第19話:帰る場所 ―今日のお土産は林檎です―
交易拠点へ降りた、冬の陽光は短い。
空は、まだ午後だというのに、薄い鉛色を帯び始めていた。
市場を吹き抜ける風には、雪の予兆にも似た冷気が混じっている。
人々は外套の襟元を寄せ合いながら、日暮れ前に必要な買い物を終えようと、忙しなく行き交う。
ドラクロワの荷車は、すでに大半の積荷を卸し終えていた。
空になった木箱と、代わりに積み込まれた生活物資が、整然と荷台へ並び始めている。
保存用の穀物、上質な羊皮紙。
セレスティアが読みたがっていた、新しい星図の写本。
ベルローズが愛飲している、紅茶の茶葉が詰まった袋。
アマンダが庭に植えたいと頼んだ花の種や、ピピが鍛冶師へ依頼していた工具類。
ルシアンは、個人的な品をあまり欲しがらない。
だが、「どうせ無頓着だから」とベルローズに依頼されたピピが、訓練後に使うための、吸水性の高い綿布を購入し、丁寧に畳んで積み込んでいた。
生き延びるためだけに閉ざされていた城が、今では確かな暮らしを営んでいると感じさせる荷物ばかりだった。
「やぁ、ルシアンさん。ピピさんも。今からお帰りかい?」
不意に呼び止められ、ルシアンが振り返る。
ピピは笑みを浮かべ、片手を上げて応えた。
立っていたのは、この交易拠点で長く商いを続けている、年配の商人だった。
冬用の厚い外套を纏ったその男は、ルシアンの姿を見ても怯えることはない。
むしろ親しみ深そうに、目尻へ皺を刻んでいる。
「セレスティア嬢は、元気にしてるかい?」
その問いに、ルシアンの手が一瞬だけ止まった。
警戒とも、戸惑いともつかない沈黙が落ちる。
だが、他人に娘の名を呼ばれても、唸り声を上げて威嚇したりはしない。
彼はサファイアブルーの瞳を和らげ、短く息を吐いて答えた。
「ああ。相変わらず、やかましいくらい元気にしてる」
言葉とは裏腹に、その声音には羽毛のような柔らかさが混じっていた。
この数年で、セレスティアという存在もまた、禁忌の森のドラクロワの娘として知られるようになっていた。
時折ルシアンに同行して、市場へ現れる彼女。
その凛とした美しさと、触れた草花を星屑のように光らせる不思議な魔力で、人々の心を静かに掴んでいる。
「それは良かった。今日は真っ赤で蜜の詰まった、いい林檎が入ったんだ。少々形は悪いが、味は保証するよ。見てみな」
商人が差し出した籠には、冬の陽光を反射して、艶やかに光る林檎が盛られていた。
外界の陽射しを、たっぷりと吸い込んだ果実。
常に深い魔力の霧に包まれている禁忌の森の中では、まず手に入らない。
ルシアンの脳裏には、セレスティアが「わぁ、おいしそう」と目を輝かせ、尾を忙しなく振る光景が、鮮明に浮かんでいた。
幼い頃から彼女は、光るものや、鮮やかな色彩を好んできた。
これを見せれば、きっと夕食の後の食堂が、彼女の弾んだ声で満たされるだろう。
そう考えたときには、ルシアンの右手はほとんど無意識のうちに、外套の懐へと滑り込んでいた。
「貰ってく。いくらだ?」
「いやいや、金はいいんだ。これはいつもの礼みたいなもんだよ。この前の薬草、本当に助かったんだ。うちの孫の咳もすっかり良くなってね」
商人は林檎の籠を、ルシアンの手に押し付けようとしたが、ルシアンはそれを丁寧かつ頑なに押し留める。
代わりに小さな革袋から、親指ほどの大きさの結晶を取り出した。
「……そう言われてもな。代わりにこの魔石でも持ってけよ。熱効率の良いやつだ。冬の暖炉にはちょうどいいだろ」
差し出されたのは、ドラクロワ城の地下からピピによって採掘された、小さな魔石だ。
ルシアンの蒼炎の魔力で、加工が施されている。
暖炉へ組み込めば、普通の薪より遥かに長時間、安定した熱を放ち続けてくれる。
市場の取引価格からすれば、林檎の籠よりも遥かに高価な代物だ。
だがルシアンにとっては、娘の喜ぶ顔という、何物にも代えがたい価値への、正当な対価だった。
「おぉ、助かるが……、いいのかい? これこそ高すぎるんじゃ?」
「いや。俺にとっちゃ、セレスティアが喜ぶ方が価値があるからな。またいいのが入ったら声かけてくれ」
老商人が感嘆の声を漏らしながら、大切に魔石を懐に仕舞い込む。
それを横目に、ルシアンは無造作を装って、林檎の籠を荷車に乗せた。
林檎同士がぶつかって傷つかないよう、厚手の布を丁寧に敷き直す手つきは、驚くほど繊細だ。
ピピはその一連の流れを、荷車の反対側で、腕を組んで眺めていた。
淡々と応じながらも、家族の話題になると、ルシアンの警戒心はどこかへ霧散する。
その言葉の端々に、本人が隠そうとしても隠しきれない情熱が宿っているのを、ピピは見逃さなかった。
(……本当に、変わったよね。ルシアン)
ピピは温かな眼差しで、相棒の濃藍の尾が、林檎を護るようにゆらりと揺れるのを見つめた。
世界を憎み、積極的には言葉を交わさなかった幻獣が、今では馴染みの商人と娘について語らっている。
その光景は、どんな強力な魔法よりも、この地が平和へと向かっていることを証明していた。
市場の奥では相変わらず、王都の権力争いや、残党たちのきな臭い動向といった外の世界の醜聞が、絶えず囁かれている。
しかし、ルシアンはそれらに対し、ほとんど関心を示さなかった。
今の彼にとって重要なのは、日が落ちて森が冷え切る前に、この仕事を終えられるかどうか。
それだけだった。
「……番と娘が待ってんだ。あと、ついでにアマンダもな。こんなところで油を売ってる時間はねぇんだよ」
荷台の固定紐を乱暴に締めながら言うルシアンに、ピピがわざとらしく眉を跳ね上げた。
「アマンダだけ、扱いが随分と雑じゃない?」
「おい。……本人に聞こえてたら面倒だから黙ってろ」
「アマンダって森のことはだいたいわかってるし、聞いてるかもよ。でも絶対あとで、直接本人に報告してあげよっと」
「ピピ……」
低く唸るルシアンの耳が、ぴくりと動く。
だが、その怒気には刺すような鋭さはなく、どこか温かな体温を持っていた。
ピピは軽い足取りでルシアンを小気味よく受け流すと、霧が流れる街道を歩き出す。
帰路につく頃、禁忌の森には、深い夕闇が降り始めていた。
積み込まれた林檎の赤が、薄闇の中で静かに浮かび上がっている。
森の境界を越えると、外界のざわめきは、瞬く間に遠ざかっていく。
湿った土の匂いと、微かに発光する花々の群生が彼らを迎える。
ルシアンはそこでようやく、無意識に張っていた神経を、少しだけ緩めることができた。
市場では、誰もが彼を伝説や英雄として、あるいは得体の知れない強者として見ていた。
だが、ドラクロワ城へ戻れば、そこには別の役割が待っている。
帰りの遅さを眉を寄せて責めながらも、既に暖炉の傍に温かい茶を用意しているベルローズ。
新しく読み解いた星図の成果を自慢げに語るため、回廊を駆けてくるセレスティア。
そして、静かな眼差しで森の恵みを整理しながら、彼らの帰還を空気の揺れで察知しているアマンダ。
ここでのルシアンは、英雄とも怪物とも違う。
不器用で口が悪く、けれど誰よりも家族を愛する一人の父親であり、あの魔女の番でもあり。
ドラクロワ城という場所を構成する、不可欠な一員だった。
森の木々の隙間から、ドラクロワ城の鋭い尖塔が見え始めた瞬間。
ルシアンの尾が無意識のうちに、ゆるやかに左右に揺れた。
ピピはそれを横目で見ながら、あえて何も言わず、ただ同じ歩調で歩き続けた。
帰るべき場所も、守るべき約束も持たなかった孤独な幻獣が今、家へと急ぐ存在になっている。
その変化こそ、何より価値のある真実だと、石の精霊は静かな充足と共に理解していた。
城の窓から漏れる灯りが、深い森の闇を優しく射抜き、二人を迎える灯台のように輝いている。
「お父様、ピピ、おかえりなさい!」
城のホールに足を踏み入れるなり、セレスティアが駆けてきた。
後ろからは、ベルローズとアマンダがゆっくりと続いている。
ルシアンは林檎の籠を、わざとぞんざいに、セレスティアの方へと差し出した。
「お前によろしくだとよ」
「わぁ……! 真っ赤で綺麗で、おいしそう! ありがとう、お父様」
案の定、期待していた通りの。
いや、期待以上の歓声を上げて林檎を受け取る娘の姿を見て、ルシアンはふいと視線を逸らした。
そしてその大きな耳を満足げに、誇らしく動かすのだった。




