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幻獣と魔女の箱庭 ~愛を知った幻獣は、案外しつこい。~  作者: 彩羽やよい
第3章:悠久の庭園

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第18話:市場のまなざし ―幻獣と精霊の交易―

 初冬へ向かう風が、禁忌の森の梢を鳴らし、城の回廊を吹き抜けていく。

 薔薇園からは、夏の濃密な芳香が削ぎ落とされた。

 代わりに土の冷たさと、冬を待つ、乾いた空気が立ちのぼる。


 夜明け前の前庭。

 まだ青い闇が石畳に張り付く中、ピピが几帳面な手つきで、荷箱の積荷を確認している。


「……今日は、寒くなりそうだね」


 箱に収められているのは、ドラクロワ城が蓄えてきた、生命の欠片たちだ。

 アマンダが温室で栽培し、丁寧に乾燥加工を施した、稀少な薬草。

 夜露をその花弁に閉じ込めたまま、保存瓶の中で淡く明滅する星灯り草。


 ベルローズの緻密な魔力調整によって、数月のあいだは灯り続けるという簡易魔導灯。

 ピピ自身の審美眼で選び出す、希少な鉱石や魔石。

 さらには、ルシアンが城を脅かす魔物を仕留めた際に得られた、強靭な素材までが、行儀よく並んでいる。


 かつてこの城は、外界とは切り離されていた。

 それが今では、森の外に点在する交易拠点へ、定期的に物資を卸すまでになっている。

 辺境に住まう人々は、確かな効能を持つ薬草や技術に、揺るぎない信頼を寄せ始めていた。


「よし、今日も完璧。……ルシアンはどう? もう行けそう?」


「ああ。俺はいつでも構わねぇ」


 ルシアンは荷車の横に立ち、白み始めた空を仰いでいた。

 彼は外界へ出る際には何よりも人目を避け、可能な限り気配を殺してきた。


 しかし今の彼は、揺れる耳も、重たげに垂れた尾も隠そうとはしない。

 その変化を最も不思議に感じ、同時に得体の知れない落ち着かなさを抱いているのは、他ならぬルシアン本人だった。


 以前の彼にとって、人間の視線は常に、不愉快なものと結びついていた。

 拘束、利用、所有欲。

 あるいは畏怖や、純粋な敵意。

 だからこそ、こうして人間の姿を選んだ後も、彼は自らの姿を晒すことを、極端に嫌っていた。


 だが今、取引に集う人々の反応は、彼が知るどれとも異なっている。

 王都の魔導院が差し向けていた兵器や軍を退け、森を守護した幻獣として。

 彼らはルシアンを、一種の英雄譚のように語り継いでいるのだ。


「……だから嫌なんだよ。好き勝手に話を盛りやがって」


 荷車を力強く押し出しながら、ルシアンが低く毒づいた。

 その不機嫌そうな呟きに、隣を歩くピピが肩を竦める。


「でも事実だろ? 実際、王都の連中が昔以上に森へ踏み込まなくなったのは、あの日まとめて叩き潰した後からなんだから。近隣の村からすれば、君は充分に語り継がれるべき、伝説の幻獣だよ」


「気味悪ぃ。俺は別に、誰かを救おうとして暴れたわけじゃねぇ」


「はいはい、わかってるよ。ベルローズ様に牙剥いた奴を、片付けただけね。……あとついでに、城と僕たちのため」


 ルシアンは露骨に眉をひそめたが、即座に否定はしなかった。

 ピピはそれを見て、どこか愉快そうに唇を綻ばせる。


 かつて王都を相手に共に戦い、崩壊の淵で城を支え続けた二人。

 冷たい朝の空気の中で交わされる軽口には、長い共闘の末に醸成された、戦友としての重みが滲んでいた。


 ◆


 交易拠点に到着する頃には、市場は冬支度を急ぐ活気に満ちていた。

 乾燥肉を炙る、香ばしい匂い。湿った薪が爆ぜる煙。

 冷気に晒されて凝縮された、果実の甘い香り。


 石畳の路地には、厚手の外套を深く羽織った人々が行き交っている。

 彼らはドラクロワの紋章を刻んだ荷車を見つけると、以前のように怯えて道を開けるのではなく、親しみを込めた会釈を寄越すようになっていた。


「あの魔物の牙と爪、まだ在庫はあるか?」


「ピピさん、この前の薬草、あれのおかげで(せがれ)の熱が引いたよ」


「なぁ、あの光る花はあるかい? 娘がどうしても、あれじゃなきゃ嫌だって聞かなくてね」


 次々と声をかけてくる村人や商人たちに対し、ピピは淀みない手際で応じていく。

 にこやかな態度と輝く銀髪、人間にはない神秘的な光を宿した灰色の瞳。

 結晶質の小さな羽や、少年とも青年ともつかない、中性的な美貌。

 愛想が良く丁寧で、商品の説明も上手いピピは、この市場で一定の人気を誇っている。


 一方、ルシアンの常人離れした高身長、深い夜を溶かし込んだような、濃藍の髪。

 そして、意思を持って揺れる耳と尾。

 それ以上に、研ぎ澄まされた刃のようなその顔立ちは、市場の娘たちが遠巻きに熱い視線を送るには、充分すぎる理由となっていた。


「あの二人、ずいぶん前からあの姿だって聞くけど。人間じゃないらしいし」


「そうなの? でもそんなこと、どうでもいいわ……」


 周囲から漏れ聞こえてくる声と、肌に張り付くような視線。

 その熱を、ルシアンはひたすらに鬱陶しそうな顔で受け流していた。


「……相変わらず、すっごい見られてるね」


 ピピが商品を手渡しながら、横目でからかうように言った。

 ピピはセレスティアが産まれるよりもずっと昔から、ルシアンと共に外界へ出ている。

 ルシアンがこれほどまでの容貌を持ちながら、本人にその自覚が欠片もないことも熟知していた。


「あんたもだろ?」


「僕は接客担当だから。でもそりゃ僕より君の方が目立つでしょ。顔だけはいいんだし」


「……顔だけってなんだ」


 不満げに睨みつけてくるルシアンに、ピピは思わず明るい笑い声を上げた。

 ルシアンには、自分がどれほど整った容姿をしているのかという自覚が、本当に欠落している。


 彼にとって重要なのは、耳が聞こえるか、牙が敵を噛み砕けるか、尾が家族を守れるか。それだけだ。

 ルシアンは深い溜息をつくと、蒼い瞳を呆れたように細めてピピを見た。


「……あのな、馬鹿か。俺はそもそもベルローズ以外に興味ねぇし、でかい子供だっているんだぞ」


「でかい子供って。もう十五歳だよ、セレスティア様は」


「俺からすりゃ、昨日まで俺の尾にぶら下がって涎垂らしてた赤ん坊だ」


 ルシアンは吐き捨てるように言い、重量のある荷箱を無造作に持ち上げた。

 しかし、その素っ気ない声色には、どうしようもない愛おしさが混ざり込んでいる。


 そんな彼の横を、小さな子供たちが恐る恐る、覗き込むように通り過ぎていく。

 その視線は怯えではなく、純粋な好奇心だった。


 ルシアンは、面倒そうに眉を寄せた。

 しかし、尾を引っ込めたり、避けるようには動かない。


 その時、一人の少年が石畳の段差へ足を取られ、大きく体勢を崩す。

 瞬間、ルシアンの尾が反射的に動き、その身体を柔らかく支えていた。

 転倒寸前で止められた少年は、呆然と目を瞬かせ、その母親は蒼白になって駆け寄ってくる。


「す、すみません……!」


「別に。怪我してねぇならいい」


 ルシアンはそれだけ言って、尾を引き戻した。

 少年は驚きよりも、興奮の方が勝ったらしい。

「すごい……」と小さく呟きながら、憧れを含んだ視線で尾を見つめている。

 ルシアンは、居心地悪そうに視線を逸らした。


 昔の自分なら、異形を見つめる人間の目など、敵意としか認識できなかったはずだ。

 しかし今、そこにあるのは恐怖ではなく、ただの無垢な驚きだった。

 その事実にどう反応していいのか、彼自身まだわかっていない。

 彼は少年に蒼い目だけを向けると、威嚇しないよう声を抑えて言った。


「ちゃんと前見て歩け。母ちゃんのそばを離れんなよ」


 その声色には、子供という小さな生き物を慈しんできた父親としての顔が、確かに宿っていた。


 ピピはその様子を、少し離れた場所から静かに眺めていた。

 昔のルシアンなら、人目を浴びる前に牙を剥き、尾を逆立てて威嚇していたように思う。


 だが今の彼は、鬱陶しそうな顔こそするものの、小さな子供から向けられた好奇心に、本気で怒ることもない。

 自分の尾で誰かを守ることに、躊躇いすら見せなくなっている。

 孤独という檻の中でしか生きられなかった幻獣は、少しずつ、世界との距離を変え始めているのだ。


 市場のざわめきの中で、冷たい初冬の陽光が、ルシアンの濃藍の髪を照らしていた。

 その横顔には未だ、不機嫌さが色濃く残っている。


 それでも、ピピにはわかっていた。

 今のルシアンはもう、誰にも触れられたくないと、牙を剥いたりはしない。


 ベルローズとセレスティア。そしてドラクロワ城という、帰る場所を持ったことで。

 彼はようやく、世界に対して威嚇を解いているのだと。

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