の差が、土のどのような成分を示しているのか。


 彼女の指導は苛烈で、一切の甘さはない。

 けれど、その厳しさはすべて、命を救うという一点において絶対に必要な、誠実さに支えられていた。


 セレスティアは傍らでその様子を見守りながら、不思議な感慨に浸っていた。

 自分に魔法を教える時の、厳しい師としての姿とも、家で穏やかに紅茶を楽しむ母としての姿とも違う。


 今の彼女は、積み上げた知識と冷徹な経験によって、未熟な魂を導いている。

 まさに魔女、そのものだった。


 エマは何度も立ち止まり、顔をしかめ、指先に残る薬草の苦味に呻いた。

 それでも彼女の瞳は、知識の探求に輝いている。


 ベルローズはそれを見て、わずかに目を細めた。

 エマは単なる好奇心だけで、ここにいるのではない。

 この知識を村の誰かのために、守りたい命のために本気で欲しているのだと、彼女には伝わっていた。


 やがて三人は、実習へと移った。

 生成するのは、春先に出やすい喉の炎症を鎮めるための、穏やかな薬湯だ。

 ベルローズは火加減の一つ、投入する順番、煮出しすぎてはならない繊細な香りの変化を、鋭い指示で伝えていく。


「今よ」

「混ぜすぎないで」

「そこで止めなさい」


 短く飛ぶ言葉に、エマは必死に食らいついた。

 完成した薬湯は、淡い琥珀色を湛え、苦味の奥に春の野のような柔らかな甘みを含んでいた。

 ベルローズは杯を一口だけ含み、静かに告げた。


「悪くないわ。あなたの年齢と経験なら、上出来よ」


 その言葉を受けた瞬間、エマの顔がぱっと、花が咲いたように明るくなった。

 セレスティアはその横顔を見て、自分のことのように胸の奥が温かくなる。


 母が、初めて出会った友人に尊敬されている。

 そのことが、たまらなく誇らしい。


 片付けの最中、エマはふと、薬草を束ねる手を止めた。

 窓の外の夕景を眺めるようにして、彼女はぽつりと語り始めた。


「うちはね、お母さんが出て行っちゃったんだ」


 努めて、明るく響かせようとする声の奥。

 長い年月をかけて日常の一部となった、寂しさが滲んでいる。


「お父さん、その時はすっごく荒れちゃって大変だったの。薬の調合も失敗するし、夜中に外へ出て帰ってこないし。私も小さかったから、何が起きてるのかよく分からなくて……」


 セレスティアは、言葉を失った。

 ベルローズもまた、作業の手は止めないものの、その言葉を遮ることなく、静かに耳を傾けている。

 エマは、少しだけ笑って続けた。


「でも、今は大丈夫。二人でなんとかやってるよ。だからってわけじゃないんだけど……。今日は、セレスティアのお母さんに教えてもらえて、とっても嬉しかったんだ」


 その笑顔はあまりに健気で、眩しかった。

 憐れみを乞うているのではない。

 ただ、自分の欠落していた場所に、今日という日の温かな時間が触れたのだと。

 素直に告白しているだけだ。


 ベルローズは静かに、エマを見つめた。

 その瞳にあるのは憐憫ではなく、もっと深い場所での共感だった。


 母を失った子。

 そして、母という役割を得て、誰かを包むことを学んだ魔女。

 それらが、薬室に漂う陽だまりの中で重なった。

 ベルローズはただ、完成したばかりの薬湯を小瓶へ移し、そっと彼女の前へ置いた。


「持って帰りなさい。あなたのお父様にも役立つでしょう」


「……ありがとう。大事に使います」


 エマは目を丸くし、やがて宝物を受け取るようにして、嬉しそうに頷いた。


 夕刻、ついに別れの時間が訪れた。


「また、知りたいことがあれば来なさい」


 ベルローズは、いつもの静かな調子で告げた。

 セレスティアは名残惜しそうに彼女の荷物を持ち、ピピは忘れ物がないか、何度も点検している。

 アマンダは、乾燥させた希少な薬草を、小さな袋へ詰めて渡した。


 ルシアンは少し離れた場所で、腕を組んで立っていたが、やがて短く言う。


「暗くなる前に行くぞ」


 エマは驚いたが、彼が途中まで送るつもりなのだと悟り、小さく微笑んだ。


 セレスティアも同行し、三人は夕闇の迫る、森の外縁へと向かった。

 夕暮れの禁忌の森は、外から来た者には、どこか心細い沈黙が満ちている。


 ルシアンは無言で先頭を歩き、行く手を阻む枝を払い、ぬかるみを避ける道を選んでいた。

 遠くで獣の気配が動くたび、彼は鋭い視線をそちらへ向けるだけで、その脅威を退けていく。


 エマはその大きな背中を見上げながら、改めて思った。

 この人は、怖いほど強いけれど、それ以上にちゃんと、優しいのだと。


 森の境界、外界へと続く道の入り口で、三人は立ち止まった。

 エマは振り返り、セレスティアへ満面の笑みを向けた。


「……また、行ってもいい?」


「もちろん。待ってるね」


 セレスティアは、迷いなく頷いた。


「次は、もっと早い時間に来い」


「はい!」


 ぶっきらぼうに付け加えるルシアンに、エマは少し緊張しながらも、誇らしげに返事をした。

 やがて、エマの小さな背中が、外界へと続く道の向こうへ消えていく。

 セレスティアはその姿を、胸の奥に灯る暖かな寂しさと共に見送った。


 城へと戻る道すがら、ルシアンが低く、独り言のように呟く。


「……悪いやつじゃねぇな」


 セレスティアは父を見上げ、その一言だけで十分だというように、嬉しそうに笑った。

 春の夕闇が、森を包み込む中。

 ドラクロワ城へと戻る二人の足元には、外の世界と繋がったばかりの道が、確かに続いていた。

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