第17話:時の歩幅 ―長命の者の戸惑い―
ドラクロワ城を包む空気は、いつしか鋭い透明感を帯びていた。
初冬の気配が混じり始めた、秋の終わり。
西塔の窓辺では、アマンダが手入れを続けている星灯り草が、青白い光を宿し、石造りの回廊へ幻想的な陰影を落としている。
その回廊を歩く足音は、軽やかながらも危うい、幼子の響きではなくなった。
幼い頃の柔らかな丸みは面影に留まり、背はすらりと伸びている。
セレスティアは、十五歳になっていた。
歩く姿には、魔女の血がもたらす優雅さと、幻獣の血が宿す静かな力強さが同居している。
漆黒の髪と尾の先端には深い蒼の毛並みが混じり、髪や蒼い瞳の奥には、変わらず星屑が瞬いている。
父譲りの獣の耳は、感情の機微を鋭く拾う。
両親から受け継いだ端正な顔立ちは、成長と共に、完成された美しさへと近づきつつあった。
西塔の一室で、セレスティアは荷物を整理していた。
使い古された木箱の中から現れるのは、彼女の過去の断片たちだ。
ピピが几帳面すぎるほど丁寧に、箱に詰めて保存していた、指先で摘めるほど小さな幼児用の革靴。
遊び疲れて放り出したままだった、星形の石の玩具。
アマンダと一緒に作った、今はすっかり乾燥して、琥珀色になった押し花。
そして、まだ文字も覚えたてだった自分が、懸命になぞった星図の写し。
「……こんなに小さかったの?」
セレスティアは、手のひらに乗るほどの靴を、不思議そうに見つめた。
傍らで箱を整理していたピピは、変わらぬ少年の姿で、くすくすと喉を鳴らす。
「小さかったんですよ。信じられないくらいあちこち動き回って、僕の大事な図面を何度、涎まみれの玩具にされたことか」
呆れたような言い草だが、その灰色の瞳には隠しきれない慈しみが滲んでいる。
「えへへ、やめてよ。恥ずかしいなぁ」
セレスティアは苦笑しながら、自分の掌と小さな靴を見比べた。
成長というものは、毎日鏡を見ていても気づかない。
けれどこうして、物として過去を突きつけられると実感する。
時間が自分の身体を確かに作り替え、前へと押し進めてきたのだと、胸に沈む。
ふと、セレスティアは窓硝子に映った自分の姿を見た。
かつては窓枠に手をかけるだけで精一杯だった場所に、今は自然に指が届く。
父の尾にしがみついて運ばれていた自分は、もういない。
「戻ったぞ。何やってんだ?」
ふいに、背後から声がした。
振り返ると、訓練から戻ったばかりのルシアンが立っていた。
濃藍の髪や耳も、鋭くも深い、サファイアブルーの瞳も。
体格も、低く優しい声も、しなやかな尾も。
時が止まったかのような、峻烈な肉体。
彼を構成するすべてが、セレスティアの記憶にある父のままであった。
「いろいろ、昔のものを片づけていたの。お父様、本当に変わらないね」
深い意味はなかった。
ただ、自分の背が伸びたことと対比して、無意識に漏れた言葉だ。
だが、それを聞いたルシアンは、言葉を失って動きを止めた。
幻獣の血、番である魔女との魔力共生、そして蒼角を介した循環。
それらが彼の時間を、普通の人間の尺度から切り離している。
彼にとっては自明の理だ。
だが、ルシアンは雑には受け流せずにいた。
愛娘が初めて、その不変の不気味さに触れた瞬間に立ち会っているのだと、気づいていたからだった。
陽光が、冬を予感させる冷たい輝きとなって、庭園へ降り注ぐ午後。
セレスティアは、ベルローズと並んで、薔薇の花がらを切り落としていた。
ベルローズもまた、娘の記憶にある母の姿を、一片も違えず保っている。
漆黒の髪、燃えるような深紅の瞳、そして一部が蒼く結晶化した漆黒の角。
彼女は、時間の流れから切り離された黒薔薇のように、そこに佇んでいた。
自分の手は大きくなり、髪は伸び、身体は少女から大人への境界線を越えようとしている。
それなのに、母は、父は、精霊たちは――。
どうして、あの頃と同じ姿で見守り続けているのか。
その違和感は、明確な恐怖ではなかったけれど、小さな棘が刺さったように、歩くたびに胸の奥をちくりと突く。
「お母様も……、ずっと同じなの?」
剪定鋏を動かすベルローズの手元が止まる。
彼女は顔を上げず、けれど静かな声色で答えた。
「ええ、そうね。……私たちの時間は、人間のものとは少し歩幅が違うの」
離れた場所で、ルシアンもまたその会話を、耳を澄ませて聞いていた。
ベルローズは静かに続けた。
セレスティアもまた、いずれ成長の速度を緩め、ある時点で外見の変化が止まるだろう、と。
幻獣と魔女の命を継ぎ、星と月の魔力を併せ持つ。
彼女は、普通の人間の寿命という短い鎖には繋がれていないのだ。
「そうなの?」
十五歳のセレスティアには、百年や千年という時間の質量は、まだ想像の域を出ない。
ただ、自分の家族がこの世界において異質であり、永遠に等しい旅路を共にする存在なのだと、ぼんやりと理解し始めていた。
「変わらないんじゃありませんよ。時間の流れ方が違うんです」
いつの間にか、ピピとアマンダも傍に寄っていた。
かつては、彼女を育てていた精霊たち。
彼らもまた、見た目だけで判断すれば、今や彼女の友人のように見えるほど、変わらぬ姿で微笑んでいる。
「城の石壁だって、見た目には変わらなくても、内側には何百年分の雨の跡や、風の記憶を蓄えています。それは僕も同じ。蓄えているものは、確実に増えている」
「古い木も、若木よりゆっくりと変わります」
アマンダは枯れ葉を拾い上げ、それを柔らかな手つきで弄びながら語る。
「でも、季節を知らないわけではありません。根は深く伸び、年輪が刻まれている。私たちは、セレスティア様とずっと一緒にいます。流れる速度を合わせながら」
ピピとアマンダの言葉は、陽だまりのように優しい。
けれどセレスティアの心には、かすかな不安が残った。
自分もいずれ変わらなくなるなら、今のこの成長していく自分は、どこへ消えるのか。
永い時間の中で、自分はどれほどのものを見送り、どれほど多くの孤独を呑み込まねばならないのか。
夕方、西塔の最上階。
セレスティアは一人、古い星図を広げていた。
幼いころは、美しい絵として眺めていた星座の記録を、今では一族の知識として読み解けるようになっている。
星々は、地上から見れば不動の宝石に見える。
だが、悠久の時の中では、位置を変え、光を失い、新しく産声を上げている。
変わらないものなど、本当はないのかもしれない。
ただ、人によって見える速度が違うだけなのだろうか。
ふいに、重いノックの音が響いた。
「はい、どうぞ?」
セレスティアの了承を得て入室してきたのは、ルシアンだった。
彼は娘の姿を、蒼い瞳でじっと見つめると、静かに問いかけた。
「怖くなったのか?」
彼は、細かい理論は語らない。
それでも娘が抱える不安を、その獣特有の嗅覚と耳の動きで、正確に察知していた。
「うーん、……よくわからないの。でも、変な感じ」
「…………」
「私だけが変わっているみたいで、取り残されるような、追い越していくような……」
ルシアンは隣へ立ち、星図ではなく、窓の外の夜空を見上げた。
そして、大きな手で彼女の頭を少し乱暴に、けれど丁寧に撫でた。
「お前だけじゃねぇよ。俺も、お前の母さんも、ピピもアマンダも……、ちゃんと変わってる。ただ、外側から見えにくいだけだ」
ルシアンは真剣な眼差しで、娘を見つめ直す。
「何百年経とうが、お前は俺たちの娘だ。形が変わろうが変わるまいが、その事実は死ぬまで、いや、死んでも変わらねぇ」
甘さのない、けれど逃げ場のない確信。
セレスティアはその不器用な言葉に、錨を下ろしたような安心感を覚えた。
『何百年』という時間の重さは、まだ胸の奥で冷たく沈んでいる。
けれど、両親が、精霊たちがそばにいること。
自分もまた、彼らと同じ永い時間を歩いていく存在なのだということ。
その両方を、彼女は冷たい空気と共に吸い込んだ。
再びノックの音が響き、ベルローズ、ピピとアマンダも、セレスティアの私室を訪れた。
「どうしたの? みんな揃って」
「まだ、お部屋の整頓が終わってませんでしたからね」
ピピは、セレスティアが父との対話で、わずかな安心を得たことを察したようだった。
彼は目元を少し緩めながら、古い幼児服を大切に箱へしまい込んだ。
ベルローズは何も語らず、少し寒そうにしていたセレスティアの肩へ、自らの香りが残る漆黒のショールを掛ける。
アマンダは窓辺に、新しい星灯り草をそっと飾った。
セレスティアは、箱の中に仕舞われた小さな靴と、今の自分の足元を見比べた。
成長とは、ただ失うことではない。
かつては見上げるだけだった夜空の問いへ、自らの意志で手を伸ばせるようになることだ。
窓の外では、秋の夜空に星が瞬いていた。
星は変わらぬ顔をして、見えない時間の底で、少しずつ巡っている。
セレスティアは、不変の父と母の間に立ち、その光を見上げた。
まだ理解しきれない永い時間の入口へ足を踏み出した、一人の少女として。
彼女の瞳に宿る星屑の輝きが、夜空の瞬きと重なる。
ドラクロワ城の、新しく永い夜が、静かに過ぎてゆく。




