第18話:市場のまなざし ―幻獣と精霊の交易―
初冬へ向かう風が、禁忌の森の梢を鳴らし、城の回廊を吹き抜けていく。
薔薇園からは、夏の濃密な芳香が削ぎ落とされた。
代わりに土の冷たさと、冬を待つ、乾いた空気が立ちのぼる。
夜明け前の前庭。
まだ青い闇が石畳に張り付く中、ピピが几帳面な手つきで、荷箱の積荷を確認している。
「……今日は、寒くなりそうだね」
箱に収められているのは、ドラクロワ城が蓄えてきた、生命の欠片たちだ。
アマンダが温室で栽培し、丁寧に乾燥加工を施した、稀少な薬草。
夜露をその花弁に閉じ込めたまま、保存瓶の中で淡く明滅する星灯り草。
ベルローズの緻密な魔力調整によって、数月のあいだは灯り続けるという簡易魔導灯。
ピピ自身の審美眼で選び出す、希少な鉱石や魔石。
さらには、ルシアンが城を脅かす魔物を仕留めた際に得られた、強靭な素材までが、行儀よく並んでいる。
かつてこの城は、外界とは切り離されていた。
それが今では、森の外に点在する交易拠点へ、定期的に物資を卸すまでになっている。
辺境に住まう人々は、確かな効能を持つ薬草や技術に、揺るぎない信頼を寄せ始めていた。
「よし、今日も完璧。……ルシアンはどう? もう行けそう?」
「ああ。俺はいつでも構わねぇ」
ルシアンは荷車の横に立ち、白み始めた空を仰いでいた。
彼は外界へ出る際には何よりも人目を避け、可能な限り気配を殺してきた。
しかし今の彼は、揺れる耳も、重たげに垂れた尾も隠そうとはしない。
その変化を最も不思議に感じ、同時に得体の知れない落ち着かなさを抱いているのは、他ならぬルシアン本人だった。
以前の彼にとって、人間の視線は常に、不愉快なものと結びついていた。
拘束、利用、所有欲。
あるいは畏怖や、純粋な敵意。
だからこそ、こうして人間の姿を選んだ後も、彼は自らの姿を晒すことを、極端に嫌っていた。
だが今、取引に集う人々の反応は、彼が知るどれとも異なっている。
王都の魔導院が差し向けていた兵器や軍を退け、森を守護した幻獣として。
彼らはルシアンを、一種の英雄譚のように語り継いでいるのだ。
「……だから嫌なんだよ。好き勝手に話を盛りやがって」
荷車を力強く押し出しながら、ルシアンが低く毒づいた。
その不機嫌そうな呟きに、隣を歩くピピが肩を竦める。
「でも事実だろ? 実際、王都の連中が昔以上に森へ踏み込まなくなったのは、あの日まとめて叩き潰した後からなんだから。近隣の村からすれば、君は充分に語り継がれるべき、伝説の幻獣だよ」
「気味悪ぃ。俺は別に、誰かを救おうとして暴れたわけじゃねぇ」
「はいはい、わかってるよ。ベルローズ様に牙剥いた奴を、片付けただけね。……あとついでに、城と僕たちのため」
ルシアンは露骨に眉をひそめたが、即座に否定はしなかった。
ピピはそれを見て、どこか愉快そうに唇を綻ばせる。
かつて王都を相手に共に戦い、崩壊の淵で城を支え続けた二人。
冷たい朝の空気の中で交わされる軽口には、長い共闘の末に醸成された、戦友としての重みが滲んでいた。
◆
交易拠点に到着する頃には、市場は冬支度を急ぐ活気に満ちていた。
乾燥肉を炙る、香ばしい匂い。湿った薪が爆ぜる煙。
冷気に晒されて凝縮された、果実の甘い香り。
石畳の路地には、厚手の外套を深く羽織った人々が行き交っている。
彼らはドラクロワの紋章を刻んだ荷車を見つけると、以前のように怯えて道を開けるのではなく、親しみを込めた会釈を寄越すようになっていた。
「あの魔物の牙と爪、まだ在庫はあるか?」
「ピピさん、この前の薬草、あれのおかげで倅の熱が引いたよ」
「なぁ、あの光る花はあるかい? 娘がどうしても、あれじゃなきゃ嫌だって聞かなくてね」
次々と声をかけてくる村人や商人たちに対し、ピピは淀みない手際で応じていく。
にこやかな態度と輝く銀髪、人間にはない神秘的な光を宿した灰色の瞳。
結晶質の小さな羽や、少年とも青年ともつかない、中性的な美貌。
愛想が良く丁寧で、商品の説明も上手いピピは、この市場で一定の人気を誇っている。
一方、ルシアンの常人離れした高身長、深い夜を溶かし込んだような、濃藍の髪。
そして、意思を持って揺れる耳と尾。
それ以上に、研ぎ澄まされた刃のようなその顔立ちは、市場の娘たちが遠巻きに熱い視線を送るには、充分すぎる理由となっていた。
「あの二人、ずいぶん前からあの姿だって聞くけど。人間じゃないらしいし」
「そうなの? でもそんなこと、どうでもいいわ……」
周囲から漏れ聞こえてくる声と、肌に張り付くような視線。
その熱を、ルシアンはひたすらに鬱陶しそうな顔で受け流していた。
「……相変わらず、すっごい見られてるね」
ピピが商品を手渡しながら、横目でからかうように言った。
ピピはセレスティアが産まれるよりもずっと昔から、ルシアンと共に外界へ出ている。
ルシアンがこれほどまでの容貌を持ちながら、本人にその自覚が欠片もないことも熟知していた。
「あんたもだろ?」
「僕は接客担当だから。でもそりゃ僕より君の方が目立つでしょ。顔だけはいいんだし」
「……顔だけってなんだ」
不満げに睨みつけてくるルシアンに、ピピは思わず明るい笑い声を上げた。
ルシアンには、自分がどれほど整った容姿をしているのかという自覚が、本当に欠落している。
彼にとって重要なのは、耳が聞こえるか、牙が敵を噛み砕けるか、尾が家族を守れるか。それだけだ。
ルシアンは深い溜息をつくと、蒼い瞳を呆れたように細めてピピを見た。
「……あのな、馬鹿か。俺はそもそもベルローズ以外に興味ねぇし、でかい子供だっているんだぞ」
「でかい子供って。もう十五歳だよ、セレスティア様は」
「俺からすりゃ、昨日まで俺の尾にぶら下がって涎垂らしてた赤ん坊だ」
ルシアンは吐き捨てるように言い、重量のある荷箱を無造作に持ち上げた。
しかし、その素っ気ない声色には、どうしようもない愛おしさが混ざり込んでいる。
そんな彼の横を、小さな子供たちが恐る恐る、覗き込むように通り過ぎていく。
その視線は怯えではなく、純粋な好奇心だった。
ルシアンは、面倒そうに眉を寄せた。
しかし、尾を引っ込めたり、避けるようには動かない。
その時、一人の少年が石畳の段差へ足を取られ、大きく体勢を崩す。
瞬間、ルシアンの尾が反射的に動き、その身体を柔らかく支えていた。
転倒寸前で止められた少年は、呆然と目を瞬かせ、その母親は蒼白になって駆け寄ってくる。
「す、すみません……!」
「別に。怪我してねぇならいい」
ルシアンはそれだけ言って、尾を引き戻した。
少年は驚きよりも、興奮の方が勝ったらしい。
「すごい……」と小さく呟きながら、憧れを含んだ視線で尾を見つめている。
ルシアンは、居心地悪そうに視線を逸らした。
昔の自分なら、異形を見つめる人間の目など、敵意としか認識できなかったはずだ。
しかし今、そこにあるのは恐怖ではなく、ただの無垢な驚きだった。
その事実にどう反応していいのか、彼自身まだわかっていない。
彼は少年に蒼い目だけを向けると、威嚇しないよう声を抑えて言った。
「ちゃんと前見て歩け。母ちゃんのそばを離れんなよ」
その声色には、子供という小さな生き物を慈しんできた父親としての顔が、確かに宿っていた。
ピピはその様子を、少し離れた場所から静かに眺めていた。
昔のルシアンなら、人目を浴びる前に牙を剥き、尾を逆立てて威嚇していたように思う。
だが今の彼は、鬱陶しそうな顔こそするものの、小さな子供から向けられた好奇心に、本気で怒ることもない。
自分の尾で誰かを守ることに、躊躇いすら見せなくなっている。
孤独という檻の中でしか生きられなかった幻獣は、少しずつ、世界との距離を変え始めているのだ。
市場のざわめきの中で、冷たい初冬の陽光が、ルシアンの濃藍の髪を照らしていた。
その横顔には未だ、不機嫌さが色濃く残っている。
それでも、ピピにはわかっていた。
今のルシアンはもう、誰にも触れられたくないと、牙を剥いたりはしない。
ベルローズとセレスティア。そしてドラクロワ城という、帰る場所を持ったことで。
彼はようやく、世界に対して威嚇を解いているのだと。




